第5話 逢沢という男

 事務所に戻ってきた時には既に十二時を回っていた。川原は弁当の半分以上を食べ終えており、相変わらず両耳にイヤホンを付けていた。我々に労いの言葉一つないのはいつものことだったが、現場の過酷さはいつもの比ではなかった。疲れすぎて食欲すらわかないので暫く椅子に座って下を向いていた。向井は険しい表情でスマホを睨みつけながら弁当の蓋を開けていた。


 改めてタフだなあと感心する。肉体がというよりは精神がタフだ。私が今、考えていることは明日いや、最悪を想定すると今日中にまたあの箱の中に石が溜まってしまうのではないかということだ。そうなるといよいよ限界ではないかと思う。「そんな簡単に弱音を吐いてどうする。戦時中や奴隷時代の人々はもっと厳しい状況を乗り越えてきたんだ。俺たちの時代はなあもっときつかった」そう言って昔と今を比べる高齢者はたくさんいる。それ事体に不満とか怒りは無い。何故ならそれは事実だから。間違いなく昔の方が生きていくのは辛いものだったろう。ろくに食うものがなくて、暴力が美徳文化のように扱われ、酒と煙草ができない奴は差別対象にされていた時代だ。「よく生き抜いてこられましたね」と畏敬いけいの念すら覚える。生きることに適正があったんだと思う。


 何にでも向き不向きがあるというのなら、生きることにも向き不向きがあるのだろうか。向いていないことはやめて長所を伸ばせばいいんだと、軽く言う奴もいるが生きるのをやめるというのは、それ即ち死ぬと同じ定義でいいのか。生と死は対義語なのだろうか。あークソ握力が無くて割りばしが割れない。非力なもんだね本当に。弁当すら食えないのか。私は純粋な怒りに任せて、割りばしにグッと力をこめた。すると割りばしは大きなささくれのような歪な形に割れた。


 ようやく弁当に手を付け始めたときには昼休みも半分が終わっており、川原の不快な寝息が聞こえた。時間が経過したせいで、固くなったご飯を掴むのにすら苦労する。加えて食欲もないし、おかずも外れの日だ。腐った茄子のおひたし、得体のしれないソースがかかった白身魚のフライ、マヨネーズのような物を混ぜ込んだひじき。白飯のおかずになりそうな物が一つもない。仕方ない。昼飯に三百円しか出せない自分が悪いんだ。そして夜は半額の総菜か。それでも金が貯まらないのだから、不思議だ。何に金を使っているんだか。固定資産税ってのはそんなに高かったっけ。違うな。入ってくる金が少ないんだ。ボーナスもないに等しかった。もしかして私は奴隷なのだろうか。誰も言わないし、自分でも気づいていなかっただけで奴隷なのかもしれない。


 昭和から始まった人権運動のおかげで給与こそ貰えてはいるが、全体的な基準を底上げしただけで時代が違えば奴隷だったのではないかと思わざるを得なかった。


 弁当を食べ終え、うたた寝を繰り返しているとチャイムの音で目が覚めた。向井は忙しくスマートホンの画面をタップしていて、ゲームでもしている様子だった。川原は一向に起きる気配がなく、とうとうチャイムが鳴り止んでしまった。仕事中とは思えないほど緩み切った空気感はいつものことなのだが、石が堆積していく音が耳に残っていて落ち着けなかった。そういえばさっき逢沢から連絡がきていたな。すぐに返信するのがなんだか癪だったので、寝かせていたのすっかり忘れていた。私はスマートホンのロックを解除し、メッセージアプリを開いた。「やばいことになっちまった。とりあえず仕事終わったらすぐ連絡してくれ」意味がよく分からなかったが、「こっちも石がやばい」と返信しておいた。


 あいつが騒いでいるということは別に大したことではないのだろう。いつもそうだ。詳細を言わずにやばいやばいと騒ぎ立て、蓋を開けてみたら大したことない。かと思えば冷静沈着にとんでもないことをやったり、言い出したりするから困ったやつだ。今となってはあいつの態度や発言に対して自動的にNOT回路が働くようになってしまったので、煩わしいことはなくなったが出会った当初は大変だった。


 逢沢と出会ったのは中学一年の秋だった。その日は十月にしては肌寒く、風がとても強かった。建付けの悪い教室の窓がガタガタと震えていたのをよく覚えている。今思えばあの音は、転校生がやってくるまでの長い長いドラムロールだったのかもしれない。担任の先生がやってくるのがいつもより遅かった。先生はチャイムが鳴った五分後にやってきた。


 私は本を読んでいたのだが、その時点で何か違和感を感じ取っていた。そして騒々しい教室内のざわめきを断ち切るように先生が開口一番にこう言った。「皆さん今日からクラスメイトが一人増えます」その瞬間、私語がピタリと止んでドラムロールの音だけが教室内を満たした。違和感の正体に気づいた時には、普段なら閉まってるはずの教室のドアから転校生の爪先が見えていた。そうかドアが開けっ放しになっていたのか。道理でドアを閉めるときのガラガラ音が聞こえないわけだ。そう思ったのも束の間、転校生が自己紹介を始めた。彼は逢沢祐樹と名乗った。以前は大阪の学校に通っていたそうで、転校の理由は家庭の事情だと先生が補足説明をしていた。因みに家庭の事情とは親の虐待だったらしい。本人がいつ日か、聞いていないのに教えてくれた。詳しい内容は覚えていない。


 自己紹介を終えると、先生が空いている席に座るよう逢沢に言った。その空いている席というのが私の隣の席だった。逢沢は自己紹介の挨拶から席に座るまで緊張とか恐れみたいなものが一切なく、(正確には欠如していた)常に堂々としていた。そんな逢沢の第一印象を考慮し、彼の性格をいかにも自信家で自分の意思をはっきりと伝える優等生タイプだと思いこんでいた当時の私は見る目がなかった。この男はその時点では狂人とまでは言わないが、頭のネジが数本外れていたんだろう。普通の子なら最初の内はおすおずと学校生活を送りそうなものだが、逢沢といえば常々堂々としていた。それは自信とかではなくて、狂いの部分から生じていたのだろう。そのような考えに至った経緯を象徴する事件があった。


 あれは確かバレンタインデーの当日だった。つまり二月十四日ということになるだろう。バレンタインデーといえば女子たちがこぞって、手作りだかなんだか知らないチョコレートを男子に押し付ける日として有名だ。この日も毎年よく見る光景が私には眩しかった。カースト上位同士の道楽に混ざれるはずもなく、帰りの靴箱には今朝履いてきた靴しか入っていなかった。一番最初に席が近かったということと、帰る方向が一緒で家も割と近かったということもあり、私と逢沢は友達と言っても差し支えのない関係になっていた。逢沢は割と顔が良かったのでもしかしたらチョコレート貰えるんじゃないかなんて冗談めかした話をしており、二月十四日はまさにそれが現実になった日でもあり、狂気的な一面を知ることになった日でもあった。


「おい、世那これ見ろ」 逢沢は喜々とした表情で可愛らしいピンクのリボンででラッピングされた小袋を、これ見よがしに見せつけていた。

「まじかよ。それ誰からだ。お前に仲良い女子なんかいたか」

「いないね。ってことは本命ってやつだろ。めんどくさいなあ」

「めんどくさいってなんだよ。嫌味か、気持ち悪いな」

「いやそういうわけじゃなくてさ、貰っちゃったら無視はできないし、お返しってやつをしなきゃだめだろ?それが嫌なんだよ」

「気を付けろよお前。それが本音だったとしてもな、人によっちゃあ殴られるぞ。前から気になってけど、お前には建前ってやつがないな」

「いやいや甘いね。本音はもっと酷いからね。あいつらはさあ、やっすい板チョコを買ってきて溶かすんだよ。んでハートの型に流し込んで、冷蔵庫で固めるんだ」逢沢はそれについて何も思わないのかという風に私の目を凝視していた。

「そうだろうね」

「そうだろうねってなんだよ。面白くないな。どうせこのチョコレートもハートの形をしているはずさ。ほらみてみろビンゴだ」逢沢は蝶々結びにされたリボンを引きちぎる勢いで剝がすと、空色の外袋はもうゴミだと言わんばかりに私に押し付け、透明な内袋の中に入っているチョコレートを指差しながら言った。


「大体本命のチョコレートはハートだろ。それを何、自分が第一発見者みたいに得意げに言いやがって。お前はチョコレートじゃなくてノーベル賞が欲しかったのか」忘れ去られた赤いリボンが風に攫われているのに二人が気づくことはなかった。

「違うね。それは論点が大きくずれている。俺が言いたいことはな、こんなやっすいチョコレートのお返しに無駄な時間を使いたくないし、無駄な金を使いたくないってことだ。それに安物を返したら嫌な顔をするだろ。自分は安物をあげている癖に。加えて全部自分で作っているかすら怪しいぜ。母親辺りが手伝っているかもしれない。俺はなあ見ず知らずの母親の手垢なんて死んでも食いたくないね」


 以前から逢沢には独特な感性と偏見があることは薄々感じてはいた。この日はそれが特に酷かった。チョコレートを作った本人がもし裏で聞いていたらと考えると、涙なしでは聞いていられないだろう。もう少しで自分が泣いてしまいそうなぐらい逢沢の言葉の選択には、辛辣で刺々しい茨のように心に絡みつくものがあった。


「なんで世那が泣きそうな顔してんだよ」

「いや、自分のことは何を言われても平気なんだけどなあ。他人が悪く言われるシチュエーションに弱くてさ。こういうの何、感受性が高いって言うんだっけ」

「知らないね。とにかく俺はこういうのが嫌いなんだ」

「まあよく分かったよ。この話は一旦置いといて、それ誰からなんだよ。手紙とか入ってないのか」聞くに耐えない悪態にうんざりしてきたので、私は無理やり話を変えようとした。


「そうだな。人によって変わってくる話は沢山あるし、俺にだって例外はあるんだ。もしこれを置いていったのがゆうかちゃんだったら、世那に土下座してやるよ」何故私に土下座するのかはなはだ疑問ではあるが、ゆうかちゃんとは当時流行っていたアイドルグループの人気メンバーの一人だ。限りなくゼロに近い事象を引き合いに出してくるこの皮肉めいた言動は、二十六歳になった今でもあまり変わっていない。


「よくよく考えたら手紙は俺が持ってたわ。ほら入っているぞ。読んでみろ」私は外袋から紙切れを取り出した。

「いやいいよ。世那が先に見てくれ」

「なんで俺が見なきゃいけないんだよ。こんな悲しいことないぜ本当に。しまいにはチョコレートも全部あげるとか言い出すんじゃないだろうな」

「欲しかったらあげるよ」

「いらねえよ。馬鹿がよ。てめえのことが好きな女の手垢なんか食いたかないね」

「お、言うね。作った子が泣いちゃうよ」

「泣かねえよ。興味ない奴にガチャガチャ言われたところで、何も感じないだろ」

「いやいやそんなことないと思うよ。女の子は繊細だからね。駄目だよそんなこと言っちゃ」

「はい、はい俺が悪かったよ。もういいからさっさと片付けろ。こっちは早く帰りたいんだよ」

「まあまあそんな怒ることないだろう」そう言って逢沢は折り畳まれたノートの切れ端を開いた。

「なるほどね。つまらん」

「つまらんってどういう感想だよ」

「ほら見てみろ」逢沢はノートの切れ端をこちらに見せながら言った。そこには「明日放課後体育館裏に来てください」と丁寧な字で書かれていた。


「体育館裏ってありきたりすぎるし、こんなのもし同じようなことを考えてる奴らがいたら気まずいだろ。どっちが先に告白しますかって相談するのか?あほらしい」

「文句ばっかりうるせえな。いいだろうが相談でもなんでもしたら。言いたいことあんなら裏でグチグチ言わず、明日本人に直接言ってくれ」

「確かに世那の言う通りかもしれんな。よしひとまず帰ろう。んでチョコレート食うか。暇だから付き合え」


 その後我々はいつもの道を自転車で走って、逢沢の家に向かった。逢沢の家は母方の実家で、屋根瓦の隅に鯱鉾しゃちほこがいるタイプの立派な木造住宅だった。


 庭は細かい所まで手入れが行き届いており、とても綺麗だった。スイセンやヒヤシンスといった季節の花が咲いていた。さらに鹿威ししおどしがしつらえられており、どこから引いてきたのか分からない水が垂れ流しになっていた。まるで小さな日本庭園のような庭にずけずけと足を踏み入れ、我々は縁側に腰を下ろした。


「なあ。いい眺めだろ」逢沢は誇らしげに言った。

「確かにいい眺めだ。しかしあたかも自分が手入れして作り上げたみたいな言い方は解せないなあ。どうせお前のばあちゃんの趣味かなんかだろ」逢沢はそれについて何も言わなかった。ただ目の前の風景に浸っているばかりで、私の声など聞こえていない様子だった。鹿威しが石にぶつかる甲高い音が何度か響いた。その間黙って庭の景色を眺めていた。最初に口を開いたのは逢沢だった。


「チョコレートどうしようか」

「どうするって食べるんじゃないのか。先に言っとくけど俺はまじで要らないからな、ふりとかじゃないから」

「なんか小腹空いたな。よしこうしよう」そう言って逢沢はガラス戸を開けて、家の中に入っていった。ついていこうかとも思ったのだが、他人の家に勝手に入るのははばかられた。何より今から追いかけていって、逢沢の祖母や祖父と鉢合わせたら厄介だ。想像するだけで嫌気がさした。尤も縁側に座っている時点でそのリスクを抱えているわだが、綺麗な庭園に目を奪われていたせいか不思議と気にならなかった。


 石苔の上にカラスがやってきたが、すぐに鹿威しの音が鳴って、その音に怯るように逃げていった。かと思えばホーホーと鳩の鳴き声が聞こえてきたので、上を見やると電線に一羽の鳩が留まっていた。支柱に絡みついたアサガオのつるは、薄茶色に枯れて物悲しそうだった。さすがに体が冷えてきたので、家の中に入ろうかと悩んでいたおり、逢沢がドタバタと足を音を立てながら戻ってきた。


「おい何してんだ。早くこいよ」

「いやーお前に遠慮がないやつだと、思われたくなくて待ってたんだよ。こんなにクソ寒いのに。んで何をやってるんだ」

「それは自分の目で確かめてくれ。説明するのが面倒くさい」


 私は逢沢の後をついていった。台所に着くまでの間、上下左右キョロキョロと様々な情報を吸収したつもりだったのだが、覚えていたのはどこもかしこも畳敷きの和室であるということと、整理整頓がしっかりとされていたことぐらいだった。台所では鍋に入った水が沸騰しており、トースターのゼンマイの音と香ばしい匂いがした。


「ん、食パン焼きながらお湯を沸かしてるよな。珈琲でも入れてトーストを食べるのか?」

「俺は珈琲嫌いだ。お湯には別の用途がある」そう言って逢沢は銀のボウルとへらをシンクの上に置いた。私はその様子を怪訝な表情で見ていた。湯の加減を確認して火を止め、ボウルの中にさっきのチョコレートを放り込んだ。

「お前まさかとは思うが、チョコレートを溶かすつもりなのか?」

「ああ。そのまさかってやつだ。理由はシンプルだ。やはり信用できないものには火を通す。川の水を生で飲んではいけないのと同じだ」

「サバイバル動画の見すぎだよ」

「そしてパンに塗るジャムが切れていたというのも大きなポイントだな。まあなにより見知らぬ人から貰ったものを不用心に口にするのはよくない。これテストに出ます」

「明日体育館裏に行くんだよな?その時チョコレートどうだったか聞かれたらなんて答えるつもりなんだよ」

「そら正直に煮沸してパンに塗って食べたって言うよ」

「最高だよ。相棒」私は呆れた様子で頭を振りながら言った。

「海外ドラマの見すぎだな。因みに世那の分もあるからね。まさか俺の飯が食えないとは言わせないぞ」


 バレンタインデーで貰ったチョコレートをまた溶かすということは何を意味しているのか。潔癖症だから他人が作った物は食べられないとかなら理解はできる。しかし火にかけて食べるということについて、当時の私はあまり深くは考えておらず、漠然とやばい奴だぐらいにしか思っていなかった。


 ジャムの代りにパンに塗るなんてのは後から取って付けたような思いつきであって、最重要事項はチョコレートを溶かす点にあったように思う。大人になるにつれ、あの異常な行動の心理に興味が湧いた。逢沢はとにかく手作りのチョコレートをもう一度溶かしたかった。溶かした後のことは溶かしてから考える腹積もりだった。そこに偶然食パンがあったというだけ。何か他の物があれば、例えばバナナだったらチョコバナナになっていただろうし、白米だったらゲテモノが出来上がっていたのだろう。


 実際あの日食べた、チョコレートをジャム代わりにしたトースターはそういった経緯みたいなものを含んでいる味がした。ではなぜチョコレートを溶かす必要があったのか。それはこのハート型のチョコレートを作った本人に直接言いたかったからだ。事実逢沢は体育館裏で待っていた女子生徒にこう言った。


「昨日のチョコレートおいしかったよ。気持ち悪かったから一回お湯で溶かして食パンに塗ってから食べたんだけど、美味かった。友達も美味いっていってたし、質の良いチョコレートだったんだろうなって」私は聞き耳を立てその様子を窺っていたのだが、当時受けた衝撃は何かに例えられるレベルを超えており、自分には全く関係のないことであるはずなのに心臓がバクバクと波打っていたのを昨日のように覚えている。


 口先だけならなんとでも言えるし冗談とも捉えることができなくもないが、それすら許せなかったのだろう。だから実際にチョコレートを溶かす必要があった。厄介なことに逢沢という男は、経験した者とそうでない者の言葉の重みの違いというやつを芯から理解していた。当然女子生徒は絶句していた。顔を見ていなくてもその様子は容易に想像できた。想定の範疇をあまりに逸脱してしまった逢沢の言葉は、恋人になるはずだった女の思考を司る部分を完全に破壊してしまった。そんな女の挙動や表情や涙を見て、逢沢は薄ら笑いを顔に浮かべていた。女はどこかへ走り出した。角に隠れていた私の目の前を走り抜けていった。女の視野角は三十度もなかったように思えた。恐らく私の存在には気づいていない。その頃逢沢が何をしていたか。それこそ想定の範疇の遥か彼方先にあった。


 逢沢は射精していた。「ショーシャンクの空に」の主人公のように天を仰ぎ、肩で息をしながら剃り立ったペニスを左手で掴んでいた。射精直後のペニスはドクドク脈打ち、真っ赤に紅潮していた。尿道から顔を出している体液の残滓。周囲に撒き散らされた白い体液。体液は雑草の葉っぱに垂れ下がるように糸を引いていた。それらすべてが太陽の光を反射して、きらきらと輝いていた。幼い頃からの虐待の影響か、それとも遺伝子に深く刻み込まれたものなのか定かではないが、逢沢は間違いなく歪んだ異常性癖者であって真性のサイコパスだった。


 逢沢からしてみれば何でも良かったのだ。バレンタインデーのチョコレートだろうが、誕生日プレゼントのマフラーだろうが、ラブレターだろうが何でも良かった。複雑に編み込まれたマフラーはゴキブリを優しく包みながら焼却炉で焼かれていただろうし、手汗が染み込んだラブレターはどうにかしてその塩分を抽出しようと試みたことだろう。そのような狂気じみた事象を想像で終わらせるのではなく、身をもって体感することが何より大事だと考えていた。そして自分を好いている女に実体験を披露し、絶対的な狂気によって支配する。何も知らない女の顔は徐々に引きつり始め、次第に恐怖の涙を流すだろう。その涙を自慰の肴にすることが逢沢の真の目的だったのだ。


 その日の夜、女は死んだ。校舎の屋上から飛び降りたらしい。逢沢は女の死について何も思っていない様子だった。まるで使い捨てた性玩具せいがんぐの話を聞いているのかと錯覚するほどに、興味関心というものが感じられなかった。私も含め皆一様に、何も死ぬことはないのにといった浅はかな考えを頭蓋骨の中に隠し持っていたり、ひけらかしたりしていた。十二分に死に値する事象だ。十三歳だか十四歳だかの脆い精神性では、耐えられるはずのない事象だ。 


 思いを寄せていた異性に気持ちを逆撫でされた。おまけに異常者だったのだ。そのような事実を一度に押し付けられたら、自殺してしまうことだって不思議ではない。物理的なダメージに換算すれば心臓を一突きとまでは言わないが、大動脈を一突きであれば大袈裟な表現ではないと思う。


 何でも打ち明けることのできる大親友がいれば助かっただろうか。口コミで予約が埋まってしまうほどの心理カウンセラーがいれば助かっただろうか。いや間違いなく助けることはできないだろう。何でも打ち明けられるとひとえに言っても自分があげたチョコレートを溶かされたなんて話を打ち明けようとは思わない。打ち明けたところで事体が改善されるとは思わないし、寧ろ悪化するとしか考えられない。


 唯一あの女を助けることができるとしたら、それは逢沢か私のどちらかしかいなかっただろう。時空が歪んでしまいそうなほどの異様な情景を共有した者でしか、あの女を救うことはできない。それ以外の者が何を言っても響かない。ここでも経験した者とそうでない者との明暗がはっきりと分かってしまうわけだ。しかし残念ながら当時の私にそのような器量はなかった。走り去っていく女の姿をただ茫然と見つめることしかできなかった。逢沢に関しては、あの態度から察するに自身の行いが自殺に大きく関与しているとすら思っていないはずだ。仮に思っていたとしてもそれはそれで、逢沢の人間としての異常性を一段と際立てせてしまうことになるだけで、何の意味も見出せない微かな淡い希望だった。この一連のエピソードが逢沢という男の異常性を説明する上での一つに過ぎないのだから恐ろしい。


 もしかすると結婚して子供をつくったということにも何か裏があるのかもしれない。オーガズムに達するまでの得体の知れない支度を淡々と進めているのかもしれなかった。ともあれは私は、その後も逢沢の友人であり続けた。その中で何度か異様な光景を目にすることもあった。時には、殺してやりたいと思うこともあった。良くも悪くも当時の私は未熟だった。その結果、逢沢との縁が腐ってしまうまで関係を保ち続けてしまった。所謂腐れ縁ってやつだ。既に縁を切るとかそういう次元の関係値ではなくなってしまった。だから今日も奴の誘いを断わることができなかったし、今後も断わることは無いだろう。


 自分でも薄々気づいていることなのだが、逢沢の異常性には、ある種の人を強烈に惹きつけてしまう節があった。もしかすると私もその一人なのかもしれない。


 突然怒号が飛んできて私は現実世界に引き戻された。どうやら川原と向井が言い争いをしているらしかった。ことのあらましを把握する前に向井は出て行った。捨て台詞に「ふざけるのも大概にしろよ」と言い残し、置き土産に弁当箱を川原に投げつけていた。食べ残された紫色の漬物がデスクの上に散乱しており、その一つが川原の白いシャツにシミをつくっていた。


 川原は事体を飲み込めていないと言った様子で、扉を見つめていた。私は横目で川原の様子を窺っていたのだが、目が合いそうになったので慌てて視線を逸らした。ほどなくして怒りがこみあげてきたのだろう。川原がデスクの引き出しを蹴った。爪先に鉄板が入っているせいか、人の足で蹴ったとは思えない甲高い音がした。厄介なことになったなあと思っていたところへ川原の声が飛んできた。


「岩本!あのクソ馬鹿野郎は帰っちまったからな、あとは全部お前がやっとけよ。恨むなら向井の奴を恨み殺してくれ」はて?何のことだか分からないがこれ以上刺激するのも得策ではないと思い、とりあえず「はい」と返事を返した。その後は沈黙が続いた。どんよりとした重たい空気が体を締め付けるように漂っていた。私は何をするわけにもいかず、秒針を目で追っていた。秒針が五周したところで、川原は事務所から出て行った。空気が明らかに軽くなった。一度伸びをしてから、新着のメールを確認した。なるほど、向井が出ていった理由はこれか。予想通りといえば予想通りなのだが、いざ現実に突き付けられると穏やかではない。メールは親会社の人から送られてきており、文面には石の山の件についての今後の対応方針が記されていた。


「一過性の可能性も踏まえて、当面はそちらの方での対応をお願いします。暫く継続する又は石の発生状況がさらに悪化する場合には設備改善等の検討をします。よって本日の設備運転終了後も石の撤去作業をお願いします」無理もないか。あの作業を帰る前にもう一回やれってのは辛いものがある。それはそれとして奇妙だな。向井ならこれぐらい子供を育てるのに比べたらうんたらかんたらと言いながら作業をしそうなものだが。少なくとも午前中までの雰囲気であれば、怒鳴り散らして仕事を抜け出すなんて想像できない。もしかすると子供の方に何か問題が発生したのかもしれない。或いは気丈に振る舞っていただけで、心の奥底では煮えたぎる熱い怒りを沸々と抱えていたのかもしれない。そんなところへ油を注いでしまったものだがら、向井は爆発してしまった。


 油火災は厄介だ。焦って水をかけてしまえば、反って火の手が大きくなってしまう。そう考えると人間にも似たような節があるなと私は思った。怒っている人や悲しんでいる人に、安直な同情心や慰めの言葉を投げかけるとたまに痛い目に合う。なんで自分が怒鳴られなきゃならんのだと、火の手がどんどん大きくなってしまう。しまいには取っ組み合いの喧嘩に発展したり・・・。


 こんな悠長なことを考えてる場合ではない。私はあの厄介な仕事を一人でやると川原に宣言してしまったんだ。正直言って完遂できるとは思えない。困ったな。今更やっぱりできませんなんて言ったらまた火に油を注いでしまうことになるだろう。もうどうでもいいか。たかが田舎の石炭を運ぶ設備に何かあったからといって、世界が不況に陥るわけでもないし、パンデミックで都市封鎖になるわけでもない。


 少しやって疲れたら帰ろう。それに夕方から大事な予定も入っているんだ。友人がやばいことになったと言っている。仕事よりも十年来の付き合いのある友人のことを優先すべきだろう。そうだろ、そうだろ。皆もそう思うだろう。誰に同意を求めているのか分からないが、最もらしい言い訳にかこつけて自分を納得させることしかできなかった。だったら早い方が良いのではないか。私も仕事を抜け出すべきだろうか。

いやそこまでする必要はない。とりあえず定常の業務は終わらせて、あの箱の中を覗いてから帰ろう。ひょっとしたら石なんて一つもないかもしれない。

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