第9話 少女の右目
少女の右目には生まれつき特殊な能力が宿っていた。それは、人がその時善であるか、悪であるかを見極める瞳だった。
赤子の時、少女の両親は酷く優しかった。少女は本能より先にその右目で両親の善を感じ取っては安心して己の身を任せていた。
しかし、次第に両親にも悪の時が存在することがわかった。その時の両親は暴力的とは行かずとも、排他的であったり、言葉が荒かったりした。
少女は次第に両親が悪の時はあまり喋らず大人しくすることを覚えた。そのせいで、少女は少しだけ言葉を慎重に選ぶようになった。
幼稚園の時、少女は同い年の少年に意味もなく泥をつけられた。少女は強い不快感を覚えたが、彼は善の心を持ってしてそれを行っていた。
気がつけば「ひっ」と叫び声をあげていて、少女は急いで少年から離れた。
少女には少年が悪魔か何かに見えた。
善の心を持ちながら悪を行う者。
そうした者が居ることに、少女の倫理は耐えられなかった。
小学校に上がるまでに、少女の倫理は狂ってしまった。善と悪。その区別すら無くなるほど、少女は人間を悪であると決めつけるようになっていた。
少女は大人にも、隣の席の子にも口を聞かなくなっていった。
両親は少女を心配して精神科医に少女を連れて行った。精神科医の男は少女にいくつか優しく質問をしたが、少女は口をつぐんだままただ黙っているだけだった。
その時、少女の右目は精神科医を善と表していた。
だが、彼女はその善も一時的なものであると知っていた。
それでも、精神科医の問は何度も続いた。
少女はだんだん厭になってきたが、その時精神科医がこんな言葉をぽつりとこぼした。
「君には何が見えてるのかな?」
少女にとって、その問は神の啓示に見えた。
体に熱が入り、意識が急激に覚醒しだす。思考の全てから開放された気分だった。パッ、と簡単に口が開き、少女は饒舌にこういった。
「人の善悪が見えます。人は悪い時と良い時があって、でも、そんなの関係なくて、悪いも良いもないんです。みんな悪なんです」
少女の急な発言に、精神科医は灘やかな笑顔で「いつから善悪が見えるんですか?」と優しげに問いかけた。
その二人の会話の間に、両親が何か小言を言いったが、精神科医も少女も取り繕うことはしなかった。
「ずっと昔からです」
少女は漸く顔をあげ、精神科医の全体を見つめた。
彼は丸い顔に丸い眼鏡をかけていた。意外にラフな服装で、指先が膝の上に置かれていた。
「ちなみに、僕は今悪に見える?」
「いえ…善に見えます」
「僕はあなたのことは何もわからない。けど、良いですね、その能力は」
そこまで言った時、少女の母親が声を荒げて言った。
「何ですか?この子はなにか妄想障害でもあるんですか?」
精神科医は母親の方を向いた。
そして、優しげな声で
「決めつけはよくありません。僕はただお嬢さんとお話をしているだけですよ」
と言った。
「ですが、善と悪なんて見えるわけがないでしょう?そんな非常識な事――」
母親がそう口走った時、「まぁまぁ、落ち着いて」と父親が諭した。
「でも――」
「すみません。私達は出てますね」
「良いかな?」
精神科医が少女に訊いた。
少女は小さく頷いた。
「わかりました。そうしてください」
両親は部屋から出ていき、部屋の中には少女と精神科医の二人だけとなった。
少女は少しだけ安心したように頬の筋肉を緩ませ、首をこっそりと傾けた。
「質問を続けるね。何か言いたいことがあれば、遠慮なく言って。ここは君を試すような場所でもないし、批判する場所でもない。ただ、お互いを理解しようというそれだけの場所だから」
精神科医がそう言って質問を問いかけようとした時、少女が口を開いた。
「なんであなたは私を知ろうとするの?」
精神科医は口を一度つぐんでから、ゆっくりと開いた。
「それは、僕が君を知りたいからだ」
「なんで?」
「なんでって――そうしないとね、人と人はわかり会えないからさ」
「なんで?」
「そういう風に僕達は作られてるからだよ」
「誰に作られたの?誰がそう言う風にしたの?」
「それは誰にもわからない」
「なんでわからないの?」
「誰もが知ろうとしたけど、誰も知ることが出来なかったからさ」
「なんで知ることが出来なかったの?」
「それはね、僕達の寿命が短すぎたからさ」
「なんで寿命が短いの?」
少女は言って、その問が発作的に言った発言だと気がついた。
精神科医は少し悩んだ後、「それもわからない」と答えた。
少女は口を噤んだ。
「でもね、わかろうとする努力はしてきたんだよ」
精神科医は口を開く。
「わかろうとする努力が、大事なんだ」
少女はその言葉に納得することが到底出来なかった。
だが、その言葉の意味が何か重要な意味合いを含んでいることはハッキリと理解する事が出来た。
それから少女は、理解する、ということをやろうとした。まずは身近な両親を理解することに努めた。
両親は自分を愛していて、けれど時に悪くもなり――だけどやっぱり善くも成る。少女はそう捉え、それがどうしてそうなっているのかを考えようとして、考えようとして――わけがわからなくなった。
両親は確かに優しかったし、自分の存在を認めてくれていた。だが、両親に対する信頼は中々回復することはなかった。
それは両親が確かに悪であったからだった。
少女は善の世界をデフォルメとし、悪の存在する世界を拒んでいた。
だから、何度考えても少女は悪が存在するシステムがわからなかったし、善の時に悪が宿る人間を理解するということが出来なかった。
精神科医への訪問の日となった。
少女は少なからず彼に信頼を置くことにしていた。以前、彼は善で有り続けたからだった。もう一度あったときもやはり彼は善であった。
「理解が出来ません」
少女は二人きりになると、精神科医が何かを言う前にそういった。
「理解って?何の理解だい?」
「なんで善と悪があるのかわかんないです。なんでみんな普通にしてるんだろうって」
「善と悪はね、みんなの中に存在してるんだよ」
「だから、それがわからないんです!」
「君の心にだってそれはあるんだ」
「え?」
「例えば、そうだね。君がもし机をケリたいとか、ご飯を食べたくないとか、勉強がしたくないとか、そういうことを思ったらそれは悪になるし、空を見て美しいと思うとか、泣いている子がいたら助けてあげたいとか、そういうことを思ったならそれは善になる。そういう感じかな」
「…よくわかなんない」
「じゃあ、言い方を変えようか。悪いことは、そうだなぁ、ストレス。あれが嫌だなぁとか、これが嫌いだぁ、とか、あれはやりたくないな、めんどくさいなぁって気持ち。善いことは、助けてあげたいなとか、あれが素敵だなとか、こういう事したいなぁ、とかそういう気持ち」
「…わかった」
少女は顔をあげた。両目からは静かに涙が流れている。精神科医は少しだけ戸惑った顔を見せた。
「何がわかったの?」
「お母さんの気持がわかった。理解できた」
それから、でも、と付け加える。
「でも、なんで善い時に、悪いことができるの?」
「それはね、君がそれを悪いことだと認識しているからなんだ。例えば僕が急に叫びながら君に話しかけたら君はどう思う?」
「うるさい。厭だって思う」
「でもね、僕は君にしっかり自分の言葉を伝えたいという善意から、大声で喋ってるんだ。こういう風に、人は善意を持って悪をなすことが多々ある。普通なことなんだよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「自分の意見を伝えることだよ。君だったら、大きな声で喋らないで!って言えば良い」
「でも、それだと相手が嫌な気分になる」
「そこは話し合うんだ。お互いになになにしないでほしいって言い合うんじゃなくて、たまに君のあれは良いと思う、だけど、これはされたら嫌いだからやらないでってね。優しく丁寧に、お互いを尊重するように話し合うんだ。最初は難しいかもしれないけど、そうして行くしかないんだよ」
「…うん」
少女は頷いた。
その表情は気分が晴れた空模様のようだった。
「君は強いから、大丈夫。何かあったらまたここに来ていいからね」
それ以降、少女は少しずつ自分の発言をするようになった。善と悪を見つける右目を閉じれば、人はみな姿を隠した化け物のようだ。だが、少女は善と悪の存在を知っていたから、その化け物も少しだけ弱く見えた。ゲームで言う、弱点を知った、という状態だ。
少女は善と悪が人間という存在に入り混じっていることを知りながら、注意深く見つめるものでもないということを覚えていった。
それこそ、発言をするたびに悪意がどこからでも這い寄ってくるのだけど、もうそれに怯える必要もないのだ。なぜならそれは、人に本来備わっている要素の一つでしかないのだと理解してしまったから。
それからの少女は同学年より大人びた少女と評されるようになった。
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