第3話 一日の終わりに

美味い。こんなに美味い水を飲んだのは初めてかもしれない。あの後、渇いた喉を引きづりながら帰ってきた。途中何度か川の水の誘惑を受けたが、断固として拒否してきた。何分この辺りの水は見た目が綺麗なので、たちが悪かった。美人なキャッチに惹かれて入店したら、醜女しかいない風俗店みたいなものだ。間違いない。五回に 一回は腹を壊す。環境汚染に厳しい時代になったとはいえ、あれだけの工場が立ち並んでいるすぐ傍の川の水を飲めるわけがない。ましてや生だぞ。何にしたって生は危ない。煮沸するに越したことはないし、ゴムをするに越したことはない。面倒臭いとか、あまりきもちよくないとか言いたい気持ちも分からなくはないが、病気になるよりはましだろう。


 思えば人生でゴムなんて付けたことがない。明日仕事の帰りにコンドームを買ってみようか。それを付けて、お気に入りの本の目の前で、射精してやる。身をもってコンドームの有用性を確かめてやる。要は漏出したら困るシチュエーションを用意すればいいのだ。何でもいいさ。皆がもっているお気に入りの何かは膣の代わりになる。温かくてぬるぬるはしていないだろうが、子供は絶対にできない。代償として得られる対価は悪いものではないはずだ。世の中に出回っている大人の玩具は何もわかっていない。どんなに締め付けが良くて、中に返しがついていようが、背徳感や危機感がないではないか。出すことに抵抗がない射精にお金を払うなんてあほらしい。


 拗らせてしまった童貞の戯言が流れている頃、時計の針は午後八時を指していた。もうこんな時間になってしまったのか。明日は仕事で五時には起きなければならないというのに、まだ晩御飯の準備すら出来ていない。私はコップの底に残った水を飲み干して、冷凍庫を開けてみた。大きな冷凍室の底にはアイスクリームが二つと冷凍パスタが一つ眠っていた。下段の野菜室に何も入っていないのは分かっている。両親が交通事故で死んでから一度、整理するために開けたっきりで、それ以来開けた記憶がない。上段の冷蔵室には飲み物ぐらいしか入っていないだろう。


 ひんやりとした冷気に浸っていると、ピーピーと冷蔵庫が騒ぎ出したので、仕方なく冷凍パスタを取り出し、冷凍室を閉めた。外袋を破いて電子レンジの中に霜を被ったパスタを置き、時間を五分にセットしてからスタートボタンを押した。電子レンジがオレンジ色の光を放ちながら、ウーと唸り出す。キッチンにいると嫌でも母の顔を思い出してしまう。だからキッチンはあまり好きではない。まだ賑やかだった頃のキッチンが目に浮かぶ。様々な音が同時に鳴り響くキッチンの様子が。


 ぐつぐつと鍋が煮える音、ざくざくと野菜を切る音、当然のように電子レンジも唸っていて、炊飯器もそこにアクセントを加えた。うっかり屋さんの母はよく冷蔵庫を開けっ放しにしていたので、その音も鳴っていた。私が何か手伝うために近づこうとすると、母は決まってそれを制した。「あんたはそこに座っとき。返って邪魔になるから」と母はよく言っていた。懐かしいような悲しいような、なんとも言えない感情がこみ上げてくる。

 

 父は自分の気持ちや考えを表に出すようなタイプではなかった。毎日仕事と家の往復を繰り返し、休日はテレビを見ているか居眠りをしているかのどちらかだった。もう一度父に会えるとしたら、幸せでしたかと聞いてみたい。


 あの凄惨な交通事故からはや一年。二人とも齢六十を超えていたので、そろそろ運転をさせるのは怖いなと思っていた矢先だった。その日は朝からずっと雨が降っていた。午後の仕事が一段落したので、いつものようにスマートホンを見ていると、見知らぬ番号から電話があった。一度目はセールスか何かだろうと決めつけて無視をした。その後、トイレに行って戻ってくると同じ番号からの着信履歴が残っていた。


 なんだろうと不思議に思いながら私は、暫くその番号を眺めていた。するとすぐにまたスマートホンが震えだして、画面には同じ番号が表示されていた。さすがに只事ではないと思い、画面をスワイプして電話に出た。緊急事態で間違い電話をしているのなら間違っていますよと伝えてあげないと。


「もしもし、加茂浦警察署の者ですが、岩本世那様のお電話で間違いないでしょうか?」

「は、はい。間違いないです」私は空返事をして、過去の行いを反芻していた。何か法に触れるようなことを犯してしまっただろうか。思い当たる節がないと言えば噓になる。でもそれはYouTubeに上がっている違法動画の視聴であったり、まあ所謂インターネットにアップロードされている海賊版の視聴のことについてだ。しかしなあ。現代のインターネット社会においてそれを遵守するというのは、些か難しすぎやしないか?成人している人間であれば誰しもがその罪を犯していると思う。無論未成年者のポルノ動画なんてダウンロードしていないし・・・。まさか見せしめとかいうやつか。クリエイターにとっての円滑な社会のための生贄に選ばれたということなのか。そのような見当違いなことを考えていると、警察官の重い口が開いた。


「そうですか。えー誠に申し上げにくいんですけれども、非常に残念なお知らせがあります。落ち着いて聞いてください。先ほどあなたのご両親と思われる方が交通事故に遭われました」普通はここで生死の確認をするのだろうが、私は何も言わなかった。少しの沈黙の後、警察管は続けた。


「ご遺体の確認をして頂きたいので、可能であればすぐに高本総合病院の方に来て頂きたいのですが構いませんか?」ご遺体。何故かその言葉に妙な安心感を覚えた。何かに解放されたような感覚に陥った。別に家族仲が悪かったとかではない。ではなぜかと言われるとそれは、いつでも後腐れなく死ねるようになったからかもしれない。


 自分が死んだ時、悲しむ人がいないというのは気が楽だろうなと偶に考えてはいた。それが本心なのかどうか分からないでいたのだけれど、警察官がご遺体という言葉を発した瞬間にそれが本心だったと確信した。よしこれでいつでも死ねるぞ。苦しいことがあったら、辛いことがあったら、理不尽なことがあったら、いつでも死ねるぞ。これが霊安室で両親の亡骸をみたときに最初に湧いて出てきた気持ちだった。親不孝な奴だと罵りたければ罵ればいい。覚悟はできている。ただその前に言っておきたいことがある。それは両親に不義理をした記憶はないということだ。大学には行かないで欲しそうにしていたので高校卒業後就職したし、初任給はご飯をご馳走したし、誕生日やら母の日では何かしらあげていた。孫の顔を見せてあげることは叶わなかったが、世間一般的にみればちゃんとしている方の人間だと思う。しかしただ一点歪んだ思想を持ってしまったというだけ。だからといってそんな思想を表に出したことなど一度もない。親しい友人にもネット掲示板にもだ。だから許してほしいこんな愚かな息子を。


 ともあれ私は上司にことのあらましを伝え、病院に向かった。受付の女性に岩本ですと伝えると、すぐに看護師と思わき女性がやってきて霊安室に案内してくれた。


 霊安室の真っ白な扉の前には、スーツを着た中年の男が立っていた。男は白髪の混じったスポーツ刈りのような頭で、長年蓄積した内臓脂肪のせいか妊婦のように腹が膨らんでいた。看護師は男に会釈をすると、私を紹介するように横に捌けた。男が胸ポケットから警察手帳を取り出すと、少し空気が張り詰めた気がした。高橋と名乗ったその男は手短な挨拶を済ませると、看護師に霊安室を案内するよう目配せをした。


 私は促されるように部屋に足を踏み入れ、遺体が眠っている白いベッドの前までゆっくりと歩を進めた。いざ両親の遺体を目の前にすると、さすがに足がすくんだ。部屋の扉が閉まる音がした。顔に被された白い布を剥がして男は言った。


「御母様で間違いないでしょうか」私は何も言わずに頷いた。男は反対側に回り込むと、同じように聞いた。

「御父様で間違いないでしょうか」同じように頷いた。改めてみると二人とも老けたな。それは死んでしまったからなのかもしれない。分からないけれど、知らない皺が増えたなと思った。


「お悔やみ申し上げます。お辛いでしょうが気をしっかり持ってください。後ほど担当医の方から死因等の説明があると思います。事故の原因についても後ほど詳しく説明します」男は定形文を述べた後、足早に部屋を出て行った。


 看護師は神妙な面持ちでこちらを見ていた。その後のことは断片的にしか覚えていない。看護師の女性がマスク美人でがっかりしたであるとか、死因は出血多量によるショック死であるとかそれぐらいしか覚えていない。確か事故を起こしたドライバーは居眠り運転をしていて、赤信号を無視して突っ込んできたんだったな。不運な事故だった。私にも似たような経験があった。その時は偶々車が前にいなかっただけ。だからその被疑者のドライバーを責めることができなかった。


 聞けば、被疑者の男性は三十代のサラリーマンで妻と娘が一人いた。夫婦二人で目に涙を浮かべながら謝罪にきたのをよく覚えている。その涙の内訳は、これからやってくる社会的制裁に対する漠然とした恐怖が過半数を占めているのだろう。そうだとしても夫婦の声音や立ち振る舞いや細かい仕草には、後悔と自責の念が嫌というほど染み出しており、それは私にとって十分すぎるほどの謝罪の形だった。


 私は言った。「今回の件はこれで終わりにしましょう。私はあなた方を恨んでなどいません。慰謝料を要求するつもりもありませんし、無論裁判を起こすつもりもありません。ただ一つ。今後は気を付けてください。私の両親を最初で最後の犠牲者にしてください。私を含め両親も天国でそれだけを願っていると思います。何より娘さんの人生を大事にしてください」その言葉の中には、はちきれんばかりの怒りも、孤独となった悲しみも、負の連鎖を止めようとする正義感も、苦虫を噛み殺すかのような表情も含まれていなかったように思う。寧ろ感謝に近い感情が纏わりついていた。そのついでにドラマのようなかっこいいセリフを言ってやろうという欲求も見え隠れしていた。あの夫婦が真意を汲み取っていたのかは知らない。だが今回の事故の真相は、心の奥底で両親の死を願っていた男の両親を殺してしまったということなのである。いや待てよ。それはあくまで主観的な事故の真相であって、もしかするとあの夫婦の視点ではより悍ましい真実が眠っていたのかもしれない。仮にそうであったとしても、我々はお互いの真実を誰かに語ることはないだろうし、詮索することは絶対にないだろう。


 いつの間にか電子レンジは静かになっていた。私は慌てて冷凍パスタを取り出した。トレイは全体的に熱を帯びていて、一分も持ち続けていたならば火傷をしていただろう。熱の塊を一旦シンクの上に置き、食器棚からフォークを手に取った。フォークを冷凍パスタの薄いビニールの上に置いて、テーブルまで運んだ。ビニールにフォークを突き刺すと、もわっと湯気が湧き出してきて、カルボナーラ特有のクリーミーな香りが鼻孔を刺激した。私は野生動物のようにパスタに食らいついた。その食べっぷりときたら目を見張るものがあったのだが、イタリアンレストランは出禁になる可能性が高かった。相応しい場所といえばラーメン屋で、パスタをフォークに巻きつけることなくズズっと吸い上げていた。時計の長針が三周する間もなくカルボナーラを平らげると、トレイをゴミ袋に放り込み、フォークを洗剤で洗った。


 時刻は八時十五分を回っていた。窓を開けると、網戸にびっしりと蚊がへばり付いていた。会話の妨げになりそうなほどのけたたましい蛙の大合唱もこの時期ならではの風情だった。暫くそのような雰囲気に浸っていると、ものすごい音が耳を劈いた。バイクのエンジン音で間違いないだろう。その音は風情を轢き殺すかのように、走り去っていった。

 

 私は苛立ちを露わにするかのように拳で網戸を小突いた。蚊の群れは瞬く間に飛び去って行き、辺りは静まり返っていた。季節味が浸透した風情ある雰囲気は一転、まるで凄惨な事故現場の形相を呈していた。両親が事故に遭った時も似たような様子だったのかもしれない。群衆は開いた口を手で覆いながら脊椎反射で、スマートホンのカメラを起動させる。SNSには凄惨な事故の様子がアップロードされていて、メディアも顔負けだったことだろう。


 落ち着きを取り戻した群衆のガヤのように蚊が舞い戻り、蛙たちも騒ぎ出した。私はその様子をカメラに収めてSNSにアップロードした。タイトルは風情の墓場。数分が経過したが当然、返信はなくて閲覧数も0だった。


 窓を閉めたら嘘のように静かになって、リビングは静謐に満ちていた。電気を消すと暗くなって、付けると明るくなった。当たり前のことを実感すると、途端にどっと疲れてきて、ソファーに寝転んだ。このまま目を瞑ってしまえば一刻と持たずに眠ってしまうだろう。それも悪くはない。本当はこんな汗まみれのTシャツなんか脱ぎ捨てて、シャワーを浴びてから眠りにつきたかったのだが、大津波のようにやってくるとめどないこの眠気は、人間が抗える代物ではないように思えた。


 しかし私は一向に目を瞑ろうとはしなかった。天井に付着した黒子のようなシミをぼんやりと眺め続けた。次第に目が乾いて、痛みを伴い出した。それでも何事もないかのように平然とした態度でシミを眺めていると、じわじわと視界がぼやけてきて、生暖かい大粒の雫が頬を伝ったのだ。まるで憑依されたみたいに悲哀に満ちた誰かの代わりに泣いてあげているような気がして、そう思うとダムが決壊したみたいに涙が止まらなくなって、このまま体中の水分がなくなってしまうのではないか、と不安に駆られた。もしこの家に誰かがやってきて、涙の理由を問われたなら私はなんと答えるのだろうか。少し昔のことを思い出してねとか、人間生きていれば理由もなく涙が止まらなくなることもあるんだよとか。ありきたりでどうとでもとれるような言い訳しか頭に浮かんでこなかった。


 しかしこの異様な姿の言い訳の材料としては過不足も甚だしい気がした。誰もが異変を察するだろうし、訝しげに首をかしげるだろう。「私はあなたのために泣いているんです。無理をする必要はありませんよ。お辛いことがあったのでしょう。だから代わりに泣いているんですよ」いや違う。「さっき目の前で風情が殺されたんだ。だから泣いているのです」明鏡止水にこれらの言葉を並べることができたなら、この人は頭がおかしくなってしまったのだと納得して貰えるかもしれない。


 但し、そのような理由で納得して貰えたということは、二人の縁が切れたことの裏返しでもあって、それを阻止するための最もらしい理路整然とした理由は、今まさに流れ落ちる涙のようなもので、分かり合えない人間とはどんなことがあっても分かり合えないとういうことを証明しているようだった。


 一頻りの涙の後、私は生きた心地のしない足取りで風呂場に向かった。ふらふらと覚束ない動作で服を脱ぐその姿は、立っているのが不思議なほどだった。愛しい一輪の花に触れるように接したとしても倒壊してしまうビルのような私は、服を脱ぎ捨てると浴室の扉を開けた。節足動物の足の動きにも似た扉の開閉をいつものようにこなすと、ようやく感覚が戻ってきて日常を取り戻すことができた。


 何をきっかけとしてあのような無駄な時間を過ごすことになってしまったのかは分からないが、ともあれ明日は仕事で六時には会社に着いておかなければならないという事実が変わらないのなら、やはりあの時間は無駄だったのだと改めて言わざるを得ないのだろう。


 シャワーヘッドを手に持ち、お湯の方に蛇口を向けたが暫く冷水が出てくるのはいつもことだった。シャワーヘッドを浴槽の方に向け、お湯が出てくるのを待つ時間がいつもより心地良く感じるのは、例の無駄な時間の唯一の光明と言って差し支えないだろうか。反論する者はいないだろうか。こんなことを考えているとまた睡眠時間を削ってしまいかねない。そんな私の思いを汲み取るかのように細切れの水が徐々に温かくなっていくのを指先で感じ取った。

 

 指先から神経を伝って大脳にお湯の温度が逐一伝達されている時分、ふと何か忘れていることがあるのではないかという疑念が頭を過った。そうだ。大事なことを忘れていた。寝室を冷気で満たすことをすっかり忘れていた。ようはエアコンを付け忘れていたわけだ。その時、調度良い湯加減になったと大脳が騒ぎ出したので、いっそのことこのまま頭からシャワーを被ってやろうかとも思ったのだが、いやそれではあまりに野生的な思考過ぎるし、大きな脳味噌を支えて生きている意味がないという考えを否定する時間が無駄に思えたので、私はシャワーヘッドを元の位置に引掛け、足早に寝室へ向かった。


 ナイトルーティーンなんて言ってしまうと、小っ恥ずかしくて何も言えなくなってしまうのだろうが、暑い時期に熱いシャワーを滝のように浴びて、キンキンに冷えた寝室で寝るのが私は好きだった。そのためにはやはり、エアコンのスイッチを押さない訳にはいかなかったのだ。


 さもしく皮を被った一物をぶら下げ、洗面所を出てすぐ右手にある畳敷きの寝室に入った。エアコンのリモコンは机の隅に置かれていた。リモコンを手に取ると、女性器を思わせるような大きな木目が現れた。一物はそれには反応することはなく、ただぶら下がっているばかりだった。エアコンの方に向けて冷房のスイッチを押すと、ピッと音が鳴って吹き出し口に付いている羽が動き出した。


 私はその様子を満足気に見届けると、踵を返して浴室に戻り、シャワーを頭から浴びた。温さが頭部から順に肩、胸、腹、腿と広がってゆき、全身を満たした。シャンプーボトルを押し込んで精液のような液体を掌に乗せた。それを髪に塗り込むと忽ち泡立って、汗臭い頭皮の臭いを消し去ってくれた。ボディソープを使い、手で体をさするように洗った。ついでに歯磨きも済ませた。体を洗う時、タオルを使わないのは生来からの面倒くさがりのせいであって、肌が弱いとかそういった特別な理由はない。

 浴室から上がると、薄汚れた足ふきマットが出迎えてくれた。一人で暮らすようになってからこのマットを洗った記憶がない。となると一年近くになるので不衛生極まりないことは承知の上であったが、特に不都合がないため気に留めることなく今日に至った。


 確か元の色は灰色だった気がするけれど、現在に至っては薄茶色のような何とも言えない色味を帯びていた。この色素の大凡が自分の皮脂や雑菌由来の物と考えると吐き気を催さなくもないが、いざ天秤にかけてみると結局面倒くさいが勝ってしまうのだから、生来の性格を侮蔑すること以外何も出来ることはなかった。


 しかし考え方を百八十度度変えてみれば有意義な意見も降ってくるのではないか。ある意味でこの足ふきマットは私自身に近づいていると考えられなくもない。毎日少しずつではあるが、世那を吸収している。だからなんだ不潔なマットであることに変わりないだろ、と一蹴されてしまえばそれまでなのかもしれない。しかしマットを使っている人が、例えばお気に入りの女優とかアイドルだったならば大きく話が変わってくるのではなかろうか。「どうだろう。君たちのその強気な意見に多少綻びが生じてきたのではないですかか。どうしたんですか。少し動揺しているようにも見受けられますが。まあいいでしょう。取り敢えずこのマットはここに置いておきますので、気が向いたら持って帰っていいですよ。では私はこの辺で失礼します」その後すぐに足ふきマットが忽然と姿を消してまう未来については、言うまでもないだろう。


 汚れたものには汚れたものなりの価値があって、その真価が問われるのは、百年後かもしれないし、千年後かもしれないのだ。その可能性を破壊する度胸が私にはなかった。もし誰かにマットが汚れていることについて詰め寄られたときは、そのように言い訳してやろうと思う。

 

 黒いバスタオルで適度に体を拭いた後、寝室に向かった。寝室は涼やかな空気が流れており、火照った体に冷気が染み渡っていく感じが気持ち良かった。枕の横に脱ぎ捨ててあった黒のジャージを着た。なんだか黒色のものばかりになっている気がする。服もタオルも布団カバーも枕カバーも黒ばっかりだ。汚れが目立たないからという理由から、反射的に黒色の物ばかりを選んでしまうようになったのは、恐らく母が死んでしまったことによる弊害の一つだろう。もしこれらの物が白色だった世界を想像すると、ゾッとした。さすがに言い訳の面目が立たなくなってしまう。とはいえこの家に人を招待することがあるとは思えない。ましてや風呂場を使わせることなんてまずないだろう。学生時代からの友人とかならその可能性もなくはないが、彼らに対しては何も取り繕う必要がないため、ありのままの事実を告げればいい。寧ろ悪い方に話を盛るかもしれない。そのマットはもう3年は洗ってないから、覚悟して使えよと言った具合に。


 時計を見やると、とうに9時を回っていた。私はスマートホンのアラームを5時半に設定し、部屋の明かりを消して布団の中に潜り込んだ。頭上の右端で微かに青白い光が灯っている。時計の秒針はチクタクとは言わず、滑らかに動いている。目を閉じると、印象的な出来事が瞼の裏に張り付いていて、フナ虫とかソテツとか愛想のない猫がフラッシュバックした。次第に意識が遠のいてゆき、彼らが織りなす不思議なストーリーの世界に吸い込まれていった。


 フナ虫の大群が猫を追いかけ回し、猫は必死に逃げまどっている。路地を抜けて右に曲がるとソテツが視界に飛び込んできたので、猫は神にも縋る思いでソテツによじ登った。フナ虫たちも猫の動きに合わせて進路を変え、一斉にソテツの方に向かって駆け出していった。瞬く間にフナ虫の大群がソテツの周囲を覆いつくし、まるで戦国時代の籠城戦のような雰囲気を醸し出していた。云百、云千万と言っても過言ではないフナ虫の大海を目にした猫は、がくがくと震えていた。この後どうなってしまうのだろうかと思いながら私は、その様子を見守っていた。何かの合図に呼応するようにフナ虫たちがソテツにじわじわと詰め寄ってくる。猫は相変わらず腰が抜けた老人みたいにソテツに縋りつくばかりで、具体的な解決策を思案できる状態ではなかった。


 一列目に布陣するフナ虫がソテツによじ登ろうとしたその刹那、猫は発狂しながらフナ虫の海に飛び込んでいった。着地するや否やみるみるうちに猫はフナ虫に包み込まてゆき、その姿を消してしまった。群がるフナ虫の形が猫の形をしていたのは僅かな時間で、すぐに原型を失ってしまった。スイミーみたいだと思った。残念ながら目を担おうする賢いフナ虫はいなかったけれど、僅かではあるがそこには猫を思わせるフナ虫が存在していたのだ。


 その時、パッと目が見開いてこの不思議な出来事が夢であると自覚した。時計の秒針の動きに連動するように、夢の記憶は薄まってゆく。あの猫は気に入らなかったが、あんな仕打ちを受けるほどの罪を犯してはないんじゃないか。はて、猫は何に喰われたんだっけ。ゴキブリだったかゲジゲジにも似たような・・・。


 薄まってゆく夢の続きを手繰り寄せるように考え耽っていると、いつの間にか意識は消失していた。エアコンの青白い光だけがくっきりと浮かび上がった寝室では、騒音のような寝息が響き渡り、夢の残渣が揺蕩っていた。

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