第2話 自尊心と猫



 どれぐらいの時間が過ぎ去ったろうか。生憎それを確認する手段を持ち合わせていなかった。腕時計もスマートホンも持っていないし、商船はただ浮かんでいるだけで時の流れを実感するだけの距離を確保していなかった。辺りが薄暗ければ簡単なことだったのだが、夕陽は変わらず輝いていた。


 ふと真下を見やると、石垣のように石が積まれた足場あるのに気が付いた。石と石の隙間や壁面には、フナ虫の群れが蠢いていた。私はその石垣の上を歩いてみたいという衝動に駆られた。よく見ると少し左に行ったところに、下へと通ずる階段があるではないか。この好機を逃すまいと言わんばかりに駆け出し、堤防を乗り越えるための階段を上り、目算で十五段はあるだろう階段を下る。半分程度下った所で地面がぬめぬめと滑りやすいものに変化したため、無意識のうちに壁を手摺代わりに左手を添わせた。本当に必要な場所に存在しない手摺に怒りをぶつけながら、残りの階段を下った。


 石垣に降り立つと、フナ虫の群れが暗闇に吸い込まれるように逃げ去った。石垣はずっと先まで続いていて、途中弧を描くように曲がっていた。曲がった先に似たような階段があるだろうと目論んで、石垣の上を歩き始めた。歩を進める度にフナ虫が騒ぎ立て、隠れ場所へ一目散に走り出す。それを繰り返している内に、なんだかとても不快な気分になてきて、早くもここに来てしまったことを後悔しそうになっていた。このままでは駄目だと言う風に無理やり、夕陽に目を向けた。できるだけ夕陽にピントを合わせて、周囲をぼやけさせようと試みた。しかし太陽の光というのは生半可なもではなくて、すぐに目が限界を迎えた。結果的に刹那的な視界不良に陥ることとなり、フナ虫から解放された。


 視界が明瞭になると、改めて太陽が我々の生活に与える影響力の強さを実感すると共に、フナ虫の不快さを実感することになった。心の弱り具合を体現するかのように体が向き直り、さっきほど下ってきた階段を凝視した。今、戻れば軽傷で済むだろうな。なにより帰り道はフナ虫がいないだろう。異形の生物に対する警戒心を解くにはいささか早すぎる。しかし戻りたい気持ちとは裏腹に、何故だか体は一向に動く気配を見せなかった。一体何に縛り付けられているというのだろうか。接着剤のようなものを踏んでしまったのではないか、という常軌を逸した考えを否定するために足を浮かせてみた。足取りはいつもより軽やかで、次の一歩を踏み出したくてうずうずしているくらいだった。では一体なんだというのだ。この感覚をどう説明すればいい。


 暫くの間考え耽っていると、答えと思わしき結論にたどり着くことができた。それはとうの昔に失われてしまったはずの、自尊心というやつだった。アメリカ人にも分かるように言うならプライドってやつだ。しかしどうしたことか。そんなものは小学生の頃、そう腕っぷしの強い人たちの言いなりになりはじめた時を境に完全に消失してしまったと思い込んでいた。


 学生時代にいじめられたときも、去年の忘年会で彼女がいないことについて一時間以上説教された時も、何も感じやしなかったのに。ことフナ虫に怯えて逃げ帰ってしまうことに対しては、自尊心をもってして負けたくないみたいな感情が芽生えてきた訳だ。ではなぜそのタイミングが今なのか。六月の夕陽が輝く海岸沿いの石垣の上に生息しているフナ虫に対してなのか私には全く分からなかった。そのような言語化できない事象について考えることが好きな質なのだけれど、これ以上考えたいとは思えなかった。兎にも角にも決断しなければならなかった。このまま引き返すのか、踵を返して次の階段を目指すのか。私は深呼吸をし、フナ虫のいる方向に向かって歩き始めた。最後に自尊心を守るために素直にならなかったのはいつのことだったろうか。

恐らく幼少の頃だろう。具体的には何も覚えていない。そして次に自尊心を守るのはいつになるのだろうか。もしかするとこのフナ虫の件が最後になるのかもしれない。その未来は十二分に起こり得るだろう。


 石垣の上は足場が悪く、普通に歩くにしてもとても疲れを感じた。何分大小の隙間が空いているもんだから、常に視線を石垣に向けて歩く必要があった。それはつまりフナ虫を視界に捉え続けることの裏返しでもあった。夕陽を見ながら海岸沿いの石垣の上を歩く理想と大きくかけ離れた現実。今できることは自分の浅はかな目論見と、突如姿を現した自尊心を憎むことだけだった。上を向いて歩こう。涙が零れないように。そんな歌詞が浮かんできて上を向いてみたのだけれど、すぐに石の隙間に足を持っていかれそうになった。


 辺りは薄暗くなり、空は鮮やかな紫色を帯びていた。当然前方には石垣の道が続いており、その先が曲がり道になっていたのだが、どうにも不思議だ。過ぎ去った時間に対して、進んだ距離が短かすぎやしないか。商船は孤島の岩肌に重なる位置に達しており、前進しているのが嫌でも見て取れた。それなのに曲がり道に近づいている気配が全く感じられなかった。


 心なしか波の高さが上がって来ているような気がする。途端に怖くなって、後ろに振り返った。階段は随分と小さくなっていて、今更引き返すのは返って危険なのではないかという怪しさが滲み出ていた。鼓動が早くなっているのを感じる。ドクン、ドクンと脈打っている。夕陽が厚い雲に隠れて辺りが暗くなった。その瞬間、私は走りだした。


 石垣に足を攫われないよう、旋毛を一層晒しながらただ只管に足を動かした。フナ虫のことなど眼中になかった。どこに向かって走っているのかさえ分からなかった。できるだけ足場の良い石を選別する。と同時に素早く足をそこへ着地させ、目は次の足場の選別をはじめている。まるで遊園地のアトラクションのような作業を嫌な汗にまみれながら繰り返した。


 息苦しさを押し殺してできるだけ長く繰り返した。だとしても限界は太陽が沈むことのようにやってきて、その場で立ち止まった。肩で息をしながら呼吸を整えた。意を決して視線を前に向けると、海が広がっていた。そら海岸沿いを歩いているのだから海が見えるのは当たり前のことなのだが、そういうことを言いたいのではなくて、ようは真正面から見た時の海の景色が広がっていたのだ。


 真っ直ぐとどこまでも続く地平線が見えた。想像していた状況と大きくかけ離れている現実は紛れもない現実だった。そこには美人モデルのウエストのようにくびれた曲がり道も、手摺のない階段も存在しておらず、海だけが延々と続いていたのだ。別に超常現象が起きたわけではない。要はとても単純な話で、丁度カーブしている道の頂点に自分が立っているに過ぎなかった。そのことを証明するかのように左斜め前方には石垣が続いていて、少し先には上へと続く階段もあった。


 私は肩をなで下ろし、安堵するようにほっと溜息をついた。すると途端に余裕が湧き上がってきて、ステップを踏むかのように進み始めた。軽やかなその足取りはついさっきまでの切羽詰まった様子とは大違いで、まるでクラシックの音色が漂っているようだった。視野も随分と広がり、石の隙間に挟まっている多種多様な漂着物について妄想を膨らませようとするほどだ。


 ラベルは完全に剝がれてしまっているけれど、真っ赤なキャップがその存在感を際立ったせているペットボトル。歪な形の薄汚れた発泡スチロール。以前はこの大海原を泳ぐための一部だったであろう大きな背骨。そのような漂着物の一つ一つに思いを馳せることができた。いつの間にかフナ虫に対する不快感も消え去っていた。なんならちょっかいを出すぐらいには友好的になっていた。


 相変らず前を向いて歩くことは叶わなかったが、気分はとても晴れやかだった。なぜか逃げ隠れようとしない骨格の大きなフナ虫へ爪先で小突く真似をしてみたり、小石を群れの中心に投げ込んだりしながら先に進んだ。ようやっと階段の目の前に辿り着いた頃には、雲に隠れた夕陽が再度顔を出していた。この期に及んで、滑って転ぶなどという悲劇が起こるとは思わなかったのだろう。


 私は階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。現に転ぶことはなかった。現実世界とは漫画やアニメーションみたいな狙い澄ますように仕組まれた幸運や不幸は訪れないように出来ているものだ。それはそれで良いとして、はてここはどこだろうか。


 まず最初に目に飛び込んできたのは、傾斜地に生い茂る草むらとその先に広がる住宅街だった。傾斜地を下った所には細い小道があって、老婆がシルバーカーに頼りながら歩いていた。田舎の総合病院の分娩室に産声を轟かせてから26年。両親から世那せなという名を授かってい以来、ずっとこの町で暮らしてきたわけだが、こんな場所に住宅が立ち並んでいるとは知らなかった。よく見たところ新築っぽい家も散見され、昔ながらの平屋の木造住宅を悠々と見下ろしていた。そんな親近感の湧かない景色を見下ろしながら歩いていると、突然南国を思わせる植物が目の前に現れた。

たぶんソテツだろう。小太りの成人男性ぐらいの体躯をしたそれは、酷いニキビ跡のようなゴツゴツとした木肌に、天辺からはアホ毛のような長い葉っぱが伸びてい

た。

 

 怪訝な顔付きで、睨むようにソテツを見つめた。どこからともなく甲高い笑い声が聞こえた。その声に我に返ると、私はまた道なりに歩き始めた。


 道はソテツを覆うようにUの字型になっており、眼下の住宅街の中心に割って入るように続いていた。住宅街に近づくにつれ、なんの変哲もない見た目に安心した。というのも海岸沿いでの出来事や、突然現れた南国の植物の影響で、何かおかしなことが起きるのではないかと心配していたのだ。そんな心配をよそにカラスが鳴き、古い木造住宅からテレビの音が聞こえてきた。薄い壁と聴力低下に伴う音量上昇との相乗効果のせいか、とても鮮明にアナウンサーの声が聞こえた。明日の天気は曇のち晴れだそうだ。


 梅雨の時期に雨以外の予報が並んでいると、本当か?と疑ってしまう人は少なくないと思う。それは過去、天気予報に裏切られたという実体験であるとか、梅雨だから雨が降っている方が安心するといった心理的な面からやってくる懐疑心だろう。私は間違いなく後者の人間だった。


 春は花粉に苦しめられ、梅雨は雨と湿気が不快で、夏は命を脅かすほどに暑くて、冬は寒い。だからこそ必ずやってくる秋に感謝し、必ず過ぎ去っていく秋に悲しむことができた。私は秋が好きだ。毎日のように喧嘩を繰り広げた夏と円満に別れることができているのは、間違いなく秋のおかげだろう。秋が我々の間に立って仲立ちをしてくれている訳だ。だからといって一年中秋のような気候が続けばいいとは思わない。


 寒暖のグラデーションの中に存在するのが秋であって、それが一年中続くとなるとそれは何者でもない何かだ。仕事があるから休みが存在するというように、何もないのは楽だけど刺激がなくてつまらないではないか。人間という生き物は何かに焦がれているぐらいの方が幸せに暮らしていける。長い休みに焦がれ、過ごしやすい季節に焦がれる。

「そうやって生きた方がなんだかんだ楽しいと思わないかい?」

「思わない?」

「もしそうなら、残念だけど君とは恋人や友達といった関係にはなれないだろう。仮に君が有名大学を卒業していて、ミスコンのグランプリに選ばれていたとしてもだ。私は君のことを共産主義者であるかのように忌み嫌う。それでも君は幸運だよ。 今、私はとても喉が渇いていてね。そこにある自動販売機で何か買ってきてくれるというのなら許してやらんこともないぞ。」

「何?」

「買わない?」

「あんたなんかこっちから願い下げ?」

「君は何を言っているのかわかってるのか。分かった、分かった。共産主義者はいいすぎたね。前言撤回し、謝罪するよ。私も馬鹿ではない。建設的な話をしにきたんだ。そうつまりは喉を潤すためにだな・・・」そんな独り言を呟いてみたはいいが、枯れた喉が潤うはずがなかった。


 なんで財布を持ってこなかったのだろう。財布の中には自動販売機の中身を全て買えるだけのお金が入っているのに。銀行口座には自動販売機本体を買えるだけのお金が眠っているのに。私は自身の愚行を責め立てるように、自分の頬をひっぱたいた。狂った妄想をする暇があるなら打開策の一つでも提案して欲しいものだ。人間の頭部が重たいのは、思考する力が優れているという証。それなのにこの頭ときたら余計な事ばかりを考えている。いつまで自分を欺けば気が済むんだ。喉の渇きなんてソテツを見つけた辺りからかなりのもだったろう。それをなんとか騙し、騙しでここまでやって来た。本質的な問題はまた別の所にある。お前はそれに気づいている。何をすべきなのかを知っている。では何故行動に移さないのか。体が鉛のように重たく感じるのか。その理由はついさっきお目にかかったあいつだ。自尊心ってやつだ。


 早々の再開となった自尊心は、すましきった貴婦人のような性格をしていた。 「あらこんなところでまたお会いできるなんて光栄ですわ」そんな言葉が聞こえた。いや、間違いなく空耳だろう。


 全く何年もご無沙汰だったにも拘らず、なんでまた今日に限って二回も・・・。とはいえ時間の問題だな。もうあと数分もすれば、渇きの苦痛が自尊心を上回る。そうなれば自然と行動に移ることができるはずだ。いや、待てよ。この周囲の明るさは、その数分後とやらの世界に担保されているのだろうか。今はまだ辛うじて明るいけれど、ここからは急速に光が失われていくはずだ。次の呼吸を行う前に体は動いていた。両手と両膝を大地に固定し、頬が地面につきそうなほどに屈んでいた。視線の先が見据えるのは僅かな光が灯る自動販売機と地面の隙間。私はどんくさい人間がコインを置き去りにしている可能性に賭けたのだ。


 「見当たらないなあ」蜘蛛の巣とかうまい棒の袋とかそんなものしかない。できるだけ奥を覗こうと前のめりになると、おでこが自動販売機に当たった。諦めて立ち上ろうとしたその刹那、何者かの視線を感じた。誰かに見られているのか。そういえば覗き込む前に周囲の確認を忘れてしまったな。間違いない何かが自分を凝視している。しかし今となってはどうでもいいことだ。見て見ろこのぐちゃぐちゃになってしまった自尊心とやらを。今更誰に見られていようが関係ない。

 

私は素早く上体を起こした。手と膝に着いた小石やらなんやらを払って、周囲を見渡した。車道の真向かいに猫がいた。灰色の毛並みの猫は、可愛らしい顔でこちらを見ていた。しかしその視線はとてもとても冷たかった。まるで犯罪者や浮浪者を見下す時に用いる視線だ。


 お前も似たようなもんだろ。ちょっと顔がいいからって調子に乗りやがって。私は猫に向かってなけなしの唾を吐き捨てた。すると猫は興味なさげに外方を向いて、欠伸をした。辺りは暗闇に包まれ、水銀灯が明滅していた。

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