僕たちの秘密基地
一色雅美
中学生編
1章 滞る日々
第1話 興味のない世界
少女ゆるりとした黒髪が、窓辺から差し込む淡い夕焼けに煌々と照らされている。中学二年の、六月の夏。僕は野々原姫と誰もいない教室で勉強をしていた。
「ねぇ、賢治くん」
不意に、眼の前に座る野々原が顔をあげた。鋭い瞳が、僕を見入る。
「何?」
「来月の三日。私の誕生日なんだけど、祝ってくれない?」
野々原は餌を欲しがる猫のような、甘ったるい撫で声を出した。
女性専用のいやらしい声だ。
これで手を胸の前でこすり合わせ、上目遣いをすれば完璧だろう。
「いいけど。プレゼントは何がほしい?」
僕はペンを持ち直し、問題集に顔を向ける。
彼女の提案を受けた時点で、僕は彼女の話を聞いている判定になる。
「その、一つ、約束してほしいことがあるんだけど」
野々原は少し気を使った声を出す。
少し、だけど。
「うん。聞くよ」
「その日から、私の恋人になってくれないかな?」
手が止まった。
僕は顔を上げる。
「わかった」
そう言ってから、僕はその先の事を考える。
野ノ原姫の恋人。それは、今のこの関係をどう変化させるのだろうか。
僕の人生に、どういう影響を及ぼすのだろうか。
「ありがとう。さすが賢治くん」
野々原は勝手に納得して、それからここ教えて、と僕に問題の解き方を聞いてきた。
「そこはね――」
僕は野々原の質問に答えてやる。
僕は毎日一歩ずつ、野々原姫という幼馴染と何気ない関係を築いてきた。
だが、今日のその問は、一歩ではなく、百歩に近い威力を持っていた。
六時を回った頃に家に着いた。扉を開けると、薄暗い玄関とその奥に続く廊下が見える。地味な一軒家。
「おっ帰りー!お兄ちゃん!」
妹のふゆかが、勢いを持って居間の扉から飛び出してきた。まだ小学四年生の彼女は、溌剌さをその身体で表現できている。
「ただいま。ご飯は?」
「あるよ。今日はね、オムライス。私の好物!」
「そうか。良かったな」
母親は、時折そう言うアピールをする。
自分は娘の好物を作るほど、娘を愛しています。
胡散臭い。
三日に一度は作り置きすらしないくせに。
二階にある自室にリュックを置いてから、居間に戻った。ふゆかが皿に盛られたオムライスを二つ、食卓に運んでいた。
スプーンを並べ、ケチャップで、ふゆ、おに、と文字を書く。当然僕は、おに、と書かれた方をもらった。
「いただきます」
席につくと、二人で合唱をする。
そうしてすぐ、ふゆかの怒涛の喋りが始まった。
「お兄ちゃん、私今日体育の授業で縄跳びをしたんだ。二重跳びがね、なんとね、二十回もできたの!すごくない?すごいでしょ!」
「すごいね。さすがふゆかだ」
「でしょ!でしょ!。後ね、後ね、今日ゆかちゃんと遊んだんだけどね、その時にすっごい高そうなプリンを食べさせてもらったの。すっごい美味しかったんだよ。また食べたいねって言ってたらね、おばさんが、それじゃあまた買っておいてあげるって言ってくれてね。もう私そのプリンを食べるのが楽しみすぎて、待ち切りれないよぉ」
ふゆかは手よりも口が動くタイプだ。
僕はふゆかの話を聞きながら、相槌を打って、パクパクとご飯を食べ進める。
「お兄ちゃんもそのプリンだべてみたいな」
「うん。ぜひぜひ食べて!極上プリンって名前だった!今度お母さんに買ってもらおうかな」
お母さん。
「…そうだね」
僕は頷く。
極上プリンか。
後で僕が買っておこう。
「最近母さんはどう?元気?」
「うん。元気だよ。ほら、夜にずっとバラエティ番組をずっと見てるもん」
「そうか。そうだよね。ごちそうさま」
「え、もう食べたの?」
「そうだよ。ふゆかはゆっくりでいいからね」
「むむ。私だって速く食べれるもん。でもね、オムライスだから慎重に味わって食べてるってだけでぇ」
「わかってるって。お兄ちゃんはその間にちゃちゃっと宿題をやっちゃうから」
「うわっ。それずるーい」
僕は食器を流しに置くと、可愛い妹の声を後ろに二階に上がる。
部屋の冷房を付けてから、ベッドにダイブした。
「まだ、大丈夫かなぁ」
僕の母親はヒステリー持ちだ。
精神障害者と言っても良い。
父さんは働いて家事もしてるんだから、それだけでも立派だ、なんて言っていたけれど僕は母親がそんな立派な存在には到底思えない。
三日に一度は晩御飯は僕が作ってるし、掃除も毎日僕がやっているし、洗濯物だって洗われていない日が多いから、僕がわざわざ早起きして、洗濯機を回して、干している。
なのに。
『勝手に私の物を使わないで!掃除は私がやるから』
中途半端にしかなってないから助けてやってるのに。
僕らを拒絶しやがる。
『だから、さわるなって言ってるでしょ!ああ、もう、やり方がなってない!』
そんなことをほざきやがる。
そして、定期的に僕とふゆかを傷つける。
「ああ…イライラする。早くここから出ていきたい」
僕の幸福なことは二つ。
愛すべき妹が居ること。そして、ここ一月母親と顔を合わせていないこと。
バタンッ、という音で目が覚めた。
一階からふゆかのはしゃぐ声が聞こえる。
「おかえり、お父さん!」
お父さんが帰ってきた。
それもいつものことだ。
「はじめまして」
知らない女の声がした。
僕の意識が一気に覚醒していく。急いでベッドから降り、階段を駆け下りた。
すぐにふゆかの後ろ姿が目に入る。
その向こうに、背の低い、若くておとなしそうな女性がお父さんの隣に立っていた。
「あ、向こうが息子の賢治だ。ふゆか、それに賢治、少し話がある」
お父さんが僕を見て、身勝手にも紹介した。
それも、酷く真面目な顔をして。
「ど、どういう事?」
ふゆかがおばけを見たときみたいに、引きつった声を出した。
「お父さん…」
僕の口からヒュゥと息が抜けていく。
「突然のことで申し訳ないが、前々から考えてたことなんだ」
「えっと、ミチヨって言います。よろしくね」
女性は戸惑いながらも優しげな声で僕らに挨拶をした。
「お母さんは?」
僕は彼女の声を無視した。
「今日は帰ってこない。昔の飲み仲間と飲んでる」
僕はきっと引きつった笑みを浮かべていることだろう。
「いいの?それ?」
「ああ。いいんだ」
お父さんは靴を脱いで、廊下に上がる。
それに、ミチヨという女性が続いた。
僕らはお父さんの指示で、食卓の席に座った。
今までの平穏が嘘のように暗く、黒く、どんよりと落ちぶれていく。
「この人は、俺の会社のパートさんで、家森ミチヨさんだ。紹介をしておこうと思ってな」
「…不倫、だよね?」
僕は思ったことをつぶやいた。
隣りにいるふゆかが、つばを飲み込んでいるのが意識される。
「…まぁな。だが、お前たちのことを思ってのことだ」
僕はミチヨという女性を見つめる。
大人しそうな顔をしている。若干目を伏せつつも、僕らをしっかりと把握しようと努力をしている。確かに、暴れるとか、ヒステリーを起こすとかはしなさそうだ。
年齢はいくつだろう。
三十代前半くらいか。
でも…。
「急だよ」
僕は年上の女性を、誰一人として信用していない。
「わかってる」
お父さんははっきりとした声を出す。
「今日は紹介だけだ。母さんとは、お父さんから話をしておく」
つまり、それは、本当の離婚?
顔がにやける。
とても楽しい響きだった。
「あ、えっと。お母さんはどうなるの?」
ふゆかが凍えるような声でささやいた。
「ふゆか。お前は何も心配しなくていい」
お父さんが優しく言った。
ああ。そうだった。
ふゆかだけはまだ、母親に絶望をしていない。
「…うん」
ふゆかが頭を下げる。
「それじゃあ、ミチヨ。今日はこのくらいで」
「あ、はい」
彼女はゆっくりと立上がる。
「それじぁあ、失礼します」
ミチヨさんは軽くお辞儀をして、そそくさと居間を出ていった。
お父さんが後に続く。
玄関で二・三言会話があると、扉が開き、閉まった。
お父さんが戻ってくる。
「悪かったな」
お父さんの一言が、凍り付いた部屋によく響いた。
「まぁ、いいけどさ」
僕は吐き捨てるように言った。
「ふゆかも、唐突なことかもしれんが、お前もそっちの方がいいと思ってな。その…将来的に」
お父さんは困った顔を浮かべた。
お父さん自身、僕たちにどう接するべきか迷っているみたいだった。
「まぁ、話はまた今度聞くよ」
僕は席を立った。
あの陰鬱な空間にいつまでも居たくなかった。
今日は他にも考えることがあるというのに…。
階段を登ろうとすると、ねぇ、と声がした。振り返ると、ふゆかがついてきていた。
「どうした?」
「あのさ。お母さんは…その、帰って来る、よね?」
「ああ。大丈夫さ」
僕は答えてすぐ、上を向く。
「そっかぁ」
ふゆかの可愛いため息が聞こえる。
「うん。そうだよ」
僕は駆け足で階段を上がった。
嘘がバレるかもしれない。
扉を閉めると、もう一度ベッドに転がった。
小さく息を吐く。
心臓が高鳴っていた。
久しぶりに、良い気分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます