第2話 懐かしい声

 響き渡る蝉の合唱…。

 日曜日、僕は書店へと足を運んでいた。文芸コーナに向かう。

 そこから、【橋本よる】という作家の本を手に取った。

「人間が陥る罠…」

 新刊だ。

 僕はそれ一つを手にとって、レジへと足を運んだ。

 

 橋本よるはノンフィクション作家であり、小説家でもある。ノンフィクションの方が著作数が圧倒的に多いが、僕の好みではない。僕が求めているのは、彼女の書く暗く救いのないダークファンタジー小説。シリーズ物はなく、常に単発。

 彼女の小説を僕は去年から集め始めた。

 彼女の作品には常に、哲学的なテーマと、それに伴った不思議な存在が出てくる。その中でも、僕が一番好感を持てたのは不老不死に対する考え方だった。

 彼女は作中で、このような言葉を滑らせている。

【人の夢不老不死。それはきっと、人々が思っている程悪いものではない。不老不死が在るということは、すなわち不老不死が存在できる環境があるということだ。環境さえあるのなら、幸福とは行かずとも不老不死でも生きて行ける。その時、不老不死という属性は大きなアドバンテージとなるだろう】

 僕にとって、この言葉の意味するところは正直言って理解しきれていない。

 ただ、不老不死を真正面から肯定している。その純粋さというか、子どもの夢を笑わない態度が好きだった。


 家に帰ると、母親の軽自動車が駐車場に止めてあった。僕はポケットからスマホを取り出し、野々原姫にラインをする。

『今から遊びに行ってもいい?』

 すぐに既読がついた。

『え、急だね。いいよ。待ってるね』

 僕は自転車に乗って、そのまま野々原姫の自宅に向かった。


 野ノ原姫の自宅は僕の家の二倍ほどの敷地面積を誇っていた。いわゆる豪邸である。白く塗った壁が酷く印象的で、真新しい。 

 インターフォンを押すと、野々原姫の声がした。

「はいはーい。ちょっとまってて」

 それから数秒も立たないうちに扉が開く。

「久しぶり」

「金曜日にあったばかりだよ?ささ、入って」

 野々原の手に招かれ、玄関へと進む。

 広い居間を通り過ぎ、二階にある野々原姫の部屋に入った。ピンク色の絨毯の上にローテーブルがある。そこにおかしの入った籠とお茶の入ったペットボトル、二つの紙コップが置かれていた。

 僕はいつもの定位置に腰をかける。

「今日はどうしたの?」

「無償に会いたくなってね」

 僕は甘い言葉をかける。

「ふぅん…そう言うことも言うんだね、賢治くんって。嬉しい」

 野ノ原姫は輝かしい笑顔を浮かべる。

「まぁね。もうすぐ恋人になるんだし」

 僕は彼女に家庭の事を話したことがない。

 これから先もそうなのか、何処かで話すようになるのか…今の僕には判断がつかない。

「そうだねぇ。なんか不思議な気分」

 野々原姫は紙コップにお茶を注ぎながら答える。

「ねぇ、訊いてもいい?」

「ん?何?」

 野々原は注いだ紙コップを僕に渡してくれた。

「あのさ、どうして僕の恋人になりたいと思ったの?」

「だって」野々原姫は活発に声を発する。「そうじゃなきゃ、おかしいと思ったんだもん」

「おかしい?」

「うん。こんなに長くって言うか、ずっと昔から遊んでて、喧嘩もして、学校でも毎日のように話してさ、私友達でも賢治くん以上に付き合いの長い人いないじゃん。それで恋人じゃないのって、おかしいなって思ったの」

「それじゃあ、姫は僕のことが好きで恋人になったわけじゃないんだね?」

 言って気づく。

 これは言ってはいけない質問だった。

「そうじゃないよ。ちゃんと好きだよ」

 野々原姫は意地を張った表情を浮かべる。

 頬をふっくらと膨らませて、何処かのアイドルのように目を細める。

 その顔は、僕への信頼を意味している。

「じゃあさぁ、賢治くんはどうなの?私の事好きじゃないの?」

「そんなことはないよ」

 僕は笑顔を作る。

「好きだよ」

 本心から出た言葉――だと思う。

 僕は野々原姫を好きなのかはわからない。

 いや、本気で好きになっていいのかがわからない。

「うふふ。嬉しいなぁ」

 野々原姫は細い指先を使って長く延びた後ろ髪を弄り始める。彼女のそのてれ顔が僕は好きだ。

「ねぇねぇ、それなに?」

 野々原が僕の持ってきた紙袋を指差した。

「小説だよ」

「小説ほんと好きだよね?いつからだっけ?」

「小学四年くらいからかな」

「私全く読まないなぁ。あ、でも賢治くんの勧めだったら読むよ?」

「これは進められないよ。暗い話だから。僕もまだ読んでないけど」

「読んでないのにわかるんだ」

「属性はわかるからね。ほら」と、僕は小説を袋からだした。見出しに首を折られた、人間そっくりの人形が暗闇の背景に浮きぼられている。「怖いでしょ」

「ほんとに怖いね。よく読めるなぁ――あ、そう言えば」

 野々原姫は立ち上がる。それから、勉強机に付属する鍵付きの引き出しを開放した。その中から、一冊の漫画を取り出す。

 彼女の部屋には、等身大を超える本棚が二つある。だが、その全ては専門書で埋まっており、彼女の父親が置いたものだった。

「これこれ。前にも見せたっけ。私が唯一持ってる本」

 スッ、と出された漫画。

 鎌を持った長身の黒装束の男の表紙。

 手に取る。

 紙全体が煤けて茶色がかっている。

「古い漫画だね」

「うん。私が持ってるのこれしか無いから本が買える賢治くんがうらやましいよ」

「小説は禁止されてないんだよね?」

「無いけど…やっぱ私、小説ダメなんだよね。もう活字無理って感じ」

「姫らしいや」

 この、姫、という呼び方は僕にしか許されていない。

 皆、野々原さんと呼ぶ。

 姫、という名前がそうさせている。

「ふふふ。ありがとう」

 そうして、さて、と野々原姫はハンドバッグから、問題集を取り出した。

「また勉強か」

 僕は呆れて言う。

「私もやりたくないんだけど、けど今日塾休んじゃってるし」

「休んじゃってるしって、何時からなの?」

「二時から?」

「今は一時五十分。…ギリギリ間に合うね」

「間に合わなくていいの。お父さんも、賢治くんと勉強してれば塾は行かなくて良いって言ってるし。塾っていうのは勉強をするための一装置でしか無いんだから、無理していかなくてもいいんだぞ」

「いつも思うんだけど、僕って過大評価されてない?」

「んじゃあ聞くけど、この前の中間テスト何点?」

「五教科合計四百九十三点」

「そりゃあ評価されるでしょ。それで塾にも行ってないんだから」

「やることが他にないだけだよ」

「この天才め!」

 野々原姫は嬉しそうな顔をしながら、僕に教えてほしい問題を指さしていく。僕はそれに答えつつ、たまにわからないところがあれば一緒に問題を考える。

 野々原姫はけして頭の悪い娘ではない。先程は僕を立てたが、彼女だってこの前の中間テストで四百八十二点を取っている。

 僕との差など、微々たるものだ。

 野々原姫の両親は父親が外科医で母親が看護師。両方とも医学部を出ている。それで頭が悪くなるわけがない。

 将来は医者を目指していて、そのために日々勉強をしなければいけない、という使命感すら持っている。

 それなのに、彼女は昔から僕を頼ってばかりいた。


 昔から何か怖いことがあると、そのたびに報告をして泣きつくし、僕が卵焼きを作ってみせると、それだけですごいすごいと言ってくれる。

 今だってそう。なぜか僕が野々原姫に勉強を教えている。

 彼女は何処か、僕のことをスーパーマンだと思っているフシがある。

「姫はさ、将来僕と添い遂げるつもりはあるの?」

「え、何急に。添い遂げる?」

「そう」

「あるよ。自信ある」

 野々原姫は自信たっぷりにそう答えた。

「ずっと賢治くんを愛する自信あるもん私。そうじゃなきゃ、恋人になって、なんて言わないよ」

「そっか。聞けてよかった」

 僕は朗らかに答える。

 僕はどうだろうな。

 答えは出そうになかった。

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