第7話 父子と発煙筒
長いような短いような時間が過ぎ去った。結局逢沢とは一言も喋ることなく、見慣れた通りに差し掛かっていた。先月までインターネットカフェだった建物が今やフィットネスジムとして息を吹き返しており、やたらと大きな看板が周囲一体に幅を利かせていた。先に見える物流センターが十数年前まではパチンコ屋だった。そのせいですぐ傍を流れる水路にメダルやらパチンコの玉が沢山沈んでいた。初めてその光景を目にした時、私はまだ小学生で水路に沈んだメダルが全部百円玉に見えて興奮したのをよく覚えている。そんな当時の面影は一切感じられない懐かしの水路は、物流センターと老人ホームに挟まれて窮屈そうだった。
先日とうとうアダルトビデオ屋も潰れてしまった。子供の頃は不思議な気持ちで、その佇まいを登下校の度に目にしていた。何も分からないなりにも近寄りがたい雰囲気は、感じ取っていたように思う。別にたいした思い出はないのだけれど、私は一度だけその店に訪れたことがあった。
あの日はどうにも性器が活発的でどうにもならなかった。だからインターネットで様々な性的なコンテンツを見て回っていた。その中でも特に興味を引いたのが、大人の玩具だった。俗に言うオナホールってやつだ。当時、私はどうかしていたようでオナホールの中に性器を突っ込むために必死になっていた。どうにかして今日中にオナホールを手に入れたい。そんな思いを一心に背負って、先ほど眼前を通り過ぎたアダルトビデオ屋に足を踏み入れた。実を言うとそのような大人の店に入ったことすらなかったので、妙な緊張感に襲われたのをよく覚えている。それからキョロキョロと店内を物色した後、ネットで見繕っておいた例の物をレジに持っていった。レジには黒いシートのような物がかかっており、店員と顔を合わせることがないようにと配慮されていた。家に帰ってから実際に性器を突っ込んでみたが、想像していたような快感は得られなかった。今思えば期待しすぎていた自分にも非があるように思えてきたのだが、その非を認めた先にある何かに意味を見いだせなかったので考えるのをやめた。
見慣れた景色が次々と通り過ぎてゆくのが、まるで走馬灯みたいで恐怖にも似た心拍数の上昇を感じた。
「なあ俺のこの冷房で冷やされた指先は後ろに置いてある物と比べてどっちが冷たいと思う?」そう言って私は右手の指先を徐に逢沢の方に向けた。逢沢は指先を一瞥するとすぐにまた前方に向き直り、数秒前の記憶を頼りにしながらそっと左手で私の人差し指に触れた。逢沢は迷うことなく後部座席の方を指さした。丁度曲の間奏が終わって、また歌声が充満し始めた。
「そうか。これより冷たいのなら、死んでいるのかどうかの判断は簡単そうだな」私は独り言のように呟いて、走馬灯の続きをぼんやりと眺めた。走馬灯の癖して人っ子一人現れやしない。これが都会だったら走馬灯にしては人が多すぎるなんて皮肉なことになってしまうのだろう。人の気配がないのは雨のせいではない。この町はそういう町なのだ。気づけば車すらほとんど走っていないではないか。そんな真夜中でもないだろうに。そう思いながら車のデジタル時計を確認した。時刻は二十四時を回って三十分が経過していた。なるほど。零時三十分であれば、この車通りの少なさも不思議ではない。しかしどこでそんな長い道草を食ったかな。この凄まじいほどの体内時計のずれは、学生時代アルバイトでやったライン作業を思い出させた。あの仕事は地獄だった。
無造作に流れてくる製品の欠品を仕分けするだかなんだかで、所謂お局様にこき使われた。自由にトイレも行きづらかったし、何より時間が経つのが遅かった。三十分経ったと思って、時計をみたら十分も経過していないなんてのが日常だった。だからすぐに辞めてしまったのだが、おかげで就職する上で非常に役立つ経験にはなった。間違ってもライン作業だけは安易に選ばないようにと、社会経験の乏しい工業高校生だった私にとっては重要な判断基準になってくれたわけだ。その選択の結果、まさかあんな大量の石を素手で運ばれされる羽目になるとは夢にも思っていなかっただろう。令和の時代に素手って馬鹿みたいだ。そら歴史を振り返ってみれば、たいした肉体労働ではないと自分でも思う。問題はそういうことではなくて、素手という点と予期せぬ出来事という点に焦点を当てるべきなのだ。
丸七年間、同じような業務をこなしているうちにあとこの作業を二十年ぐらい続けて、そしたらデスク業務に回されてというような想像を勝手に膨らませてしまっていたようだ。まさか自分が石を運ぶ羽目になるなんて微塵も思っていなかったらしい。しかし現実はそうではなくて、圧倒的な想像力の欠如を悔いる必要もなくなってしまった自分へかける言葉も見つからないまま日を跨いでしまったのだ。いつも横目で見ていたあの人達の側に回ってしまうのが嫌だったんだ。週に一度やってきては石を運び出す彼らの姿を見留めては、あいつらよりはましだと自分に言い聞かせて生きてきたのに、立場ってのはこうも簡単に変わるものかと思った。彼らでさえ一輪車といった文明の利器を使っていたのに自分は素手でやっているのが情けなかった。
それでも家族がいれば耐えられると考えていたごく短な昼休みがあって、そんな私の考えを
そうやって視点を変えてみると、向井や逢沢の行動によって救われた命があるのかもしれないと思わざるを得ない。ましてや罪に問うなど到底不可能なことだった。結局人類は滅亡までの長い暇つぶしのために、少数を犠牲にして多数を楽しませるための娯楽を生み出す作業を繰り返す物体に過ぎない。つまり常に多数派が偽善者であって、偽善者の娯楽はその時代に正しいとされている偽善を繰り返して称賛を得ることなのだから、現代のこの有り様も何も不自然なことではなかったのだ。
気づけば雨が止んでいて車内は薄気味悪い静けさがあった。どうやら逢沢の歌声に腐敗を促進させる効能は含まれていなかったらしく、冷房の黴臭さだけが鼻孔を刺激していた。だからといって後ろを見るのは億劫だった。誰が好き好んで赤ん坊の遺体を見たがるというのか。そんな奴も存在するのかもしれないが、仮に存在していたとしても議論に進展が望めるとは思えなかった。「確かこの辺を右に曲がるんだっけ?」逢沢は顎を親指で掻きながら言った。「ああ。曲がった先に大きな守衛所があるから猿でもわかる」守衛所が開いているかどうか定かではない。普通に考えれば閉まっているだろうし、警備員の警戒が一層増す時間帯だ。今から向かえば最上級の怪訝な表情を以てして我々を迎えてくれるだろう。深夜零時四十五分に見知らぬ車と見知らぬ運転手。後部座席には赤ん坊の死体が縛り付けてある。十中八九守衛所を通り抜けることはできないだろう。そんな思いがどこかあって楽観的にこの車に乗り込んでしまったのかもしれない。しかし守衛所は本来あるべき形を失っており、開けっぱなしのゲートの先には肩肘を付いて居眠りに勤しんでいる警備員の姿があった。呆れを通り超した大きな溜息が喉元までやってきたが、寸前でどこかへ消えてしまった。そんな事情を知る由もない逢沢は、平然と守衛所の前を通り過ぎていった。
「おいおい広すぎやしないかい。東西南北どこを向いてもプレハブ小屋があるじゃないか。この十字路をどっちに行けばいいのかさっぱりわからないよ」逢沢は止まれの白線の上に停止して、案内を急くようにこちらをチラッと見た。私は考えた。このまま目的地まで案内することは容易いが、果たしてそれで良いだろうか。良いかもしれないし、悪いかもしれないし、良くも悪くもないかもしれない。結論の出ない答えを探し求めて迷子に陥ることは慣れっ子だが、今回ばかりは何かしらの答えを見つけてから動き出したかった。その答えとやらをどこに見出すのか。旧友に協力するだとか、自身の好奇心を満たすだとかこじつけようと思えば出来なくはないだろう。しかし納得のいく答えは見つからず、私の心を見透かしているかのように逢沢はニヤニヤと笑っていた。その顔を見た瞬間、内からとてつもない怒りがこみ上げてくるのを感じた。気色悪い逢沢の顔になのか優柔不断な自身に対してなのかわからないが、沸々と血が騒ぎだした。
抑えようにも抑えがたい怒りをぶつけるように私はダッシュボードを蹴り上げた。蹴り上げた爪先が丁度グローブボックスのノブに当たり支えが外れ、自重によって勢いよく開け放たれたグローブボックスから真っ赤な発炎筒が床に転げ落ちた。私は射精寸前のペニスのような発炎筒を拾い上げて言った。「道案内してやるよ。発炎筒の光についてこい」逢沢は頷くでも首を振るでもなく、ポカンと口を半開きにしてこちらを見ていた。かまうものかと言うように発炎筒を握りしめ、私は車から飛び出した。駆け足で車の前方に回り込み、発炎筒のキャップを捻って本体を取り出した。発炎筒のキャップを本体の後ろ側に取り付け、先端についている着火用の板を本体から取り外した。マッチ棒に着火させるときの要領で、発炎筒の本体の先端と着火用の板を素早く擦りつけた。すると忽ち白い煙が立ち昇り、煙の奥から赤橙色の炎が現れた。
煌々と燃え盛る炎に酔い痴れながら逢沢に手招きするように発炎筒を動かし、私は十字路を左に曲がった。逢沢はパッシングで返事をした。何故怒りの矛先が発炎筒に向いたのかさっぱりわからない。自身の行動を説明するのは難しいなと思う反面、気分はかつてないほどに高揚していた。まるで初めて花火を手にした子供のような感覚だ。無論その興奮を表に出しているわけではない。キャッキャッとはしゃぎ出したい気持ちを押し殺し、冷静を装いながら死体が乗った車を案内する。助手席で道案内をしていればとっくに到着してしまっていたであろう。もしかするとやはり誰かに止めて欲しかったのだろうなと思う。これだけ派手にゆっくりと移動していれば誰かがその行動を見咎め、我々を止めてくれるかもしれない。そんな思いが実は本音として揺蕩っていたのかもしれない。そこに現れた発炎筒がトリガーとなり、粉塵爆発のような現象が私の中で起きてしまったのかもしれない。かもしれない、かもしれないと判然としない気持ちを焼き尽くしてくれと願うように、私は発炎筒を強く握り締めた。
歩幅が広くなり、足の回転が早くなった。しかし後方の車が慌てる様子はなかった。悠々とブレーキペダルから足を外すだけで、アクセルを踏むまでもないことが容易に想像できた。
真っ暗な工場の通りを照らすヘッドライトが背中に熱を感じさせた。つい先ほどまでの大雨が噓のように月が輝いていた。まるで月の光が影を創り出しているかのようだ。異なる三つの光は各々の役割を全うしていた。もう見ることはないと思っていた桜の木が訝しげにこちらを見ていた。私は桜の木から目を逸らすと同時に、右に曲がった。視界に入ってきた忌々しい会社の事務所に向かって歩き出した。
事務所の駐車場の前まで歩みを進め、一番止めずらそうな駐車スペースの中央に発炎筒を投げ捨てた。逢沢は何かを察したように、頭から車を駐車した。車と地面に閉じ込められた発炎筒の光が静かに消えた。バンと音がして逢沢がニヤニヤと笑いながら車から出てきた。何も怒りが湧いてこなかった。だから怒りの原因は迷宮入りすることになるだろう。そんなことを考えている間に逢沢は後部座席を開け、チャイルドシートから死んだ赤ん坊を取り出そうしていた。この先で起こることはある程度予想はしていたが、抱きかかえられた赤ん坊がこちらに向かってきているのを目にした時、強い現実味を帯びた世界に変わった気がした。今から生後間もない死体を粉々に粉砕するのだと思うと、発炎筒が無性に恋しくなった。発炎筒がまだ燃えていた数分前の光景に憧憬の念を抱かざるをえなかった。
「さあ案内してくれ。ロールクラッシャーはどこだ」逢沢は溢れ出る喜々を抑えられないといった様子だった。私は何も言わず、その方へ歩き始めた。あえてゆっくりと歩く訳でもなく、努めて自然体を再現しようとした。いつものように現場に向かうんだと自身に言い聞かせて、薄暗い夜道を歩いた。「本当にやるんだな」私は聞いた。
「勿論だ。何をそんな険しい顔をしているんだ。別に誰かを殺そうって訳じゃない。死んだ物を処分しようって話だろ。そう気負うな」確かになと即答できたならどれほど良かっただろうか。未だに不思議と理性が存在していた。この理性は何のために存在しているのか不思議に思った。逢沢を止めるでもなく、肯定するでもなく、自分だけ逃げ出す訳でもなく嫌だなとだけ思いながら修羅場に向かおうと体を動かし続けている。まるで幽霊に体を乗っ取られているような感じか。いやそんな単純なことではない。もっと複雑な事情なのだ。それは理性と好奇心と希死念慮が折り重なった折紙のようなものだ。赤ん坊が粉砕されることに対する好奇心は行動の軸となり、希死念慮は理性における合理的な思考を失わせ、欠陥品となった理性がここまで導いてくれた。絶妙な感情のバランスを保って私はここまでやってきたのだ。今更そのバランスを変えてしまうことなどできるはずがなかった。
あの日、大地に向かって射精する逢沢という男を享受してしまった瞬間に、私がこうなることは決まってしまったのだ。それを捻じ曲げるのは自分の存在を捻じ曲げるのに等しい行いのように思えた。
ステンレス製のドアノブがいつもより冷たく感じた。「ここがそうか。一人では到底辿り着けないな。地図があっても難儀しそうだ」そう言いながら逢沢は二階建てのプレハブ建屋を見上げていた。私はドアノブを回し、白の塗装が斑点模様のように剝げ落ちてしまっているドアをそっと開けた。相変わらずのもわっとした空気に粉塵が混ざっていていた。その空気に妙な安心感を覚えながら、私は建屋の中に足を踏み入れた。後ろを振り返ると、逢沢が今朝、運び出した石をまじまじと見つめていた。
死体を抱きかかえながら仁王立ちをしているその様は、まるで自分の功績を誇っているかのようだった。膝丈程の石の山脈を眺め終え、ようやく逢沢も建屋の中に入ってきた。「あれが例の君を苦しめた石か。確かに大人の一人や二人苦しめるには十分の量だね。お疲れさん。それにしても不快な空間だな。何より空気が悪いぞ。埃が舞っているみたいだ」そう言って逢沢は目尻に皺を寄せながら、一つ咳払いをした。
「そうだな。実際、目に見えない粒子状の石炭が舞っているからね」そう言って私は薄汚れた水銀灯の電源スイッチを押した。
「それ吸い込んで大丈夫なやつなのか?」
「駄目だよ。肺がんになるリスクが物凄く上がってしまうらしい。だから仕事をするときは粉塵用のマスクを必ず付けているよ」
「おいおい勘弁してくれよ。癌にはなりたくない。さっさと終わらせてここから出ないとな。お前はいいよな。呼吸しなくて良いから」ブラックジョークの域を大きく逸脱した逢沢の言葉に対して、紫色の唇が動くことはなかった。赤ん坊は静かにその言葉を受け入れていた。
「ブラックジョークにしても酷すぎやしないかね。お前が殺したんだろう」
「人聞きの悪いことを言わないでくれよ。これは事故なんだよ。殺すつもりなんてなかった。それより電気がつかないじゃないか。パット見ただけでも六つぐらい電灯があるけど、まさか全部が切れているなんてことがあるのか?」
「知らないのか。水銀灯は明りがつくまでに少し時間がかかるんだよ。待ってればそのうち明るくなるさ」逢沢はふーんと言いながら赤ん坊を床に置き、腕を組んで頭上にある水銀灯を見つめていた。暫くして水銀灯が一斉に明るくなった。
「なあほら言ったろ。世の中のライトがLEDだけだと思うなよ」そう言って私は石が詰め込まれていた箱の中を覗いた。そこにはまだ石が沢山放置されており、川原が途中で作業を投げ出した痕跡が残っていた。口癖のように腰が痛いと言っていたからな。あいつは正しい判断をしたよ。腰痛持ちが一人でこれを全部運んだとしたら、二度と起き上がれない体になってしまうかもしれない。
「なるほどねーこのコンベアで石炭を毎日毎日送っているわけか。んで例のロールなんちゃらってのはどこにあるんだ」
「上の階だよ」逢沢はキョロキョロと周囲を確認し、階段を見つけると赤ん坊を抱えて足早に階段を駆け上がっていった。私は転がっていた凹凸の激しい大きめの白石を掴んで、逢沢の後を追いかけるように階段を上った。
「なんだよその石。何に使うんだ」
「ああ。せっかくだし、赤ん坊と一緒に砕いて貰おうと思ってね。副葬品みたいなもんだ」
「赤ん坊を砕くなんて一言も言ってないんだけどな。まあいいだろう。その案を採用しよう。そうだな俺もなんか副葬品をもってこよう。ちょっと待ってろ」そう言い残して逢沢は階段を駆け下り、建屋から出ていった。都合のいい奴だな。居酒屋での話なんかすっかり忘れて、意気揚々と責任転嫁か。いいご身分だ。だがそれももう少しで終わる。全部終わらせる。
乱雑に置き去りにされた赤ん坊の顔に石炭が付着して黒く汚れていた。すまないね。俺があの時、奴を殺していれば君は生まれてくることはなかったし、蒸し風呂に晒されて死ぬこともなかった。全て私の責任だ。あの世で出会ったら、ありったけの罵倒を浴びせて欲しい。もしあの世に死と似た概念があるのだとしたら殺してくれて構わないし、生まれ変われたのなら是非とも殺しに来てほしい。そうなったら浮かばれそうな気がするから。
私は床に座り込み、そっと赤ん坊の頬に触れた。逢沢の言うようにとても冷たかった。この冷たさはなんと表現するべきか。魂の抜け落ちた冷たさだ。死がわかる冷たさだ。抽象的な表現しかできなかった。触れてみないと分からない。そういう感覚だって多かれ少なかれあるだろう。こんな時に表現力の拙さを悔いても仕方がない。もっと読書をしておけばよかった。そんな場違いな感情が申し訳なさそに引っ込んでいった。
ドタドタと騒がしい足音が聞こえた。「いやー何かいい物はないかと探してみたんだが、特に目ぼしい物がなかったよ。だから代わりと言ってはなんだがこれを持ってきた」逢沢は先端が燃え尽きた発炎筒を手に持っていた。
「副葬品だってのに石と発炎筒の燃えカスって情けない参列者だな」
「仕方ないだろ。こいつの好みなんて分からない」確かに逢沢の言う通りだろう。こいつは将来酒を好きになるかもしれないし、タバコを好きになるかもしれない。父親のことは嫌いになるかもしれない。そんなことは誰にも分からない。間違ったことは言っていない。ただ物凄く間違っているように聞こえるだけだ。死にたいと相談してきた相手にじゃあ死ねばと根も葉もない極論を浴びせているように聞こえるだけだ。
とは言え今更、頭を捻らせて考えあぐねたところで、良い方向に好転するとは思えなかった。我々はもう手遅れなのだ。行くところまで行ってしまったとでも言うべきか、渡ってきたばかりの橋は崩れ落ちてしまっていた。
「確かに分からないけど、一つ妙案がある。副葬品に一番ぴったりなのはお前だと思う」
「それはまた手厳しいことを言うね。死んで償えってことだろうが、それは違うと思うぞ。生き残った奴は生きなきゃいけないんだよ。例えそれが子殺しのサイコパス野郎でもね。そんなことよりもさっさとロールなんちゃらを見せてくれよ」私は返す言葉が見つからず、渋々ロールクラッシャーの点検窓を開けた。ロールクラッシャーは灰色の塗装を纏った鉄製のケーシングの中で眠っていた。ケーシングとは外装という意味で使用され、ここでいうところの機械の本体を覆っている鉄製カバーのことを指している。
「へえ、ご丁寧に全体が覆われていると思ったら、小窓が開けられるようになっているのか。大人がギリギリ通り抜けられるかどうかってところだね」そう言って逢沢は点検窓に目一杯顔を近づけた。
「これは恐しい機械だね。こんな鉄の塊に挟まれでもしたら、万に一つも命はないよ」わざわざ中を確認することは滅多にない。だから私としても久しぶりにそれを目にした。赤茶色のロール状の鉄塊が二つ並んでおり、その隙間は僅か数ミリといったところだろうか。この二つの鉄塊が回転することによって石炭の塊やら石を粉々に砕いてしまうわけだ。巻き込まれれば万に一つ命は無いだろう。赤茶色の鉄塊が真っ赤な鮮血に染まることになる。しかし我々はそんなところへ赤ん坊の死体を投げ込もうとしている。死んでいるから別に構わないではないか。果たして本当にそうだろうか。別に構わないのだろうか。私にはわからなかった。この期に及んでも尚、無駄なことを考えてしまうのは世界が無駄に溢れているかということにしておいて、折り合いをつける他なかった。無駄の中に潜む大事な何かを動かすために我々は日々無駄なことを繰り返す。それは物事の本質を見極め、省くことへの怯えの証であり、日常を守るための最適解でもあった。
「万に一つも命が助からないような死地に我が子を送り出す気持ちってのはどういうものなんだ。俺には到底理解できない」
「何を言ってる。こいつはもう死んだ。だったら火葬場の焼却炉だって死地だ。何も変わりはしないよ。いい加減こいつの死を受け入れたらどうなんだ。さっきから君はこいつがまだ生きているような口ぶりで常に話を進めようとしている。最後にもう一度言う。俺の子は事故で死んだんだ」
「だったら俺は何度でも訂正するよ。その子はお前が殺した。なあその子の名前を教えてくれよ。お名前は何でちゅか?」
「ガチャガチャうるさい野郎だな。こいつは死んだ。それ以上でもそれ以下でもないんだよ。分かったらさっさとこの機械を動かしてくれ」そう言って逢沢はロールクラッシャーのケーシングを手の甲で叩いた。
「いいだろう。どの道ここまできて引き返すつもりは毛頭ない」そう言って私はロールクラッシャーの電源スイッチを捻った。ふわーんと音を立て、モータのファンが動き出した。その風によって吹き上げられた粉塵がさらに居心地を悪くさせた。因みに石炭の粉塵に発がん性物質は含まれていない。逢沢には噓をついた。但し、長期に渡って粉塵を吸い続けると
モータと連動してチェーンが回転し、減速機を経て本体がゆっくりと回転し始めた。モータと本体の間に据え付けられている減速機は、複数の歯車を用いてモータの回転数を落とし、本体のトルクを上昇させる物らしいが詳しいことはわからない。新人にトルクって何ですかと質問をされたら機嫌が悪くなってしまうかもしれない。
「おお、いいじゃないか。思っていたより回転スピードは遅いんだな。だがその分力強さを感じる」
「これで満足だろ。さっさと終わらせろ」
「ああ。準備は万端だ」そう言って逢沢は今一度赤ん坊を抱きかかえ、ロールクラッシャーの点検窓に近づいた。点検窓の目の前で立ち止まると、少し間を置いてから喉仏が動いた。ロールクラッシャーはガラガラと音を立てながら、その口を大きく広げていた。逢沢は恐る恐る両手を差し出し、まるで神へ捧げるかのように赤ん坊をロールクラッシャーの真下まで持ていった。
赤ん坊は逢沢の手から滑り落ちるように垂直に落下した。私はゆっくりと落下してゆく赤ん坊を目で追った。一秒の概念が変わってしまったかのようにゆっくりと落下してゆく赤ん坊。赤ん坊がロールクラッシャーに近づくにつれ、さらに一フレームの時間が長くなり、まるでスライドショーを見ているような気分だった。ロールクラッシャーに飲み込まれる寸前で時が止まった気がした。その刹那、真っ赤な鮮血をまき散らしながら一瞬で赤ん坊は姿を消した。それはロールクラッシャーに付着した血痕が残っていなければ、赤ん坊が磨り潰された事実さえも磨り潰されてしまいそうなほど一瞬の出来事だった。暫くの間、回転する血痕を眺めていた。そうするしかなかった。目の前で起きた事象への理解に時間がかかってるせいなのか分からないが、その場から動けなかった。
「よし。副葬品を入れて帰ろう」そう言って逢沢は発炎筒の燃えカスをロールクラッシャーへ投げ入れた。発炎筒はバキっという音を立て、赤ん坊の時と同様瞬く間に消えて無くなった。この中に放り込みさえすればなんだって消えて無かったことにできるんだ。そんな思いが私の心の内に灯った。十三年前の過ちを正すか。それに副葬品にぴったりなんだよな。
「そうだな。帰ろう」そう言って私は床に転がっている石を拾い上げ、石の面において最も鋭利な箇所を探し当てながら徐にロールクラッシャーに近づいた。そして殺傷能力が最も高いであろう箇所が真下になるように調整し、一思いに逢沢の後頭部に石を叩き付けた。ゴンっという鈍い衝撃が違う形でお互いに伝わり、逢沢はふらふらと
「賭けに負けたな」逢沢は不気味な笑みを浮かべながら言った。
「君が副葬品に俺をと提案した時、少し震えたよ。父親に見殺しにされる子供もいれば、十年来の友人に殴り殺される奴だっている。何も不思議なことではない」
「覚悟はいいな」
「ああ。ロールクラッシャーに入れるなら完全に意識が飛んでからにしてくれ」そう言って逢沢は目を瞑った。私は確実に意識が飛ぶように用心深く何度も顔面に石を叩きつけた。気づいた時には見た目では逢沢と認識できるか怪しい形に顔が変形していた。返り血により自分の手も赤く染まっていた。脱力した人間は重たいとよく耳にするが、本当にその通りだった。やっとの思いで点検窓に頭を押し入れると、ロールクラッシャーに絡まった髪の毛がぶちぶちと毟られていった。私は逢沢の頭をグッと押しこみロールクラッシャーにその身を預けた。視線を逸らすと骨が砕けるようなゴリゴリという音が聞こえた。次第に体が持ち上がり、点検窓に腕が引っかかった。バキッと音が鳴って腕はあらぬ方向に向きを変え、逢沢は吸い込まれていった。
その後のことはあまり覚えていない。どのような道のりでここにやってきたのか。次いでここがどこなのかも分からない。海面に映った水月がゆらゆらと揺れている。そんな景色を眺めながら真っ黒なベルトコンベアの上で混じり合う父子の体液と粉々になった発炎筒は真っ赤だろうなと思った。
血濡れたロールクラッシャー @ask413
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