第二話

「ふあぁ……」

 昼下がりの講義。窓からは暖かい日差しが差し込んでいる。もう眠くて眠くて、先ほどからあくびが止まらない。

 結局昨日は後処理やら何やらに追われ、帰って寝たのは夜中の一時過ぎだった。

 明らかにバイトが学業に支障をきたしている。

「眠そうだな」

「あぁ……うん……」

 講義も終わり、大学の知人が声をかけてくるが、正直頭がボーッとしてそれどころじゃない。というかコイツ誰だっけ。

「バイトで忙しいんだって? いわゆるブラックバイトってやつ?」

 半笑いでそう尋ねてくる。僕は適当な返事を繰り返した。

 馬鹿を言え。ブラックどころか、ぶっちぎりで闇バイトだ。

「とりあえず、コーヒーでも買ってから帰ろう……」

 今日は久しぶりにシフトが入っていない日だ。そして今日の授業はもう終わり。どうやら僕にもつかの間の平穏が訪れるらしい。

 教室を出て購買に行くには中庭を突っ切るのが一番早い。僕は眠い目をこすりながら校舎を出た。

「──でさ~そいつがぁ~」

「え~マジ~?」

「アハハ! お兄さんマジ最高!」

 しかし、中庭ではチャラそうな男女数人組が馬鹿みたいに大きな声で話している。ただでさえ耳障りな声が寝不足の頭にキンキン響く。

「お! おーい! こっちこっち!」

 そのうちの一人が誰かを呼んでいる。正直これ以上うるさくされたら正気を保てなくなりそうだ。

「こっちだって! こっちこっち!」

 恐らく呼ばれている奴は気づいていないのだろう。誰かを呼ぶ男の声が、まるで悪夢のようにグルグルと頭の中を回っていく。

 と、その時誰かの手が僕の肩をつかんだ。


「オマエだよ、パピー」


 目を合わせないよううつむいていた僕の顔が反射的に跳ね上がる。

 そこにいた男……金髪のチャラ男がかけているサングラスには、目の下に真っ黒なクマが刻まれた、僕の間抜け顔が映っていた。

「先輩……」

「よぉ、待ちくたびれたぜ」

 さようなら、僕の休日。

「コイツだよコイツ! さっき言った後輩!」

 先輩と肩を組まされた僕は、陽キャグループの前へと引っ張り出される。

「ふーん、この陰キャっぽい子がねー」

「先輩、何でここにいるんですか」

 いかにも頭悪そうな女を無視し、先輩に質問する。もちろん先輩は大学の関係者でもなければ学生でもない。なぜ僕の大学にいる?

「んなもん、オマエに用があるに決まってんだろ?」

 どうせ勝手に入ってきて、数人の女子大生をナンパしたのが今の状況なのは分かるが、僕に用事?

「お仕事のお話さ」

「それは分かりますよ。逆にそれ以外だったらぶち殺しますからね」

「オイオイ! 冗談になってねぇぜパピー?」

「アハハ! この子おもしろーい!」

 この軽薄そうな女たちも、軽薄な先輩も、心底不愉快だ。

「ねぇねぇ陰キャくん、君この人と仲良いの?」

「はぁ……いや……」

 こういう女、僕は嫌いだ。

 頼むからどっか行ってくれ。僕は眠くて眠くて仕方ないんだ。

「それじゃ! オレはコイツに用があるから、皆またねー」

『またねー』じゃないよ。まずなんで闇企業の正社員がこんな所に来てるんだよ。アンタ頭の先から足の先まで殺し屋じゃないか。

「いやー大学って良いとこだな! かわいい女の子がり取り見取りだぜ!」

「逮捕とかされたら、それこそ洒落しゃれにならないですよ」

「安心しろ。仮に捕まっても仕事の事はバレねぇよ」

 この女たらしが。いっその事逮捕されてしまえ。

「それで? 仕事の話って何ですか? 今日僕シフト入ってないんですけど」

 無駄な抵抗なのは分かっている。しかし、言いたい事は全て言わなくてはならない。どうせ連れて行かれるのは変わらないだろうけど、足掻あがけるだけ足掻くのが僕のやり方だ。

「ボスがお呼びだ。オレと事務所に来い」

 絶対に断れない用事。鉄製のハンマーで頭をぶん殴られたような感覚だ。

「……今日はちょっと大学の講義が」

 僕のはかない希望を乗せたピコピコハンマーは、いともたやすく握りつぶされる。。

「嘘つけ。今日のオマエの時間割は三限で終了だ」

 なんで知ってるんだよ。



 そんな訳で、僕は会社の事務所にいる。小さな清掃業者のフリをした、至って普通、ごくごくありふれた事務所だ。

「お疲れ様、折角せっかくの休日なのに呼び出してしまって申し訳ないね」

「いえ……」

 小太りの中年が微笑んでいる。イスに腰をかけたサンタクロース風のおっさんが僕のバイト先のボスだ。

「大丈夫っすよボス、コイツ大学以外の予定無いっすから」

 先輩はここに着いたその時から、事務所のソファに寝転がって酒を浴びている。

 控えめに言って死んでほしい。

「早速だが本題に入ろうか。今日君たちを呼んだのは昨日の依頼についてだ」

「昨日の?」

 昨日の依頼。あの二人を始末する仕事だったが、普段の仕事との違いは無かったように思える。

 ここじゃよくある、普通の仕事だ。

「まんまとおとりに釣られるわ、標的に射線切られて逃げられるわ、焦ってスキンヘッド撃ち殺すわ……オレがいなきゃ依頼しくじってたもんなぁ?」

「先輩だって、囮にだまされてたじゃないですか」

「バーカ! 気づいてた上でパピーに黙ってたに決まってんだろうが!」

「まぁまぁ、彼はまだアルバイトですし、サポートとして君とコンビを組ませたんですから。大目に見てください。バイパー君」

 バイパーというのはここでの先輩の通り名である。なにせ、本名等の個人情報を出す事が危険な仕事だ。

 僕もここでは、不本意ながら『パピー』と呼ばれている。

「さて、話を戻しましょうか。昨日のターゲット、どんな人間だったのか知っていますか?」

 ボスが僕に問いかける。

「いいえ、僕らの仕事はただターゲットを始末する事。そこに詮索せんさくは不要。むしろ余計な情報は思考を鈍らせます」

「その通り。よくできました」

「先輩方に教え込まれましたから」

 もちろん、あの飲んだくれ適当男に教え込まれた訳ではない。ボスは続ける。

「君たちには依頼人の事情も、ターゲットの素性も知らせない。全部こっちで止めてるからね。でも今回はそういう訳にもいかなくなった」

「んあ? どういう事だボス?」

「君たちのターゲット、正確に言えばそいつらが持ってたアタッシュケースだね。あの中に最近裏で出回り始めている薬物がぎっしり詰まってたんだ」

 薬物? あの二人組はその薬物の運び屋だったのか。

「その二人を消した事が、薬物をさばいてた連中にバレて、少々面倒な事になりつつある」

 なるほど、確かに面倒くさそうだ。正直バイトじゃなくて正社員たちだけでどうにかしてほしい。

「で、オレらはどーすんだ? ボス」

 先輩の言葉に、ボスはより一層深い微笑を浮かべる。

「どうもしないよ。私たちの会社がする事は一つ──」

「『お客様を仏様に』」

「安心と平穏をお届けする、キルコーポレーションだぜ」

 これも、ここに来た時に教え込まれた。

「……そう、二人ともよく分かってるね」

 ボスは満足そうにうなずく。

「君たちをここ呼んだのは注意喚起のため。二人ならまず大丈夫だと思うけど、念には念をというやつだよ。話は以上だ」

 ボスはそう言うと、別の仕事があるらしく事務所を出て行ってしまった。

「ったく……そんな事でいちいち呼び出すなっての」

 口には出さなかったが、その点に関してはこの人に賛成だ。

 でも意外と早く終わったのは良かった。さっさと帰ろう。

「んだぁパピー、もう帰っちまうのか?」

「当然です。折角の休日なんですから」

「ほーん、飯でもおごってやろうと思ってたのになぁ」

「結構です」

 酔っ払いの世話をするくらいなら、家でカップラーメンでも食べた方がマシだ。

 そう思い、帰ろうとした矢先、ボスと入れ違いで一人の女性が事務所に入ってきた。

「おや? 珍しい子がいるね」

 銀色の長髪をなびかせる、スーツ姿で長身の女性。スラッと伸びた手足と色白の顔が、まるでアニメから飛び出してきたような雰囲気を醸し出している。

「毒蛇くんは一昨日ぶり、子犬くんは久しぶりだね」

 彼女は毒蛇くん、もといバイパーと同じく僕の先輩だ。

「うぃー一昨日ぶりだぜーオウルのあねさんよー」

「君は飲み過ぎだ。何度も言っているが酒はたしなむ程度にした方が良い。子犬くんも困っている」

「いえ! 滅相もないです先輩! お気遣いありがとうございます!」

「ん? 先輩が後輩を気遣うのは当然の事だろう?」

 流石さすがの一言に尽きる。

 オウル。銀色のふくろう

 仕事への姿勢や普段の所作、何をとっても完璧な彼女への憧れが、僕をバイトに引き留めている一つの要因……というか、唯一の理由と言ってもいい。

 決して下心があるとかそういうのではない。純粋なあこがれだ。

「先輩はどうしてここに?」

「私か? ボスに少し用事があってね。しかし、どうやら入れ違ってしまったみたいだ」

 ソファに腰をかけるという所作だけで、どうしてこんなにも美しいのだろうか。ソファに寝そべっている飲んだくれとは大違いだ。

「ヘイ! パピー、言いたい事があるならにらむんじゃなくて言葉にしな!」

「急性アルコール中毒になればいいのに……」

「オウルの姐さんとは随分と対応がちげぇなオイ!」

「相変わらず君たちは仲が良いな」

 とんだ勘違いである。けれど先輩が笑っているなら、まぁ良いかと思えてしまう。不思議だ。

「そうだ子犬くん、君にもちょっとした話があるし、これから一緒に夕食でもどうかな?」

「姐さん! 残念だけどコイツはさっさと帰りたいらしいぜ」

「行きます」

 迷う余地無し。

「……私の方は急ぎの用ではないから、また後日でも構わないぞ?」

「酔っ払いの言葉に耳を貸さないでください。どこへなりともお供しますよ先輩」

「そうか、ならば子犬くんの夕食は私がご馳走ちそうしよう。近くに私の行きつけのレストランがあるんだ」

 心の中でガッツポーズを決める。尊敬すべき先輩とお食事に行けるなんて、後輩としてこれほど光栄な事は無い。

「それでは行こうか、子犬くん」

「はい!」

 ソファから発せられる酔っ払いのブーイングなど、聞こえるはずもなかった。



 そうして先輩に連れられ、僕は見た事も無いほど高いビルの前にいた。

「あの、先輩? ここは……」

「私の行きつけのお店でね。味もそうだが雰囲気も気に入っているんだ。安心したまえ、もちろん私の奢りだ」

 そういう心配をしている訳ではない。

 高級レストランというものをそのまま具現化したような建物。完全に腰が引けてしまった。

 こういう店には正装が必要なんじゃないかとか、僕が余計な事を考えている間にも、先輩は店の中に入っていくので、僕も離されないよう先輩の後についていく。

 きっと、今までの人生で一番エレベーターに乗っている時間が長かった。

 何も話さず、こうやって側にいるだけでも、僕にとっては高級ディナーくらい価値がある。

「いらっしゃいませ、タカナシ様」

「いつもの席は空いてるかい?」

「はい、こちらへどうぞ」

 ウェイターらしき人の案内で、夜景が見える個室に連れて行かれた。

 少し薄暗くて雰囲気がある中で、先輩と向かい合って座っている。そういえば僕に何か話があるとか言ってなかったか? そう考えるとより緊張してきた。

「子犬くん、何か苦手なものはあるかな?」

「いや、特には……」

「それは良かった」

 美しく微笑み、美しく手を挙げ、美しくウェイターに注文をする。

 恐らく食事の注文だろうが、全然聞きなじみが無い。本当に同じ日本人なのだろうか。

「先輩」

「ん? なんだい?」

 テーブルにひじをつき、こちらを見据える。それだけの事なのに、全身に異様なまでの緊張感が走り、暑くもないのに汗がにじむ。

 少し薄暗いレストランの雰囲気もあるのだろうが、先輩の瞳がまるで鳥のように僕を突き刺した。

 微笑んではいるがボスとは違う。まるで自分の心の全て、知らない所まで見透かされているみたいだ。

 彼女が『梟』と呼ばれているのも納得できる。

「さっきの『タカナシ』っていうのは……」

「あぁ、もちろん偽名だよ。仕事柄、こういう名前は余るほど持っている」

 確かにそうだ。緊張しすぎて当たり前すぎる事を聞いてしまった。少し落ち着け、僕。

「そんなに固くなるな。まったく、君はかわいいなぁ」

 先輩は自分の手を、机に置かれた僕の手に重ねる。

「な! なにを……」

「ふむ、意外と君の手は小さいね。私と同じくらいだ」

 先輩にリードされ、掌を合わせる形になる。

「ほら、そんなに変わらないだろう?」

 先輩の体温が掌から伝わってくる。心臓の鼓動が更に速くなった。

「どうかしたか? 顔が赤いぞ?」

「あ、あの……その……」

「お待たせしました」

 その場の空気を一刀両断するように、ウェイターが料理を運んできた。

 当然、僕と先輩の手は離れてしまう。

「さぁ、料理をいただこうか」

「はい……」

 普段高級なものなんて全く食べない僕だ。正直料理を楽しめない気もしていたが、一口食べてそんなのは杞憂きゆうだと思い直した。

 ステーキと呼んで良いのか分からないが、真っ白な皿の上に小さい肉と、ソースのようなものが塗られている料理。

 美味うまい。めちゃくちゃ美味い。

 先輩の見よう見まねで料理を口に運んでいく。

「そういえば、昨日も仕事だったそうじゃないか。どうだった?」

「……まぁ、大変でした。先輩はいつも通り酔ってましたし」

「あの子は生粋のアルコール依存症だからね。困ったものだ」

「そうなんですよ。でも今回は先輩のおかげで成功したとこもあって……」

 そんな他愛ない話をしながら、食事を口に運ぶ。正直テーブルマナーなんて全く意識していなかったが、先輩は笑顔で僕の話を聞いてくれた。

 これ以上の幸せは無いと本気で思う。

 そして話題は自然と、もしくは意図的に、先輩の望む方向へと向かっていった。

「子犬くん、一つ聞かせてくれないか」

「はい、何でしょう」

「君は人を殺す時、一体何を考えているんだい?」

 先輩からその質問をされた瞬間に、室温が一気に下がったような感覚に襲われた。

 見られている。量られている。僕という人間を。

「必死の形相で逃げるターゲットを追い詰める時。血と涙と鼻水でグチャグチャになった顔で、それでもなお生きようと、必死で命乞いのちごいをする人間を前に、引き金に指をかける時。君は一体何を考えているんだい?」

 血と硝煙のにおい。冷えに冷え切った頭で目標を追い詰め、

 あと一歩で仕事が終わる時、僕が何を考えているのか。

 少し考えた後、僕は口を開く。

「『今日の夕飯どうしようかな』ですかね」

「……は?」

 先輩の冷静な顔を少し崩せたのは、素直にうれしかった。

 もちろん、ウケを狙った訳ではない。

「ターゲットにも、君と同じように家族や友人、大切な人がいる。そんな事は考えないのか?」

「まぁ、その『大切な人』は僕にとっては何の価値も無いですし、僕にとってはその日の夕飯の方が大切ですから」

「殺しに、抵抗が無いのか?」

 そう尋ねる先輩の顔は、いつもの冷静な微笑みではなく、まるで子供が驚いたような顔だった。

「バイトを始めた頃は自分に出来るのか不安ではありましたけど、先輩たちのおかげで今ではだいぶ慣れてきました」

 そういう事ではないのかもしれない。

 先輩は少し黙った後、今度は心底おかしそうに笑い始めた。

 それはもう、涙が出るくらい笑っていたものだから、僕の方が驚いてしまったくらいだ。

「すまない! おかしな事を聞いてしまった! 試すつもりは無かったんだが、君という人間に少し興味がいてね」

「はぁ……」

 僕が質問の真意をみ取れていないのを察してか、先輩は普段の冷静な先輩に戻り、話を続けた。

「実を言うと、君が本当にこの仕事を続けられるのか、私はずっと疑問だったんだ」

「え、そうなんですか」

「ボスが君を採用すると言った時も、私は最後まで反対していたよ」

 初耳だ。先輩には初めから良くしてもらっていたし、そんな事を考えていたなんて、全く気づかなかった。

 むしろ毒蛇の方が……

「君は仕事に罪悪感を覚えていると思っていたんだが……まさか夕飯について考えていたとは……ふふ」

 何度も言うが、別にウケを狙った訳ではない。それでも自分の言った事で先輩が思い出し笑いをしているのなら、気分が良い。

「これで安心して日本を去れるな」

「……先輩、海外に行くんですか?」

 うちの仕事上、海外からの仕事を受ける事も少なからずある。優秀な先輩だ。別に不思議じゃない。

 しかし、僕は今日一番の緊張感に襲われていた。

 何か、とてつもなく嫌な予感がする。

「そうだった、今日は君にこれを言いたくて夕食に誘ったんだ」

 食後のコーヒーが運ばれてくる。先輩は美しくカップを持った。


「私、向こうで結婚するんだ」


 知らなかった。

 高級レストランのコーヒーは味がしないらしい。

 翌日、僕はボスに辞表をたたきつけた。

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