第13話 地獄の道

 ここは天国だ。少なくとも、僕はそう思っている。ただ、思った以上に何も無い天国だ。ただただあたりは少し斜めの土手のような草原が広がっている。他に何があるかと言えば、水平線より少し手前に、横に続く長い道が一本あるくらいだ。

 それ以外にはなにもない。本当に何も。空から温かな陽刺しが緩やかな斜面の芝生にいい具合に降り注いでいる。僕は今、その芝生の上で寝転がっている。

 かれこれどのくらいここに居るのかは知らないが、僕は長いことこの芝生の上を動いていない。気がついたらここにいて、そしてここから移動する気が一向に沸かない。

 前世――つまり死ぬ前の記憶なんてなにもないけど、ここが一番安らげる場所だと本能が告げていた。

 お腹もすかないし尿意もない。ただただ心地よいという感覚が全身を支配している。

 動く必要もない、考える必要もないというのはどれだけ楽なことか…。

 しかし、気になることはあった。細い道をときおり人が通るのだ。道まではここから遠いし、通る人もあまり多くないから話しかけたことはない。だけど、黒い影がちょくちょく移動するのは、なんというか、生きているという感覚がして嫌だった。

 死後の世界なのだから、もう少し静かであってほしいものだ。


 何時間か進んだ気がする。時の流れなんてわからないけど。ふと、顔を横に向けると数メートル離れた先にも、僕と同じように寝転ぶ人が居た。彼は僕には気がついていないようで、僕と同じように目線だけをあの一本道に向けている。

 僕もそっちに視線をやると、ちょうど黒い影が一つ通るところだった。

 影は人間が歩くよりも遅いスピードで、のそのそと道をまっすぐに進んでいる。すべての影が、右から左へと流れていた。

 物音がした。

 横を見ると、彼が気だるげに立ち上がっていた。

 そして、目が合う。

「…お前も行くか?」

「え?どこに?」

 めちゃくちゃ久しぶりに発音した気がする。

 声が枯れていた。

「いや、行かないならいいんだ」

 そう言って、彼はのそのそと黒い影に向かって歩みを進めていった。彼は黒い影と合流すると、何か話をして、それから一緒に道を進んでいった。

 馬鹿だと思う。

 どうして【歩く】という行為をしたがるのか。


 時間がすぎる。すぎる、ということだけがわかる。よくよく考えれば目をつぶっていればいいのだ。そうすると、夢の中にいるような、温かで幻想的な感覚でいられる。

 幸福だ。

 これを、人間は幸福と呼ぶのだ。


 なにか違和感を感じた。ふっと目を開ける。

「…あ」

 鎌が目の前にあった。銀色の刃が陽光に輝いている。

 僕はとっさに腕でガードした。それと同時に何かがボトリと地面に落ちる。痛みはない。それ以上に恐怖が勝った。

 僕は急いで斜面を降りようとして、転がった。

 緩やかな坂だったのでそれほど勢いはない。けれど、僕は勢いをわざとますように必死になって転がった。

 しばらくして地面の色が変わった。道だ。

 ゴドン、となにかにぶつかる。顔を上げると、そこには辟易した顔の老人が僕を見下ろしていた。

「な、なんですか…」 

 老人は怯え半分、期待半分の声を出した。

「いや、その。死神が…」

 そう言った瞬間、老人の顔がゆがむ。

 ヒッ、と悲鳴を聞いたかと思えば、老人はいそいそと道を急いで進んでいった。

「あ、ちょっと待ってください」

 いいながら、僕は後ろを振り返る。死神…もといい鎌を持った亡霊は来ていない。この道は、安全圏だとでも言うのだろうか?

 ふと気づく。

 腕が無かった。

 ガードした右腕が肘から先がない。

 血の気が一気に引いた。

「うそ…っだろ」

 しばらくその場から動けなかった。

 空から降る陽光に目が覚めて、歩みを進める。道に入ったのだから、きっと、そうするしかないだろう。

 少し歩いただけで、足が傷んだ。汗もかくし、心臓の音が五月蝿い。なぜだか体力というものが存在していた。

 イライラする。

 すぐに先ほどぶつかった老人の背を追い抜く。彼は僕が後ろに迫る気配を感じたのか、一度止まって体を横に避け、道を譲ってくれた。道は、人が一人通れるスペースしかなかった。

 そして、僕が彼の前を通るときこんな言葉を呟いた。

「あんたは、いいなぁ。道が短くて…」

 

 歩けば歩くほど足は痛むし、体温は上がっていく。かといって、足を止めようにもなぜだかこの道に入ったらそれは許されないような気がして、まだ動く足を気合だけで動かし続ける。

 もうどれほど歩いたかしれない。時間の経過もわからない。ただただ歩みを進める。喉が乾く。だけど、水が欲しいと思えるほどのものでもない。

 なんで歩いているんだろう。

 なぜ、歩かねばならないのだろう。

 ふと、疲れたと思った。

 前方には黒い点が小さく見えるだけ。後方を確認するために足を止めよう。

 それならいいはずだ。

 そう思って足を止める。

 ゆっくりと、後ろを向いた。

 そこに、死神が居た。

「ぎゃぁぁぁ!」

 僕はすぐに前を向いた。

 走る。走る走る。

 心臓の鼓動が五月蝿い。

 足をフル回転させる。

 今までにこれほど全力で足を動かしたことはなかった。

 眼の前に黒い人が見えた。その人にぶつかりそうになり、僕はころんだ。

「ん…。え?」

 眼の前の人が僕を見る。

「…はぁ…はぁ…ん…はぁ」

 僕は息を吐きながら顔を上げた。

「あの、大丈夫ですか?」

「し、死神が居たんだ…」

「え?あ、ああ。死神ね」

 僕は彼が足を止めていることに気づいた。そして、血の気が引いていく。

「あの…歩かないと。死神が来ますよ」

「ああ。それなら大丈夫ですよ。こういう対話はいいみたいですから」

「え?」

「死神は、一人で足を止めたら来るんです。こうして話すために足を止めるとか、そういうのならいいみたいなんですよ。ほら」

 彼はそう言って僕に手を差し伸べた。

 中年の、人の良さそうな男性だった。

「私はね、前世の記憶があるんです。前世でね、私は殺人を犯しました」

「は、え?」

「あなたは、前世の記憶、ありますか?」

「え…な、ないですけど」

「それは素晴らしい!」

 男性は声を高らかに上げて嬉しそうな顔をした。

「…どういう意味ですか?」

「えっとですね。どうやら前世がある人は犯罪者だけみたいなんですよ。ほら、私みたいに…」

「そうは見えませんが…」

「おや、嬉しいことを言ってくれますね。この道を辿っていったおかげかな…」

 男性はにこりと微笑みながら僕の後ろを煌々とした瞳で見つめた。

「あの、この道は何なんですか…」

「この道はね、贖罪の道。私はね、最初この道に立っていた時はわけが分からなかった。けど、歩かないと死神が後ろに居るわけで、それで必死に歩いて歩いて歩いて…。そうするとなぜだか心が清らかになるみたいなんですよ」

「良かったですね…。あの、この道は、どこに続いているんですか?」

「それは…わかりかねます。天国かもしれないし、地獄かもしれない」

「じゃあ、ここはその…天国でも地獄でもないんですか?」

「わかりません。ですが、そういった特殊世界の一つだと思っていいでしょうね。ただ、ほら草原に寝そべっている人たちが居るでしょう?彼らは基本、この道に居りてこない。ずっとそこでねている。たまに降りてくる人も居るんですけど…そこから居りてきた人はみんな前世の記憶がないんですよ」

 彼は人の良い笑みを浮かべながら、さっきから変わることのない緑の緩やかな坂を指さした。

 僕にはやはり、彼が犯罪者だとは思えなかった。

「歩きながら喋りましょう。休憩はこれくらいにして」

「あ、はい」

 それから僕は彼の後ろをついて、いつもよりもゆっくりのペースで歩みを進めた。


 彼から聞く話は、どれも僕の知らない世界――つまり、前世での悪行ばかりだった。さすがの僕も善悪の区別くらいはできるので、彼の悪行を知るたびに、彼の今の清らかさには驚かされた。彼の理論としては、この道は悪人が善人になるための…あるいは、悪人の心を清めるための装置であり、きっとこの道が終わる頃には僕達はどこかの誰かに転生しているだろうと言うことだった。

 草原で寝そべっている人たちは、道を歩くことはせず順番に転生していく。僕の場合は、死神により転生される直前に、この道に転がり落ちたのだという。

 そして、この道に落ちたが最後、もう道を進む以外に道はないのだとか。

「どのくらい歩いてるんですか?えと、感覚的に…」

「んー。もう何十年じゃないかな?」

「え…よく飽きませんね?」

「どういう理屈か、歩き続けることができるんだよね。不思議と…前世の記憶も一切色褪せないし。まぁでも、もうそろそろ潮時かなっていう気はするけどね」

「潮時って…」

「お、ほら。きたきた。お迎えだ」

 彼はそう言うと、手を上に掲げまるで友人にあったときのように手を振った。僕は彼の背中から顔を出して前を見る。しかし、道がまっすぐに続いているだけで、迎え、などというものは見えなかった。

「それじゃあね。最後に君と話せてよかったよ」

 後ろを向いて、彼は僕にそういった。

「どこに行くんですか?迎えなんて見えないんですけど…」

「ん?そうか。えっと、なんだろうね」

 彼は前を向く。

「そうだね…神々しい神様が一人居るね。死神じゃない。その神様の後ろに門があって、僕はあと数歩でそこに入る」

 そういった途端。僕の眼の前から彼は消えた。

 

 彼が居なくなってからも僕は歩き続けた。僕は彼みたいにこの道になにかの意味を見出すわけでもなかったし、彼の理論を聴いてこの道を進むことに意義を見出すこともなかった。

「最後…見ちまったなぁ」

 それが、今更ながらの後悔だった。

 あれが僕の最後となるんだと思うと、気が沈んだ。

 僕はずっとあの草原で寝そべっていればよかったのだ。死神などに気後れせずに、恐れずに、あれに首を切られていれば、僕は何の苦労もなく転生できていたのだろう…。

 僕は歩き始めて実感まだ五時間くらいだ。

 彼のような犯罪者が数十年なら、僕のような善人(推定)なら、数年…早ければ数日で迎えが来そうである。

 その推察通りであれば、まだ僕は救われる。

 早くこの無駄な歩みから僕を救ってほしい。

 歩みを止めれば僕は今すぐにでも死神に殺されるだろう。だが、それは僕の望むところではない。だって、彼は言っていた。死神じゃない、と。それじゃあ、どうして僕ら草原組を死神に殺されるのか。どうして足を止めた道の住人は死神に殺されるのか。

 どうして、歩みを達成したものだけ【死神ではない神様に迎え入れられるのか】。

 多分、そこが分岐点。

 死神に殺されてはならない。

 だから、僕は歩みを続ける。

 死神に殺されないために。

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