第6話 歪み



 外はまだ小雨が降り続いていて、湿気がすごかった。眼鏡をかけていたらレンズが曇ってしまいそうだ。さっさと仕事を終わらせて家に帰ろう。仕事と言ってもまたコンベアを見て回るだけなのだが、向井が帰ってしまったので仕事量が若干増えてまった。とはいえ歩いて見て回るだけなので問題視するほどのことではなかった。それに石の山がどうなっていようと見て見ぬふりをすると覚悟を決めてきたのでどこか気が楽だった。


 私は1~15番までのコンベアを全て確認した後、また石の箱の前に戻ってきた。その時点で時刻は十六時を回っており、既に時間外労働に突入していた。朝の六時過ぎには出勤していたので当然といえば当然である。努めて平静を装いながら箱の扉を開けた。


 石は当たり前のように鎮座しており、また大きな山を形成していた。午前中の時よりも少し大きい気がした。何も入っていなければ六人ぐらいは人が入いれそうなものだが、今に至っては二人が限界だろう。冷静に考えたら必然的にこうなるだろう。あれだけ大量の石が発生したんだ。午後はいつも通りとはいかないだろう。何を愚かなことを考えていたのか。でもこいつらはもう片付けないって決めたんだ。誰になんと言われようとこのままきびすを返して帰る。それだけは揺るぎのない事実として数秒先の未来で実現しなければならない。そう思いながら踵を返すと目の前に川原がいた。


 突然の出来事に頭が真っ白になった。私は幽霊と遭遇してしまったかのようにその場から動けなくなってしまった。「なにぼーと突っ立っとるんや。手伝ってやるからさっさとやるぞ」そう言って川原は箱の中に入っていった。最悪の事態だ。まさかこんなことになってしまうとは。こうやって極稀ごくまれに優しさに近い何かを出してくる奴が一番厄介なんだ。憎まれ役は死ぬまで憎まれ役を演じ続けばいいものを、人の情けに付け込んできやがった。川原から「お前だけは帰らせんぞ」という強い意志を感じた。こういう状況が人間にとって一番きつい。目の前に迫った希望が消えてなくなる瞬間ほど、肉体と精神の乖離かいりを感じることはない。


 人の精神というやつは希望が現れた瞬間、その希望が滞りなく実現された未来を想像して先走ってしまう。勿論肉体はその場に残っているわけだが、それは空の器のようなもので不測の事態には滅法弱い存在だ。既に私の精神は家に帰って風呂に入っていた。例えばこれが戦地に赴いた兵士だったなら、家族との再開を喜んでいるのだろう。それが突然迎えに来た船が爆発するんだから、肉体と精神の乖離具合といえば計り知れない。精神は母国に帰ってしまったのに肉体は異国の地にあるのだから、想像もつかない絶望がやってくるのだろう。その距離の分だけ、ぼーと突っ立っている時間が長いはずだ。ぼーと突っ立っている時間は精神が肉体に戻ってくるまでの時間であって、疲れて動けないとかではない。肉体だけでは今後の行動を決定することができないから動けないのだ。では精神が戻ってきたらどうなるのか。それはかなりの確率で死ぬだろう。発狂して号哭ごうこくして遺書を書いて、大体の人は自ら死を選ぶ。耐え抜ける人は限りなく少ないと断言できる。なにより歴史がそれを証明している。私の場合は気付いたら走り出していた。戦地に赴いた兵士で例えるなら、自殺に最も近い選択をしたわけだ。何せその状況から逃げ出したわけだから、異国の地という隔絶された場所から逃げようと思えば死ぬ以外の選択肢しか残されていない。


 そうか私は死んでしまったんだな。手榴弾のピンを抜いて、心臓の位置で抱き抱えて、無残にも爆散したんだな。だから今アクセルを踏み込むことができて、守衛所の前を通りすぎる画が眼前に浮かび上がっているんだ。これが死んでしまった先の世界なのか。漠然としたイメージの通り全体的に色が淡いなあ。でも何だか心臓は未だに騒がしいし、ひっきりなしに汗が流れている。


 何を馬鹿なことを言っているんだろうか。死んでなんかいない。私は生きている。たった今、一つの居場所を失ってきたばかりだけれど、間違いなく生きている。


 私は守衛所を過ぎて左に曲がった。ハンドルを真っ直ぐに戻すと、指示器のレバーが自動的に元の位置に戻ってきた。アクセルを目一杯踏み込むとどんどん加速し、サイドドアを下げると勢いよく風が吹き込んできた。


 全体が淡く見えるのは、フロントガラスが雨粒で覆われているからだ。そうだこの鳥の糞だってちゃんとフロントガラスにこびりついているし、開け放たれた窓から吹き込む風雨は生温い。この数十秒の間の出来事の一つ一つがここが地獄であると、お前は地獄で生きているんだと訴えかけていた。サイドガラスを閉めて、ワイパーを動かした。雨で湿った糞が少しずつこそぎ落とされて、家に到着する頃には跡形もなく消え去っていた。

 

 車をカーポートに押し込んで玄関まで歩いた。かまちに足をのせると急にどっと疲れが押し寄せてきて、その場に腰を下ろしてしまった。そうだ。逢沢に仕事が終わったと連絡しておかないといけない。私はスマートホンを取り出し、「今、仕事終わった」と送信した。するとすぐに「迎えにいくわ」と返事がきた。それを一瞥し、シャワーを浴びるため風呂場へ向かった。


 耳の裏や首筋を爪で擦ると、黒い垢が爪の間に潜りこんできた。真っ黒なネイルを施したみたいな爪の隙間に、シャワーをかけると垢が排水口に流れていった。


 明日仕事に行った方がいいのだろうか。それとも行かない方が自分にとって良い結果となるのだろうか。向井はどうするのだろう。あの人は悪い人じゃない。妻子もいるし、自分本位に仕事を辞めるなんて選択ができないはずだ。今頃、昼間の行いを後悔しているかもしれない。ある意味では羨ましいと言えよう。あのような形で別れてしまった以上、川原に頭を下げなければ職場には戻れないだろう。そのような屈辱的な行動を起こさせる理由なんて、己の内から湧いて出てくるものではない。純度百パーセントの外的要因が必要になってくる。そうつまり妻や子供を食わせるためであれば、自分を犠牲にしても構わないという感情だ。それがなければあそこに戻ることはできない。逢沢のようなイカれた人間であれば話しは別だが、正常な人間は屈辱的だとか気まずくて居心地が悪いとかを理由にそのまま辞めてしまうだろう。


 自分のために自己犠牲を課せるほど人は自身を愛すことはできない。それは私も例外ではない。だから明日の仕事にはいけない。何か特別な出来事が起きない限り、二度とあの場所へ足を踏む入れることはないだろう。万が一にもそのようなことが起こり得るとは到底思えない。ましてや私に自己犠牲を課せよう人間や文化や景色に巡り合うことなど有り得ようはずがなかった。


 明日から無職か。貯金は百万円ぐらいはあったかな。百万円の存在が何だかすごく煩わしくて、いっそのこと全部破り捨ててしまった方がいい気さえしてきた。どうせちまちま食費に消えていくのだろう。どうせ私のような人間は派手には使えない。小心者で中途半端に賢いから何もできやしない。インターネットで少し調べてこれはできない。あれもできない。これもできないと決めつけてきた結果が今の私だ。上を見ても下を見てもキリがないのだとしたら、横には何があって何を思うのだろうか。私と同じぐらいのヒエラルキーに属するライオンだろうか、それともクジラだろうか。ライオンやクジラを見て強そうとか大きいとか思っていればいいのか。まるで博物館にいるみたいだな。加えてすごく馬鹿にされているみたいだ。お前は人間以下の存在だと暗に言われているみたいだ。或いはその方が気楽に生きれたのかもしれない。では実際の所、横には何があったのか。経験に基づいた答えを言うとそれは己の姿だ。鏡を通さずに見た己の姿だ。赤の他人を見ているはずなのに自分の顔が鏡のように写っていて、自分の嫌なところが浮かび上がってくる。我が身を省みては自己嫌悪だか自己欺瞞じこぎまんだか自己憐憫じこれんびんに陥って、上をみては尊敬と愛憎と無関心を育み、下を見ては安堵しながら同情心を手向ける。そんなことをあーでもない。こーでもないと繰り返しては、キリがないと言って割り切り、努力している者の足を引っ張り、希望がないと言って諦める。上を見ても下を見てもキリがないというから、横を見たら希望がなかった。なんだか頓智とんちが効いていて自虐ネタには調度いいな。希望なんてない。運が良かったか、悪かったかだけだ。


 そもそも希望などという曖昧かつ抽象的な言葉で表さなければならない時点で本末転倒なのだ。それこそ若い世代の人達は希望を希望しなければならないような段階にいる。自分は何をやりたいのか、何を欲しているのか分からない人が大勢いる。今ある物で十分満たされなければならないはずなのに満たされなくて、それでもどうにか今ある物だけでも必死に守ろうとする現代人。判然とした不満や敵が常に身近にあってそれをどうにかしようと戦い、様々な物を手に入れてきた古人。プラス査定方式の時代が終わりを告げ、マイナス査定方式の時代がやってきた。その長い長い歴史の始まりだ。歴史の転換点に立会う人類は大きな代償を払わなければならない。これは宿命であって逃れることはできない。我々の犠牲をもってして次の世代は進化を続ける事になるだろう。


 人類というやつは約二千年という長い歳月をかけてようやく人権問題や環境問題に目を向ける余裕ができた。正しくはビジネスに利用しようと考えた。しかしその先にある代償を我々はまだ知らない。この先の未来はこれまでの歴史を集約してハイブリッド化し、より先鋭化した時代を作ろうと人類は躍起になることだろう。次にプラス査定方式の時代がやってくるとすれば、それは航時機が実用化されたあたりだろうか。その時代では人類一人一人に与えられる仕事の量が格段に増えているはずだ。或いは人類はかなり減少しており、アンドロイドが奴隷のような扱いを受けているのかもしれない。先のことなんてわからん。でも唯一言えることは、そうやって血眼になって作り上げた未来は地球の暴走もしくは太陽の暴走で終焉を迎えるということだ。


 私はバスタオルで体を拭いて、洗剤の香りが残っている服に着替えた。デザインで決めずに香りで決めたコーディネートは、カーキ色のTシャツに黒のズボンと至ってシンプルなものに仕上がった。靴下を履こうとソファーに腰を下ろした時、インターホンの音が鳴った。逢沢が迎えに来たのだろう。だからあえてゆっくり靴下を履いた。


 しかし玄関の扉を開けると誰もいなかった。家の付近に車も止まっていなかった。ほどなくして逢沢はやってきた。結局インターホンが鳴った原因はわからなかった。逢沢はリビングの窓ガラスをノックすることで、その存在を知らせてきた。来客はインターホンを鳴らすものだと思い込んでいた、私の固定概念があっさりと崩れ去った。それにしてもインターホンは誰が鳴らしたのだろうか。近所の子供がピンポンダッシュでもしていたのだろうか。急かすようなノックが三回聞こえたので、足早に外に出た。逢沢はガチャっという音に反応し、既に見知らぬワゴン車の方に向かって歩き始めていた。


「おい、これは買ったのか?前のオンボロのセダンはどうしちまったんだよ」

「いやー子共もできたしな、嫁にも新しいの買えって散々言われてたから、渋々買い変えたんだよ。所謂ファミリーカーってやつだな。此畜生こんちくしょう」カチャっというシートベルトのロックの音を合図に車は走り出した。


「お前の口から子供とか嫁とか言うワードを出さないでもらえるか。俺の中の概念がおかしくなりそうになる」

「確かにな。俺に嫁や子供ができるなんて夢にも思わないよな。君の気持ちが手に取るようにわかるぞ」逢沢は笑いながら言った。

「それでやばい事ってのは、どうせいつもみたいにしょうもないことなんだろ」

「いやいや見くびってもらっちゃ困るね。今回のは特別だ。まあその話は飲みながらだ」逢沢の運転はいつになく荒っぽかった。まるで何かに追われているかのようだった。二種免許の試験ならば発進の時点で不合格になっているはずだ。酒で少し酔っていたら吐いてしまうかもしれない。今宵は飲みすぎないほうがいいだろう。


 メイン通りである国道十一号線は帰宅ラッシュの真っ只中で、皆クリープ現象を利用して前に進んでいた。我々も亀のように進みながら、全ての信号に引っかかっていた。そんな渋滞に巻き込まれながらも逢沢は終始ご機嫌で、スピーカーから流れてくる洋楽を口ずさんでいた。クイーンのアイワズボーントゥラブユーのサビの時は気持ちが入り過ぎて、十秒ぐらい目を瞑りながら熱唱していた。そんな状態にも関わらず、車を発進させるもんだから前の車が急ブレーキを踏まないことを祈るしかなかった。


「君を愛するために生まれてきた」か。とてもシンプルな歌詞で、ストレートに気持ちをぶつけていく感じが最近の流行りの曲に比べてずっといい。最近曲は日本語で歌っているのに何を言っているのか分からない曲が多い。それは音としてもだし、意味としてもだ。無理やり歌詞を詰め込んでアンドロイドに歌わせてみたり、奇をてらった抽象的な歌詞を用いてアーティスト気分に浸っていたり、碌でもない奴らばっかりだ。フレディーマーキュリーのように濃い人生を歩まないとダメなのだろう。バイセクシャルとして生まれた彼は、性別に関係なく色々な人を愛して憎んで別れてまたくっついて、最後はエイズで死んだ。名曲ってやつは作った人間の生き様によってその姿を形を変える。明るく聞こえたり、悲しく聞こえたり、意図せず意味深に聞こえたり日々色々変化し、それでもやっぱりいい曲だなと言われて後世に受け継がれていく。最近リリースされた曲の中にそのように受け継がれるに価する曲があっただろうか。何も思いつかない。最近の音楽はなんというか木を見て森を見ていないと感じる。目まぐるしく移り変わる時代の流行り廃りに気を配っているせいか、どれもこれも金の臭いがする。金の臭いがしない曲は総じて実力不足だ。いい曲だと思ったアーティストの最新曲を聞いてみたらがっかりする。こんなのばっかりだ。だったら昔の音楽を聞いた方が有意義な時間を過ごせた。


 それにしても逢沢の歌声はねちっこいというか粘っこいというか、とにかく不快だ。音程が極端に外れているとかそういうことではないのだが、例えるなら腐った声だ。腐って粘り気が出てしまっている。納豆やチーズになり損なった声だ。


「その腐った声はどうにもならないな」

「腐ってるとは心外だな。どういう意味だ。口が臭いということか。具体的に説明してくれると助かるな」

「具体的ねえ。その粘っこい歌い方はどの発酵食品アーティストを参考にしたんだい」

「発酵食品アーティストか。面白いね。なんとなく君の言いたいことがわかったよ」

「それは嬉しい。是非間違いを正して、これ以上被害者を出さないようにしてもらいたいね」

「君の言いたいことはこういうことだろ。つまりはチーズや納豆のようになれず、ただ腐ってしまった声だと言いたいわけだろ」

「相変わらず察しだけはよろしいようで。概ね合ってるよ。お前の歌い方は粘っこいだけで、十分な経験に裏付けされた重みがないんだよ。それじゃあえた生ごみのように悪臭を放っているだけで、ハエやゴキブリしか寄ってこないよ」」

「なるほどね。確かにその通りかもしれない。だが裏を返せばハエやゴキブリを引き付ける歌声ではあるということだろう?世の中の連中はハエやゴキブリばっかりだ。メディアが囃し立てさえすれば、この音楽は素晴らしいんだと錯覚してしまうはずさ。所謂玄人向けのコンテンツは需要が少ないからね」

「何を言ってんだか。そういう奴を一発屋って言うんだろ」

「一発でも上げられれば十分じゃないか。望み過ぎは悪だ。身の丈にあった生き方をしないと溺れてしまうよ」

「まあいい。とにかくその不快な声を出すな。それからちゃんと前を見て運転しろ」

「分かった、分かった。美しい声音で、前を見て歌えば文句ないんだな」

「いやもう歌わなくていいよ。それよりどこに向かってるんだ。もう結構走ってるだろ」

「もうすぐ着くから、そう慌てるな」そう言って逢沢はまた歌い始めた。次の曲は知らない曲だった。もうすぐ着くからを鵜吞みにしたわけではないが、それにしても長い。市を跨いで、あと少しで県境に接するぞと思っていたら、突然古びた居酒屋が現れた。営業中と記された電光飾が仄かに光っている。山沿いの道にぽつりと身を潜めたその建物は、まるで山の一部のようだった。ぱっと見では営業しているのかどうかさえ怪しい佇まいだ。唯一この電光飾だけがその怪しさを払拭していた。


 逢沢は迷わず右折し、その居酒屋に入っていった。至る所にひび割れが入ったボロボロの駐車場に車を止めた。他にも客がいるようで、常連客を思わせる年季の入った軽トラが一台止まっていた。荷台には橙色のポリタンクと色褪せたネットのようなものが置かれていた。


 逢沢は「よしついたぞ」と言って、念願のテーマパークにやってきた子供のように車から飛び出していった。私はゆっくりと車から降りて、深呼吸をした。綺麗な空気だ。黒い粉塵にまみれた世界とは比べるのもおこがましい。


 雨は止んでいた。アスファルトの表面は乾ききっており、えぐれた箇所に堆積した泥が僅かに湿っていた。それにしても奇妙な場所に居酒屋を建てたもんだ。

こんな辺鄙な所で商売が成り立つのだろうか。土砂崩れが起きたらひとたまりもない。全員飲み込まれてお陀仏だ。ふと周囲を見渡すと逢沢の姿はもうなかった。私はやれやれと言わんばかりに首を振りながら、足早に居酒屋の中に入った。「お連れのお客様でしょうか?」そう伺いを立ててきたのは、二十代前半と思われる目鼻立ちの綺麗な女性だった。


 驚いた。てっきり無骨な大将が一人で切り盛りしていると思い込んでいたものだから、面喰ってしまった。私は一拍置いて「はいそうです」と簡素に答えた。女性は笑顔で頷くと、逢沢の座っている奥の座敷の席まで案内してくれた。逢沢はメニューに夢中で私の存在に気付いていない様子だった。「すんません」と店員を呼んだ際に、私と目が合ってニヤリと笑った。なんだか気味が悪かった。


 店員はポニーテールに束ねた髪をゆらゆらとさせながらすぐにやってきた。我々の前に生ビールを置き、「ご注文をお伺いします」と言ってオーダー表をポケットから取り出した。逢沢は「とりあえず適当に頼んでおくぞ」と断りを入れてから、だし巻きや冷やしトマトといった定番の品をつらつらと注文し始めた。


 店内は落ち着いた雰囲気で、黄ばんだ壁に昔の女優のポスターが貼られていた。よくある居酒屋の内装だった。特に変わった所はない。カウンター席に座っているおっさんはもう日本酒に手を出していた。恐らく軽トラの持ち主だろう。おっさんは飲酒運転という重罪のことなど知らないといった様子で、一杯また一杯とお猪口を傾け酒を呷っていた。飲酒運転といえば我々も他人事ではない。逢沢の目の前に置かれたこの淡い麦わら色の飲み物は、間違いなくビールだ。ノンアルコールビールなのだろうか?いやどうだろうな。聞いてみないことには分からないな。


「おい、これノンアルか?」

「いや普通のビールだけど」さも当たり前のことのように逢沢は言った。

「そうか。では代行運転を頼むという認識でいいんだな?」

「いや今日はもういいんだ。飲酒運転だろうが食い逃げだろうが大したことはない。そんなもの誤差なんだよ」

「まあいいだろう。俺は今日、仕事を辞めてきたばかりだし、親兄弟もいないしとことん付き合ってやるよ。それに財布も持って来てないからな」

「奇遇だな。俺も似たようなもんだ。それよりあの女の店員いい女だな。大将の娘といったところか?俺が結婚してなけりゃなあもったいない」

「別に気にする必要はないだろ。お前の過去の行いからしてみれば、不倫なんて可愛いもんだ」

「確かにな言われてみればそうだな。おっと噂をすればなんとやらってやつか」例の店員がだし巻きと串をテーブルに置いて立ち去っていった。

「やっぱりいい女だな」逢沢は店員の臀部でんぶめ回すように見つめた後、ビールを飲んだ。

「女のケツを肴に酒を飲むな。気色悪い。ほらそこに鶏皮があるだろ」

「君の言う通りだ。君の言っていることはいつも正しいように聞こえる。いや本当に正しいのかもしれない。しかしなあ、それじゃあつまらないじゃないか。いい大人がアルコールを体内に摂取しているんだ。もう少し品にかけていても悪くはないと思うぞ」そう言って逢沢はだし巻き卵に手を伸ばした。

「そうだな確かにお前の言っていることにも一理ある。下品な話しか。そうだ。お前に聞きたいことがあったんだ。中学生の時に体育館裏で告白されたの覚えてるか?」

「ああよく覚えてるよ。あれは最高に良い日だったな。確か俺に告白した女は死んだんだっけ、でそれがどうかしたか」

「深い意味はないが、ただあの時の行動の心理について聞きたいと思ってたんだよ。あれは衝動的なものだったのかとかね」

「なるほどね。あの時の行動の心理についてか。いいだろう。まず衝動的な行動かという質問についてだが、射精に関して言えば衝動的な行動と言って間違いないだろう。俺もまさかあんな所で射精するなんて思ってなかった。あの当時の俺は、もし狂人に出くわしたら相手がどういう反応をするのかっていうところに興味があったんだ。だからバレンタインデーのチョコレートをもらった時、これは絶好のチャンスだと思った。まさか好きな男が狂人だとは思わないだろうからね。その上で実際にとち狂った行動を起こした。そしてありままの事実を女に告げた。そこまでは計画的だったんだよ。あの女の引きつった顔は今でも忘れない。鮮明に覚えているよ。本人は笑っているつもりなんだろうけど、お世辞にも笑みを含んでいるとは言えない顔だった。そこからの出来事は雷に全身を貫かれたような感覚とでも言おうか、性器がギンギンに隆起して亀頭がパンパンに膨れあがってどうにもならなかったんだ。あの軽蔑と嫌悪と失望が入り混じったような顔を見つづけた分だけ性器が膨れ上がってしまうのではないかとさえ思えた。気づいた時には性器をほっぽり出していた。その様子を見た女は恐怖で声すら出せなかったのだろうな。一雫の涙を落として走り去っていった。その涙がさらに俺の性器を刺激したんだ。拾い上げてローション代わりにしたいと思ったぐらいだ。もうどうにもならなかった。気づいた時には射精していた。あれを超える快感は未だに味わえていない。例えるならそうだな。まるで地球に生で挿入した感じだ。俺はあの時、地球の中に出したんだ。君に分かるかこの感覚が。あー想像するだけで勃起しそうだ」そう言い終えた逢沢は、一瞬ズボンに手を突っ込んだ。恐らく勃起を誰かに悟られないようにするためだろう。こういうところには恥じらいがあるのが、全く理解ができなかった。


「ざっくりとそんな感じだな。とにかくあの日、俺は新しい性に目覚めてしまったんだ。それ以来アダルトビデオは凌辱物りょうじょくものばかり見るようになってしまった。あの女は罪深い奴だぜ。俺の性癖を捻じ曲げちまったんだ。死んでしかるべきだよ。電車に乗った時、俺がどれだけ苦労を強いられているか知らないだろ?痴漢の衝動を抑えるのは結構きついんだ。わざわざ短いスカートを履いている奴は本当に殺してやりたいぐらい腹が立つね。そっちから誘ってきておいて、やったら男が悪いんだから溜まったもんじゃないよ。なあ君もそう思うだろ。それにしてもこの豚バラは美味いな」

「最近流行りの天与呪縛ってやつか。歪んだ性癖と引き換えにそこそこいい顔で生まれてこられたんだろう」

「だとしら難しいところだな。この顔で得している部分はあるからな」

「まあとにかくお前は気色の悪いサイコパス野郎で、異常性癖者だってことがよく分かったよ。何だよ地球に中出しって、お前のその中出しのせいで異常気象が起きているなら、お前こそ死んで償うべきだな」

「相変わらず容赦のない、酷い言いようだね。でも全面的に受け入れるよ。俺も馬鹿じゃない。客観視ぐらいはできるからね」逢沢は笑みを浮かべて、餃子をビールで流し込んだ。

「おいおい飲み過ぎじゃないか。飲酒運転はできるかもしらんが、酩酊運転は勘弁してくれよ。れっきとした自殺行為だよ」

「何を言っているんだ。ビールの三杯ぐらいどうってことない。ほらもう処理が終わったようだよ」そう言って逢沢はトイレに向かった。顔全体がか赤くなっており、足取りも怪しくなっていた。逢沢と入れ替わるような形で、店員が枝豆を持ってきたので、ついでにお冷を頼んでおいた。


 私は逢沢の言葉を反芻した。狂人に出会ったら人はどういう反応をするかについて興味があったか・・・。あいつが大学に進学していたら卒論のテーマにっになっていたのかもしれない。ともあれ射精するまでが計画の内ではなかったことと、女が性器を見ていたことを知れた。知ったところで何にもならないだろうけど、会話の足しにはなった。あいつは大したことのないように語っていたが、普通に性犯罪者だ。男は告白をしにきた女の前で突然性器を出し、自慰を始めた。活字にしたらとんでもない化物、いや妖怪みたいだ。妖怪自涜ようかいじとく男ってところかな。もしかしたら妖怪図鑑に似たような奴がいるかもしれない。いても別に不思議じゃない。というより私自身が追記したい。現代にもこんな妖怪がいますよと。そうだウィキペディアに追加しといてやろう。可哀想だから本名は載せないでやるか。しかしそういう話を本人の口から聞いてしまうと、ますます結婚をした理由に何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。本当にあいつは妻を愛していて、純粋な気持ちで子供を授かったのだろうか。それら二つの生命を性欲を満たすための道具と捉えていないのだろうか。その刹那、頭を過ったのは言葉にするのも憚られる悍ましい自慰の形だった。この考えが現実になったとしたら、それは歪んだ性癖なんて可愛いらしい言葉で表せるものではない。いやさすがに有り得ないだろう。これは考えすぎだ。現実世界とは漫画やアニメーションみたいな狙い澄ますように仕組まれた幸運や不幸は訪れないように出来ている。誰が言い出したか知らないが、ひとまずこの格言に縋りついていよう。


「事実は小説よりも奇なりってね。俺はこの言葉が好きなんだ。だからMLBでホームラン王とサイヤング賞を獲ったあいつも好きだ。名前は忘れちまったがね」

「ビールは飽きただろ。焼酎頼んでやったからこれ飲め」そう言って私はお冷を逢沢の前に置いた。

「おー気が利くじゃねえか」逢沢は水を飲んで、枝豆を莢ごと口の中に放り込んだ。

「結構客が入るんだな。こんな辺鄙な所に構えているのに不思議なもんだ。よく知ってたな」

「ここ地元の人の間では有名なんだぞ。料理もかなり美味いだろ」

「そうか?不味くはないけど、特別美味いかって言われたら何とも言えん」

「君の欠点の一つだよ。膣の味を知らないことをとやかく言う気はないがな、君のその馬鹿舌はどうにかした方がいいと思うぞ。そのうち大恥をかくことになるし、女にもウケが悪い」

「仕方ないだろ。分からないんだから。お前の性癖よりはましだよ。言い方を変えれば何でも美味いっつって食えるんだから。いや待てよ訂正する。今日、会社で食べた弁当は不味かった」

「君が不味いということは余程不味かったんだろうね。俺だったら吐き捨てているかもしれない。そう言えば石がやばいって言ってたけど、それが会社を辞めてきたことに何か関係してるのかい?」私は日中の出来事の要点を掻い摘んで話した。

「なるほどね。君も立派な社会の歯車をやっていたんだね。心配するな君の代わりはすぐに見つかるよ」

「心配してねえよ。クソが」私は怒りをぶつけるように、親指に乗せた枝豆の莢を人差し指で弾き飛ばした。莢は吸い込まれるようにジョッキの中に入った。生温くなったビールの上に浮かぶ莢はどこか気持ちよさそうだった。

「そんなことよりも興味深いのは、その石炭の塊を砕く機械のことだ。なんて言ったけ、えーと」

「ロールクラッシャー」

「そうそうそのロールクラッシャーってのは石も砕くことができるんだろう?」

「まあ砕けないことはないってニュアンスで受け取って貰うのが正しいかな。あくまで石炭の塊を砕くように設計されてるからな、石ばっかり砕いてたらすぐ壊れちまうんだろうよ。だから石の仕分けをする機械があるわけだが、今日は石が多すぎたんだ」

「君はさっきもう会社には二度と行かないと言ったが、そうとも限らないかもしれないぞ。早けりゃ今日の内に会社行くことになるかもしれない。人生は何があるかわからないからね」

「ああ、そうかもしれないね。お前が興味を示したということは何かあって然るべきなのだろうが、生憎あいにくそんなことすらもうどうでもいいんだ。別に帰りしなに警察に捕まったったて俺は構わない。一人でニート生活を送るぐらいなら、刑務所の方が幾分かましな生活が送れるだろうしね」そう言った後、我々の間に不思議な沈黙が続いた。理由はわからないが、店全体の空気もそういう雰囲気に様変わりしていた。だから正確には空気を読んだと言った方が正しいのかもしれない。 


 いつの間にか店の客層も随分と変わっていた。軽トラのおっさんはいなくなっており、変わりに若い男女が座っていた。その他にも老若男女幅広い年代の人たちがカウンター席やらテーブル席に点在していた。地元では有名な居酒屋というのも強ち噓ではないらしい。我々の丁度対面に当たるテーブル席に座っていた女が突然席を立って店を出ていった。後ろ姿しか見えなかったのでよく分からなかったが、清楚な長い黒髪に哀愁が漂っていた。取り残された男の方はというと、悲痛な面持ちで唇を噛み締めながら虚ろな目でテーブルを見つめていた。どうやら二人の間に何かあったらしい。プロポーズに失敗したのだろうか。真相は不明のまま男は席を立ち、店員に五千円を渡して店を出ていった。


「なんだ別れ話か?それとも離婚か?」逢沢はひそひそと小さな声で言った。

「だろうね。たぶん男が悪いだろうね」

「ほお。どうしてそう思うんだい」

「あの男はわざわざ五千円を取り出して店員に渡しただろ?しかも千円札を五枚だぜ。律儀に数えてやがった。あんな男は振られて当然だ。間違いなく一万円札を渡して帰るべきシチュエーションだよ。それか彼女との思い出にふけりながら酒を飲むべきだ。自己憐憫に浸りながら、自分の存在を周囲の奴らにひけらかすべきだったんだよ。それなのにあいつは金の心配をしてやがった。どうしようもない貧乏性だよ。あんな奴友達にすらなりたくない」

「君はホントに人の嫌な所をよく見てるな。確かに言われてみたらそういう奴にしか見えなくなってくる。君の偏見から察するに彼は未だに自分のどこが悪かったのか気づいていないだろうね」

「そうだろうね。気づいていたらあんな愚かなことはできない」男が去ると同時に店内は活気を取り戻した。カウンター席では男が女の腰に手を回していた。スーツ姿のサラリーマン三人組はほろ酔い気分で、さっきの男女の人となりをあーでもないこーでもないと議論していた。そのような光景を見ていると、このまま緩やかに死にたいなと私は思った。皆で一緒に死にたいなと思った。


「なあ。このままここにいる全員で死にたいと思わないか?酒を飲んで少しずつ酔っぱらって最後は死ぬんだ。どうだ悪くないだろ」

「勘弁してくれよ。俺にはまだやり残したことがあるんだ。まだ死ぬわけにはいかないな」

「いいじゃねえか別に。俺のためにとは言わない。最近流行りの平等を実現するために死んでくれよ」

「何が平等だよ。ここにいる人たちの中に死にたいと思っている人が何人いると思ってる。強いて言うならさっきの千円札五枚男ぐらいだろうよ。見ろよあいつらのイチャイチャぶりを、生きたくてウズウズしてるじゃねえか」

「正論だな。平等を盾にするなら、死にたい奴だけを集めなくちゃいけないと。だったら俺も生きたいと主張することにするよ。これで文句はないだろ?」

「はい、はい勝手にしてくれ。君の方こそ酔いが酷くなってるんじゃないか」そう言って逢沢は、水の入ったグラスを口元へ傾けた。

「そんなことはない。俺は至って真面目に言ってるんだ。俺は最上級のポジティブを含んだ死をうたっているんだ」

「ポジティブな死の形で思い出したんだが、君はコールドスリープについてどう思う」

「コールドスリープねえ。ありよりのありだね」

「なんで急にギャル語になったんだ。めちゃくちゃ酔ってるじゃねえか」

「コールドスリープすごくいい。俺の人生設計に素晴らしく合致している。液体窒素による急速冷凍によって事実的なタイムトラベルを実現できるかもしれない。こんなつまらない時代で寿命を消費するよりよっぽどいい。何より未来では肉体を再生できるかもしれないし、航時機なんかが完成している可能性も大いに秘めている。そしたら過去に戻って、お前が殺した女を救いに行こうと思う」

「俺から話を振っておいてなんだが、そんなに嵌まるとは思わなかった。それになんだか俺の方は酔いが冷めてきたよ」

「それは当然さ。お前がさっきからチビチビ飲んでいるのは、ただの冷や水だからね。それがもし本当の焼酎だったら、今頃、吐いているか寝ていただろうね」私はグラスを奪い取って、水を一気に飲み干した。

「やってくれたな。まあいいさ。とりあえず君も一旦酔いを醒してくれ。今から本題に入ろうと思う」逢沢は手を挙げ、店員を呼び止めるとお冷を二つ頼んだ。

「あえてこちらからは触れないようにしていたが、さすがに痺れを切らしたってところか」

「いや違うね。どのみち二十一時を回るまで話すつもりはなかった。だからある意味では助かったよ。普段の三倍ぐらい君が饒舌でいてくれて」壁掛けの時計に目をやると、針は九時二十分を指し示していた。もうこんな時間か。逢沢の言う通り少し飲みすぎたのかもしれない。相変わらずポニーテールを揺らしながら店員がやってきて、お冷を机の上に置いていった。我々は示し合わせたかのようにグラスを手に持ち、水を飲んだ。その水はやけに冷たかった。


「それで例のやばいことってのは何なんだ」

「単刀直入に言うと、子供が死んじまった」

「殺しちまったの間違いだろ」私は反射的に言葉を返した。逢沢はバツが悪そうにかぶりを被った。そうかやはりこいつは、性欲のために子供をやっちまったなんだな。嫌な予感ほどあたるもんだ。

「まあそう決めつけないでくれ。まず俺の話を聞いてくれ」そう言って逢沢は、赤ん坊殺しの言い訳を平然と述べ始めた。

「前提として俺はここ最近すごくむしゃくしゃしてた。仕事や家庭を含め、些細な問題が積み重なるように頻発してた。その憂さ晴らしによくパチンコに通っていたんだが、これが面白いぐらい勝てなかった。だからストレスは溜まる一方だった。小遣いも底をつきかけていて、今日負けたら一文無しって時にひらめいたんだよ。勝てる見込みがかなり高い妙案ってやつをね。俺はすぐにその妙案を試してみようと行動に移した。まず赤ん坊を車に載せてチャイルドシートで固定した。そのままいつものパチンコ屋まで行って、いつものようにパチンコを打ってみたんだ。そしたら早かったね。すぐに大当たりを引いたよ。俺はすかさず右手でレバーを下げた。 そしたら当たり前のように確変に突入した。その後も当たりは継続し、その頃には車内に置き去りにした赤ん坊のことなんて頭から完全に消え去っていた。けたたましい音を上げながら、銀色の玉を放出し続ける様に魅了されてしまったわけだ。ふと時計を見たら十一時を回っていることに気づいた。それと同時に赤ん坊のことも思いだした。

しかしパチンコ台はやる気満々で、玉を吐き出し続けていた。どうするべきかと悩みながら打ち続けていると、三十分が風のように過ぎ去っていた。そろそろ戻ろうかと本気で思い始めたところで、急に台が静かになった。俺はすぐさま換金所に駆け込んで、精算を済ませた。駆け足で車に戻ってみると、気持ちよさそうに寝ている子供の姿があった。俺は安堵して徐に赤ん坊の手を握ったんだ。そしたらゾッとしたよ。車内に充満した蒸し暑さとは裏腹に、赤ん坊の手は冷たくなっていたんだ。よく言うだろ?絶対に外せない予定の前にパチンコを打ったら勝てるって。それを応用してみたつもりだったんだが、代償が大きすぎた。言うなれば勝負に勝って試合には負けたってとこだな。だから殺意はないし、事故みたいなもんなんだ」


 俺は悪くないんだという風に御託を並べ終えた後の、逢沢の面持ちは被害者そのものだった。まるで回避しようのない不慮の事故に巻き込まれたようなそんな面だった。そのあまりに堂々とした態度に、こいつを悪人だと決めつけていた自分の判断を疑ってしまった。悪いのは逢沢を劣悪な環境に追いやった両親、結婚相手に選んでしまった女、生まれてきてしまった子供なのではないか。そういった考えが頭を巡って、否定できなかった。もし私が逢沢のことを否定したならば、誰がこいつの味方になってくれるのだろうか。見知らぬ弁護士が彼は精神疾患を患っており、善悪の判断ができる状態ではなかったと擁護してくれるだろうか。逢沢の人格を否定することは簡単なことだ。誰だってできる。しかしそのような簡単な選択によって、落としどころが見つかる程度の問題ではないだろう。私は逢沢という人間のすべてを一度享受した上で、幾つか質問をしてみることにした。


「間違いなく、赤ん坊は死んでしまったんだね」逢沢は毅然きぜんとした態度で頷いた。

「赤ん坊が死んでしまって、悲しいと感じているのかい」

「分からないんだ。しかしこうなってしまった以上、赤ん坊の分までしっかり生きようと思っている」

「今からどうしようとか考えてる?例えば警察に自主しようとか」

「そうだな。まずは赤ん坊の遺体をどうにかしたい。今は車のトランクに積んであるんだ。それが終わったら妻にありのままの事実を告げようと思っている」私はその一瞬の顔の緩みを見逃さなかった。疑惑は確信へと変わった。全て計画通りと言ったところか。精神疾患による計画性のない犯行の希望は、ビールの泡のように弾けた。その事実が分かったところで何をどうすればいい。逢沢をこの場で殺してしまうか。鋭く尖ったこの爪楊枝を勢いよく首に突き立ててれば、恐らく死ぬだろう。それが正しい行いだと言い切れるか。私は好奇心に囚われていた。この後の逢沢の行動や自分の行動に興味が湧いてしまったのだ。


「でこれからどうするんだ。ロールクラッシャーで赤ん坊をミンチにでもするか」

「まさにそれだ。君からロールクラッシャーなる物の話を聞いた時、ピンときたんだ。これで埋葬できるって」

「んでその後は嫁に全部言って、地球に中出しするのか」逢沢は何も言わなかった。ただニヤっと笑って水を飲んだ。

「そうと決まれば、善は急げってやつだ。君の元職場に行こう。道を案内してくれ」


 そういうわけで我々は一万円札を二枚、店員に押し付けて店を飛び出した。お金は逢沢が払ってくれた。その時「これは大きな代償で得た金なんだ」と店員に告げていた。店員は困惑顔でそれを受け取っていた。


 外は私の心情を表すかのように嵐にむしばまれていた。大粒の雨が降り注ぎ、風も強かった。山の向こう側がピカッと光って、遅れるようにゴゴゴゴと音が鳴った。抉れたコンクリートには水が溜まっていた。


 逢沢は手をひさしのようにかざしながら足早に車の方へ向かい、トランクを開けると両手を腰に当て、雨が止むのを待っている旅人のようにその場から動こうとしなかった。私はその様子を眺めながら雨に打たれていた。何かが洗い流されているような気がして心地良かった。車が通過するたびにヘッドライトが逢沢を照らしていた。まるで冷たくなった赤子の存在を見透かしているよだった。


 店の窓から仄かに零れる明かりに憧憬を抱いていると、雷が鳴る度に店内にいる人々の視線を感じた。この薄い木の板を隔てた向こう側の世界が、果てしなく遠く感じた。これが人の道を外してしまう感覚か。自然もこの嵐をもってしてそれ相応のもてなしをしてくれているような感じがした。前触れのない嵐の訪れはそういう意味を含んでいるのだろうか。だとすれば小学校の帰り道に突然やってきたあの嵐も誰かが道を違えてしまった証だったのかもしれない。或いはただの天気の移り変わりの一種に過ぎない現象だったのやもしれぬ。これから私が行おうとしていることは、どれぐらいの罪に問われるのだろうか。裁判になったら死体遺棄や殺人幇助さつじんほうじょや飲酒運転の罪状が検察官によって挙げられるのだろう。果たしてその程度で許されて良いのものなのか。もっと重大な罪を犯しているんじゃないか。二月の冷たい風が吹き荒れる中、大地に射精した逢沢の姿を見留めた瞬間、この先間違いなく誰かが犠牲になると感じていたはずだ。それを見て見ぬふりしてきた罪はどこでどのような形で裁かれるのだろうか。そのような理性的な思考は好奇心を根幹に作られた本能に抗えるはずもなく、理性は理性なりに衛星軌道のように頭の中を回っているだけだった。


 髪も衣服もびしゃびしゃに濡れ腐り、少しずつトランクの方へ体が吸い寄せられていた。恐らくトランクの奥底に眠る死体を見留めてしまったらもう引き返すことはできないだろう。これが最後の抵抗といったところか。しかし自分の意志ではどうにもならない。誰かが無理やりこの場から連れ去ってくれでもしない限り、私は赤子の血を見ることになるだろう。警察官でも北朝鮮の工作員でも誰でもいいから我々を止めてくれ。必死に抵抗するだろうから、その時は殴るなり蹴るなりしてくれ。最悪殺してくれても構わない。とにかく誰か止めてくれ。そんな私の願いを逆撫でするように逢沢は、何かを抱えながらこちらに向き直った。ヘッドライトで照らされたそれは間違いなく赤ん坊だった。唇は死を想像させるに十分な紫を纏っており、重い瞼に閉じこめられたはずの瞳に気圧された。初めて生で見る赤子の姿は死体だった。なんと声をかけるのが正解なのだろう。赤ちゃん言葉で名前を聞いてみようか、そしたら隣にいる父親が変わりに教えてくれる。いやそれは普通の父親がいて赤子が生きてる時に行われるやり取りだ。残念ながら彼だか彼女だかわからない赤子は死んでしまっている。そして自分を殺した父親に抱きかかえられている。いや皮肉だな。生きていようが死んでいようが名前は父親が答えることになるではないか。


 私は赤子に近づいて言った。「お名前なんて言うんでちゅか」逢沢は何も言わずトランクを閉め、後部座席に回り込み、チャイルドシートに赤子を固定していた。死んでいようが生きていようがやることは一緒なのか。ただとても静かだ。聞こえてくるのは雨の音だけだ。カウンター席に座っていたカップルが横を通り過ぎていった。まるで私の姿が見えていないようだった。バタンと扉が閉まる音が、立て続けに聞こえた。間を置かずエンジンの音と共に、黒いK自動車が走り去っていった。コンコンとノックのような音が聞こえたのでその方に目をやると、逢沢が車から右手を出して車のボディを叩いていた。私はゆっくりと車に歩み寄って、助手席に乗った。衣服や体に纏わりついた雨水が座席のシートに染み込んでいく。車のエンジンが掛かるとブルブルと全体が振動し、スピーカーから「トゥーラブユー」と聞こえた。車体が大きく左側に揺れた。あの抉れたアスファルトの上を通過したのだろう。我々は起き上がり人形のようにすぐに体制を整え、平坦な道にうつつを抜かしていた。おずおずと後部座席に目をやると、血色の悪い赤ん坊がチャイルドシートにべったりとくっついていた。僅かに左側へ傾いた顔が、あの大きく抉れたコンクリートを思い出させた。


 舗装された山道を抜けると、湿った夜の田舎町が浅い呼吸をしていた。息をしてるのはどれもチェーン店やコンビニエンスストアばかりだった。まるで人工呼吸器のような彼らは、必死に夜を生かそうと奮闘していた。そのような街並みも長くは続かず、すぐに工場地帯が現れた。窓を開けていないのに微かに独特の異臭が臭ったので、恐らく製紙工場だろう。後部座席に横たわった遺体のせいか、車内に充満したその臭いに生々しさを感じた。


 暫く走っているとまた山道に入った。車内に充満した異臭はその存在感をを示し続けており、いよいよ死臭が臭ってきたのかと思われるほどだった。痺れを切らしたというように逢沢が全ての窓を下へスライドさせた。ウィーンとモータの音が聞こえて窓が全開になると、雨が異臭と入替わるように吹き込んできた。無防備な赤ん坊の顔に降りかかった雨はまるで涙のようで、なんとも形容しがたい光景だった。


 私は前に向き直ってワイパーを目で追いかけた。雨を搔き取って、また搔き取ってを繰り返している。無心で瞳を左右に動かしていると、聞き慣れた腐った歌声が聞こえた。そしたら自然と涙が溢れてきた。昔の嫌な思い出がぽつぽつとよみがえってきて、あの時、あーすれば良かったとか、こーすれば良かったとか、何のために生まれてきたのか考えている内に涙と雨が混ざり合っていた。


 ウィーンと窓が閉まった。雨が止んで涙だけが浮き彫りになろうとしていた。涙と雨が混ざりあった液体を手の甲で拭い、私は目を閉じた。現実逃避のために眠ろうとした訳ではない。いや本音を言えば眠りたかったし、消えてなくなってしまいたかった。だがそんな甘えた行動を許してくれるとは思えなかった。目を開けていることさえ、苦痛に感じるほどに酷く疲れてしまったのだ。

だから正確には勝手に瞼が落ちてきたと言うべきかもしれない。瞳は真っ黒な瞼の裏側を通して、目を背けたくなるような過去と未来を交互に見据えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る