Bite!! / 遠吠 負ヶ犬 作

名古屋市立大学文藝部

第一話

「バイトやめたい」

 資本主義を採用している日本という国において、お金は老若男女関係なく必要なものだ。

 そしてアルバイトとは、いまだ社会に出ていない学生が、自分で自由に使えるお金を手に入れるための手段である。

 しかし、これが行きすぎてしまう人間は、残念ながら少なくない。

 世の中には自らが自由に使える時間を犠牲にしてまでバイトに打ち込む人間が存在し、彼らは更に二つの人種に分けられる。

 自らの意志で地獄へと足を踏み入れる人間と、他人の意志で引きずり込まれる人間。

 大半の人間が後者であり、かく言う僕もその一人だ。

「バイトやめたい」

 辞めたい理由は山ほどある。仕事内容、人間関係、シフト関係……挙げ出せばキリが無い。それでもこのバイトをやめないでいるのは、少しの情と、辞めるにあたっての決定的な理由が見つからないから。

「バイトやめたい」

 辞めたい理由が山ほどあるのに、辞める決定的な理由が見つからないというのは、なんだかおかしな話だ。

 けれど、人生はきっとそんなものなのだろう。

「バイトやめたい」

 この言葉は、そんな僕の複雑な感情を表した言葉だ。

「バイトやめたい」

 もう何回言ったか分からない。

 ここ最近シフトの入り過ぎで体調も優れないし、欲しいものも無いのに働くという状況に、精神的にも参ってしまった。 

 僕は一体何のために働いている? バイトのためにどれだけの誘いを断ってきた?

 考えないようにしている。きっと考えたら終わりだ。何の終わりなのかも分からない。

 多分、それも考えない方が良い。



「よォ、未来のエリートくんじゃあねぇか。こんな辺鄙へんぴなバーに足を運ぶたぁ、ついこの間酒を解禁したパピーにしちゃ見る目があるってもんだ。女神サマのお眼鏡めがねにもかなうだろうぜ?」

「先輩が呼んだんじゃないですか。わざわざ位置情報までつけて。それでもここを見つけるのに小一時間かかりましたよ」

「まぁそう言わずに座れよ! オマエも飲むか?」

「やけにテンションが高いと思ったら、もう飲んでるんですか……」

 このチャラそうな金髪男は、酒と女におぼれた先輩だ。大体いつも知らない女性が隣にいるし、仕事中も酒を飲んでいる。

 もう病院を勧めたい。

「今日は一人なんですね」

「オイオイ! いくらオレでも仕事前に女はべらせねぇよ!」

「酒は飲むのに?」

「こりゃあ一本取られちまったぜ! マスター、コイツにも一杯!」

「だから飲みませんって!」

 このバーの店主である初老のマスターは、ただカウンターでニコニコしているだけ。この金髪をここに放置しているのが申し訳ない。

 こういう気苦労が多いのもこのバイト先をやめたい理由の一つだ。

「ほら、そろそろ仕事の時間ですよ!」

「あー? まだ九時じゃねぇか……時間にうるせぇパピーだな」

 現在時刻は二十一時。もちろん仕事は今から始まる。このようにシフトが夜遅くから始まる事も……まぁ、言うまでも無い事だ。

「そんなに急いでも意味ねぇだろうがよぉ」

「いっつも酔っ払って準備に手間取るんですから! さっさと行きますよ!」

 そうして完全に出来あがった先輩を仕事場まで引きずっていく。これが地味に面倒くさい。重いし、追加分の給料も出ない。

「わあったよ! マスターまた来るぜ! 今度は同僚も連れてなぁ!」

 黙ったまま深々と頭を下げるマスター。こんな酔っ払い迷惑客相手にも微笑ほほえみを絶やさないその姿勢に、尊敬の念すら抱く。

 あれがプロフェッショナルというものなのか。

「オマエも少しはマスターを見習って、心に余裕を持てよ?」

 今すぐコイツを細切れにして、その辺のドブネズミのえさにしてやりたい気持ちをぐっとこらえ、僕は仕事場に向かう。

 全ては金。金のためだ。そう思わないとやっていられない。

 別に奨学金を借りているとか、どうしても欲しいものがあるとか、推しに貢ぐために金が必要だとか、そういった事は一切無い。

 しかし、生きているだけで、そして生きていくだけでどうしてもお金はかかる。

 学生とはいえバイトでお金を稼ぐ事はとても大切。これは二十年生きてきた僕の結論だ。

 だからこうして働いている。不本意ながら。

「バイトやめたい」

 そう言いながらも、僕は一人でビルの上から目標を見下ろしている。

「どうしたパピー、いつにも増して声が暗ぇじゃねぇか」

 トランシーバーから聞こえる先輩の声は、仕事中なのにさっきのバーにいた時から変わっていない。酔っ払いのテンションだ。

「何でも無いですよ。というか、いい加減『パピー』って呼ぶのやめてくれませんか?」

「仕方ねぇだろ? そういうルールなんだからよぉ」

 呂律ろれつが怪しい。これだから酔っ払いは嫌いだ。

 ふいに冷たい風が僕のほおを引っいた。

「ターゲット、建物から出てきました」

「おっし! お仕事開始だあ!」

「あんまり大声出すと、相手に位置がバレますよ」

 持ってきた双眼鏡の奥には、サングラスをしたスキンヘッドの男がいる。アニメなら確実に悪の組織の一員といった見た目だ。

 八百メートル離れたここから見ても、明らかに周辺を警戒している。

「『待て』だぞパピー」

「分かってますよ。犬じゃないんだから。無駄口たたいてないで集中してください」

「言うじゃねぇか、子犬パピーのくせに」

「集中!」

 どうして僕は、よりにもよってこんな人と仕事をしなくちゃならないんだろうか。早く帰って寝たい。

 夜風が肌にしみる。真冬のビルの屋上なんて来るもんじゃない。寝る前に何か温かいものが飲みたいな。

「パピー」

「ちゃんと見てますよ。アタッシュケースも確認できました」

「よし、後は手順通りに。分かるな?」

「大丈夫ですよ」

 バイトを始めた際に渡された手順書の内容は、完璧に頭に入っている。

 ターゲットを狙撃そげきする際の、三つの手順。

 手順一。スナイパーライフルを組み立てる。サイレンサーを忘れずに。

 手順二。ターゲットを視認。事前に見たプロフィールと合致しているかも併せて確認。

 手順三。引き金を引く。なお、標的を殺さず足止めをする場合には、頭ではなく脚をねらう事。

 スコープの向こう側ではスキンヘッドが右足を抱えてうずくまっている。上手く当てる事が出来たらしい。

 しかし、そんな僕の一瞬の油断を突かれる。

「クソ、仲間か……」

「うおっと! してやられちまったなパピー!」

 別の男が建物から飛び出し、スキンヘッドとは逆方向に走り出した。

 トランシーバーからは映画でも見ているような先輩の声が聞こえた。熱が頭にもっていく。

 熱に浮かされ、うずくまるスキンヘッドの頭にもう一発撃ち込んだ。

 毛の無い頭がえぐれたのを確認し、逃げたもう一人に照準を合わせる。

「男はビルの陰に隠れながら西へ移動中」

「スキンヘッドが持ってたケースはダミーだ。中身が空だぜ」

「チッ!」

 完全にしてやられた。嫌な熱が身体からだまとわりつく。思考がかすんでいくような感覚に陥る。

「反省も説教も後だ。奴の位置を先輩に教えな!」

 冬の風が僕の頭を、再び元の状態に戻した。

「そこから西に二百メートル。上手い具合にこっちの射線を避けて逃走してます」

「りょーかいだ、まぁパピーにしちゃ上出来だな。後はこのバイパーに任せな!」

 そう言い残し、通信も切らないまま先輩は男を追い始めた。

 先輩は酔っ払いとは思えないスピードで男を追い始める。狭い路地裏を、まるで蛇のように進んでいく。

 二人の距離が十メートル程に縮まると、男も先輩の存在に気づいたらしく、振り切ろうとスピードを上げていく。

「逃げんなよボーイ! オレと一緒に遊ぼうぜ!」

 ナイフを男に向かって投げる先輩。しかし、脚にかすっただけに見える。男は立ち止まって先輩の方に向き直った。

 あれほど近距離でナイフを当てられない相手になら、一人でも対処できると判断したようだ。

「そう来なくちゃなぁ!」

 あたかも、勝負はこれから始まるかのように先輩は叫ぶ。本当にいい性格をしている。勝負は既についているというのに。

 とりあえず、僕も自分の仕事をするとしよう。

「あがっ!」

 ビルとビルの隙間から見える、拳銃を構えた男の左手を撃ち抜いた。

 すかさず先輩が手の届く距離まで近づく。

 しかし、男はまだあきらめていない。先輩に殴りかかろうと、撃たれていないみぎこぶしを振りかぶった。

「死ねえええ!」

「ハッ! 血気盛んなのはいい事だなぁ!」

 先輩は何もしない。ただひざから崩れ落ちる男を、何が起きたのか分かっていない男を、ただただ笑って見下ろすだけだ。

「だめだぜボーイ、蛇にまれた時は冷静にならなきゃなぁ。じゃなきゃすーぐに毒が回る」

「な……なにを……」

「だから毒だよ。オマエに投げたナイフに塗っておいた」

 また始まった。勝利が確定した時に話しすぎる。これは飲酒と同じくらい先輩の悪い癖だ。ただ酔っ払って饒舌じょうぜつになっているだけかもしれないが。

「いいか? 対策の上に対策を重ねる。これが一流だ」

 多分これは僕に言っている。人は酔うと饒舌になるというのは、先輩から学んだ数少ない事だ。

「仮にミスをしたとしてもきっちりリカバリーをしなくちゃならない。それがオレたちの仕事だからな。ちなみにコイツが逃げた先にはオレ様特製の毒が塗られたワイヤーが張り巡らせてある。どんな状況にも対応できる様に、対策の上の対策の上に対策を立てる、これが超一流のやり方だ!」

 超一流。どうにもこの人に言われると、受け入れられない。

「おまえらは、いったい……なんなんだ……」

 倒れている男は、絞り出すようにそう尋ねた。

「あ? ……まぁ、冥土めいど土産みやげに聞かせてやるよ」

 先輩は自慢げに答える。

「お客様を仏様に。安心と平穏をお届けする、キルコーポレーションの死神サマさ」

 ──もとい、ただの『殺し屋』だ。

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