第12話 傘を差す童女
雨が降っていた。ガダガダガダと錆びた屋根が鳴り、湿った雨の濃い臭いが鼻を詰める。居酒屋を出てどれくらい走っただろうか。
ふと、時間が気になった。
私のシャツみたいにびしゃ濡れの腕時計を見る。
二十三時二十二分。
間に合わない、か。
道に迷ってしまっては、どうしようもない。
これなら土地勘のある誰かを連れてきたほうが良かったと素直に思う。けれど、あの席で私は誰も信用することは出来なかった。
あの席で、誰もが一番若い私に注目していたが、私はずっと下をむいて黙っていた。それはもう、陰鬱な雰囲気を全身から放っていた自覚はある。
新入社員歓迎会と詠われた飲み会。
私が来ていい場所ではなかった。
私が黙っていても、飲み会は不自由なく進行していた。しらふの幹事の男を抜いて、誰もが酒に酔っていた。口々に登る言葉は誰かの愚痴か、おべっかか、自慢話。
誰も興味がないのに、誰もが興味気に聴いている。
不思議な現場だったように思う。
走っていると、静かで暗い道に出た。
完全に道を間違えた、そう思った。
分厚く深い空が頭上をずうっと遠くまで埋めている。雨が強い。手が痛くなるほどだ。
「はぁ」
頭が重い。
ロングスカートの裾が色褪せて見える。少し気合を入れていこうと活き立っていた私が懐かしい。化粧だってもう随分落ちている。
落ちこぼれた気分だ。
このまま雨に紛れて消えてしまいたい。
「どうされましたか?御婦人」
振り向くと、小さな小さな女の子が、透明な白い大きな傘を天に向けて広げていた。おかっぱ頭で赤い浴衣を着ている。赤茶色の下駄が水滴を帯びて鏡面反射を繰り出していた。
水滴で濁る瞳には、大きな市松人形にも見えた。
「私、のことよね」
「ええ。傘も刺さずただ呆然と歩きこの道に迷い込んだ子羊は、あなたですよ」
「ひど言い草ね」
少女は微笑む。
「あなたは子羊ですよ。まだ何も知らず、何もできず、何も成し遂げてはいない」
「そうかも知れないわね。それで、私に何のようなの」
私は威張って胸を張った。ガーデガンもとっくに濡れ、薄いシャツから黒いブラジャーが透けて見えている。けど、今はその態度が優位性を誇示する態度だ。
「あなたに傘を差し上げましょうと思いまして。奇遇というものですよ、これは」
そう言って、少女は傘をすっと上に持ち上げながら私の方に近づいた。
「それじゃあ、あなたが濡れてしまうじゃない」
「いえ。私にその心配は不要です」
少女から完全に傘が離れると、雨粒が勢いよく少女に降りかかる。しかし、少女はどういう理屈か雨一滴に濡れることはなかった。雨と彼女の間に何か薄い結界でも貼られているかのように薄い靄が浮かび上がっている。
白い透明な傘が目の前にある。大人用の傘だ。
受け取るか戸惑っていると、少女が後ろを向いて、指を指した。
「向こうに、あなたの行きたい駅があります」
「そ、そうなの。ありがとう」
「いえ。貸し一つです」
少女は傘をぐっと私に押し出す。
私はぎゅっとそれを握った。
「ありがとう」
「いえ、貸し二つです」
瞬き一つすると、少女の姿はもうそこにはなかった。透明なビニール傘と少女が指差した一本道だけがずんぐりと、存在感を持って残っている。
「貸し…か」
(何で返せばいいんだろ)
考えると怖くなってきたので、私は早足で歩みを進めた。
道は普遍的な裏路地で、抜けて真横を見ると本当に駅があった。
私は走って駅に向かった。
流石に終電を過ぎていないと思うが、あの空間が本来の時間軸で動いているのか気が気でなかった。
嬉しいことにその駅は夕暮れ時に私が使った駅と同じものだった。ほっと一安心する。私は何か憑き物が落ちたようにぐったりと長椅子に座った。
それから眠気が来て――。
「すみません。あの、起きて、えと、起きてくださーい」
「…んん…」
目を開ける。
あれ、誰?警備員さん?
「えっと…」
「お、起きましたね。いや、良かった。いやね、普通なら起こすなんてしないんですけど、ほら、あなたびしょ濡れでしょ。だからこのままねてたら風邪ひくよなと思いましてね。だから、まぁ、起こしたわけですけど…」
「ぇえっと…あの、ねてましたか?」
「ええ。ずっとねてました」
「今何時ですか?」
「二十三時二十一分ですね。はい。まだ1便着ますので、帰るならそれでかえってください。あ、あと十分はあります」
「…わかりました。すみません」
「ああ、いえ。いいんですよ。それとですね、そのあなた、童女をみませんでした?」
「童女?」
「ええ。童女です」
記憶のそこから赤いおかっぱの女の子が蘇る。
「み、見ました!見ました!いえ、会いました!」
「お、おお。やっぱりそうでしたか」
「あの童女は何なんですか?」
私がそう問いかけると、警備員さん?は得意げな顔をしてこういった。
「あれは地縛霊です」
「じ、地縛霊?幽霊だって言うんですか?」
「はい。この駅を使う人に聞くと、たまに童女を見た。童女にあったって言うんです。それでね、童女はいつも雨の日に限って、傘を持たない人に傘を与えるんですよ」
「私も、そうでした」
そう言うと、警備員?はちらりと私の傘を見た。
「あの、それじゃあ、彼女の言う貸しって何なんですか?」
「それは私の憶測なんですがね、多分、この街にまた来てくださいっていうことなんだと思いますよ」
「え?」
「童女にあったっていう人に話を聞くと、最初こそみんな不思議だなって帰っていくんですけど、でもね、何を思うのか、何でも時折この街に無性に来たくなるそうなんです。そして実際、この街に移住したり、この街に仕事を探しに来たりするんだそうで、まぁ、多分、その童女さんはこの街に人が来てほしいんだと思います。私もね、長くこの駅で警備をしてるんですが、その童女とやらにはあったことも見たこともないんですよ。それはきっと、私がすでにこの街に住んでいるからでしょうな」
私がこの街に仕事をしに来るようになって六ヶ月が経過した。別に信じていないわけではないのだが、あの童女が本当は私に呪をかけたのではないかとか、貸しは何か別のもので支払わなければならないのかと眠れぬ夜もあったけれど、それも今に成れば杞憂な思い込みだった。
あの日以降、私は飲み会に誘われても一切行かないことにしていた。そのため同僚からは今どきの堅物だの何だの言われていたが、今晩だけは少し違う。職場でできた私の恋人――いや、まだ恋人ではないが、狙っている人が私を飲み会に誘ってくれたのだ。いつも堅苦しく飲み会を断る私をせっかくだからと誘ってくれた。これに乗るわけには行かない!
スーツ姿なのが癪だったが、それも仕方がない。私は嬉々として飲み会の一席に腰を降ろす。彼意外の同僚が三人居るのが気に食わないし、彼以外の全員が私に羨望の眼差しを向けるのが気に食わなかったが、それも我慢した。
だが、そんな傲慢な考えも、お酒を入れたらすぐに愚痴大会となっていた。
「それでねぇ、私がびしょ濡れでくらぁーい路地をかえってるとねぇ、なんと、なんと、小さなかわいい女の子がいたの。そこ幽霊んだけど、わたしにかさをくれてぇ。えきまでおしえてくでて、すっごいたすかったんだぁ」
「あ、その幽霊僕も見ましたよ」
彼が急に手を上げて、私に向かって頬笑んだ。
「え?」
私は一瞬だけしらふになる。
「それで、ちょっと恥ずかしいんですけど――」
彼がそう言うと、
「あー、俺トイレトイレ」
「俺も俺もー」
「あ、俺はタバコ吸いに外へ」
と不思議と三人が席を外した。
私が目をぱちくりさせていると、彼が私の隣りに座った。それから1枚のチケットを私に差し出した。
「これ、最近行われるサーカスのチケットだそうで。その童女さんからもらったんですよ。好きな人に渡しなさいってね」
「え?」
黄色い蛍光とに照らされた彼の右手と、チケットが煌々と輝いていて眩しい。
「いいの?」
「うん。いいよ」
「う、うれしぃ」
泣きそうになった。
いや、もう泣いているかもしれない。私は無性に彼にきつきたくなり、そうした。だって、彼が直ぐ側にいたんだもん。
彼は笑いながら、私の髪の毛を撫でてくれた。
その時、私は初めて童女に心のそこから感謝した。
(ああ、夢みたいだわ。あなたは恋のキューピットだったのね。本当に、ありがとう)
その歳のクリスマスに私と彼は結婚した。同僚からは早すぎるとか言われたけれど、彼と私からすれば、運命が示した結果なのだから、早いも遅いもない、と強く言ってやった。
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