第3話 天国への行き方

 【天国】の書を見つけた。古びた小さな書店の外は大きな結晶が降り注ぎ、すでに外出をしているものは居ない。これは会計台を乗り越え、生活スペースへと続く短い道の右手に積まれていた本の一番上にあったものだった。本は何か分厚い皮で囲まれ、片手で持つのが辛いほど厚かった。甘い紙の饐えた匂いが鼻腔をつく。

 ページを捲ろうとした時、扉が開いた。

「おや、お客さんかね」

 背筋が凍った。

 それは、雪の冷たさが風に乗り、私の背筋を涼めたためか、店主が戻ってきたためかはわからなかった。

 店主は杖をついた老人だった。焦げ茶色の分厚いコートを羽織っており、黒い長靴が冷たい地面に水後を残す。髪は白く短く切られており、その白さはきっと雪のせいではないだろう。

 私は立ったまま黙っていた。

 老人はニコリともしない表情で会計台に近づいた。

「それは、天国の書だね」

 老人はニコリと優しく微笑みながら私に訊いた。

 私は静かに頷いた。

「外は吹雪だ。ほら、先程からガンガン音がする」

 老人は顔を上に向ける。

 確かに、先程から吹雪で建物が揺れている。

「コーヒーを淹れよう。そこに椅子があるだろ」

 老人は後ろを向くと、扉の数歩横にある硬く角張った木の椅子を指差した。その隣には、四角いサイドテーブルが寂しげに立っている。

「あそこに座りなさい」

「あなたは、どこに座るのですか?」

 私は疑問を持ったので訊いてみた。

「椅子は在る。ほら、そこ」

 指差す方を見ると、会計台の隅に丸い椅子が一つ隠れていた。

 私は静かに頷くと、店主はちゃんとした手順で会計台の内側に入り、短い廊下の奥へと進んでいった。

 私は少しだけその道の先を覗こうとしたら他人の家の炭のような香りがしたので、大人しく椅子に座ることにした。硬い椅子は冷たく、私の体温がどんどん冷えていくようだった。後ろの壁がガンガンと叩かれ、雪の音が酷く私を圧迫した。

「待たせたね」

 五分が経った頃、老人――いや店主は私に湯気の生えたマグカップを一つ渡した。私はそれを大層大事に受け取り、普段なら手を離してしまう熱さをしっかりと包容した。

 老人は自分の椅子を取り、それを会計台の前へと置いた。そして、会計台に置いた自分のマグカップを取ってそこにすわった。

 老人と私の距離は会話をするのにちょうどいい距離で、彼のため息すらよく聞こえた。

「天国の書は、一人の殺人鬼が書いた本なんだ」

 老人は一つ咳をしてから、そう告げた。

 私は隣のサイドテーブルに置いた天国の書を見た。

「そうなんですか。これはどういう内容なんですか?」

「天国の話さ。天国が在ると言う話し」

「天国が在る」

 私は一つ息を吸い、吐いた。

 つばを飲み込むと、体の鼓動が少し落ち着いた。

「つまりね、殺人鬼はこう思ったんだ。私は天国があると信じ、そこへ行けるよう思考を重ねてきた。そしてついに、【誰でも天国へと行ける方法を思いついたのだ】とね」

「それは、なんともファンタジーな話ですね」

 私は内心で失笑しながらも、顔色一つ変えず現実的であり論理的な男としてバカバカしいと言う笑みすら浮かべてみせた。

「天国とはファンタジーな言葉だよ」

「…そうですけど。でも、殺人鬼が書いたんですか…」

「そう。殺人鬼が六度目の殺人で牢獄に居た時に書いた話…」

 老人はコーヒーを優しく啜った。

 私は一息吐いた後、それに習った。

「小説なんですか?」

「いや、哲学書だ」

「天国についての?」

「それもあるけど。…これは幸福論だよ」

「分厚いですね。全部読んだのですか?」

「いや、最初の十ページまでだよ」

「それじゃあ、どうして内容がわかるんですか?」

「目次があるだろ?それを見れば十分だ」

 私はマグカップをサイドテーブルに置き、天国の書を手に取った。ページを捲る時、声がした。

「辞めたほうが良い」

 顔を上げると、老人が笑顔を称えて私の方を見ていた。

「それは呪いだ」

「呪い…」

「君がもし、それを必要としているのなら呪いがかかる。それは、【そういう効能をもたらす本なのだ】。読むのは辞めたほうが良い。儂も辞めた」

 雪の音が強くなった。

 マグカップが置かれたサイドテーブルが僅かに揺れ動いた。

「私がこの書を必要としているように見えますか?」

「君がその書を手にしている時点で、そう見るべきだ」

「これは売り物ですか?」

「買うのかい?」

 老人は目をぎょっと見開くようにして私を見つめた。

「いくらですか?」

「十五万円」

「…本当ですね?」

「ああ。明日には三十万になる」

「どうしてですか?」

「それがこの本を買うためのルールだ。お金はあるのかい?」

 私はポケットから財布を取り出し、金額を確認した。

 くたびれた紙幣が二枚入っていた。

 二つ合わせて二万円だった。

 小銭はない。

「今日もらいます」

 私は立ち上がると、自分の靴紐とコートのボタンを確認した。

「お金があるのかい?」

 老人は心底驚いたとばかりに口を開いた。

「いえ、足りません」

「そ、そうか。外は吹雪だ。明日にするんだね」

「いえ。貰います」

 私は冷たい扉を開くと、雪積もる地面を進んだ。

「な、何を――て、おい、待て――まだダメだ!」

 家は幸いにして近くにある。

 私はフードを深く被り、久しぶりに熱意の籠もった思いを胸に抱き歩みを進めた。外の吹雪は、存外大したことはなかった。


 私が天国の書を求めた理由はわからなかった。だが、最近私は酷く落ち込みやすい時期に入ったらしいということはなんとなく理解ができる。そして今では猛烈に天国の書が欲しいと願っていた。もうすぐこの嫌な時期は終わることだろう。私がそれを手に入れれば――。


 約束の金額を手にし、再度古びた書店を訪ねた。吹雪はますます強くなり、警報が出るのではないかと私は心配した。

 戸を開けると、少しだけ温かな空気と書庫の匂いが優しく私を包みこんだ。老人は居るかと首を回すと、老人が私が座っていた椅子の前で倒れていた。

 私は急いで老人に向かい、心臓の音を確認した。発作などであったなら、早急に病院へと駆け込まねばならないからだ。

 しかし、大事なことに老人はしっかりと息をしていた。苦しそうなこともない。

 私は安堵の息を吐くと当時に、恐ろしい物が目に入った。

 黒髪の少女が私のすぐ横に膝を曲げて座っていた。

 私は直感的に、それが悪魔か神の類であると理解した。少女は存在が偉大だった。輝かしい何かがその少女から解き放たれているのを知覚以外の何かで私は認知していた。

 少女は微笑みながら語った。

「あなたは天国へと立ち入りました」

 それはゆっくりと立ち上がる。

「この老人は死亡しています。あなたが、殺しました」

「…は?」

「今あなたは、罪を犯しました」

「…い、意味がわからない」

「しかし、ここ天国では殺人も無罪となります。ここは、あなたのための世界なのです」

 少女はいつの間にかその偉大さを失われていた。

 少女は矮小であった。それこそ私よりもか弱い生き物としてそこに在った。

 私は彼女の姿をしっかり認知することができた。

 白い病院服を彼女は着用していた。

 髪は黒く、短めに切りそろえられている。

 目つきは鋭く、小さな生物を震えさせる激動が宿っていた。

 その割に唇は小さく、大きな物言いを言えるようには見えなかった。

 背丈も当然私より低い。

 きっと、百五十センチくらいだろう。

 私は唐突に、【この少女が私のものになる】という幻想に取り憑かれた。

 そしてそれは真実その通りになるような気がした。

 外では吹雪が建物を強く叩き続けていた。それが心地よい空間を作り上げている、と私は思った。

「君の名前は…」

 しかし、私は僅かな恐れを抱いて少女に質問をした。

 少女であれ、それはやはり自我の在る一生命体なのだということははっきりとした現実であった。

「私はアヤメという名前です」

 彼女はそう答えた。

 私はその言葉に何か記憶が引っ張られる感覚を覚えたが、どうもぼんやりとしていた。

「私はあなたの幼馴染ですよ」 

 アヤメは優しい笑みを私に見せると、そっと私の手にその小さな手のひらを重ねた。そして、彼女はどこからかベッドを取り出し、それを老人の上に被せた。

 私達はそれが自然なことであるかのようにベッドで眠ることを選んだ。少女は私の右隣で息を吸い、吐き、その手を私の腹に優しく置いていた。私は飛び跳ねたいばかりの幸福感に包まれた。

「結婚しましょ」

 アヤメが私の耳元で囁いた。

「ああ。そうしよう」

 私はうまく答えたと自覚した。

 そすると、アヤメが私の腹に乗ってきた。小さなお尻を私の腹に着け、私を見下ろした。そして、優しげな笑みのまま私の首にゆっくりと両手を貼り付ける。

 私は何をしようとしているのかを理解し、目を瞑った。

 なぜか、私はその状況を受け入れることが出来ていた。

 ゆっくりと、私の首はアヤメによって縛られていく。それすらも、心地よい何かとして私には感じられた。

 しばらくすると、私は苦しむことなくアヤメの手により死亡した。

 この世界でははっきりと【死】の自覚が出来た。

 

 私は死亡してから思い出した。

 そうだ、これが【天国への行き方】だったのだ。

 私は無意識領域で自我を克服したのだ。

 自我を殺したことで、私は本物の純白な魂となりこの【世界の無意識領域】へと足を踏み込むことが出来た。ここまでくれば、後は世界の流れに従うのみである。

 そう、私の自我などもう必要はないのだ――。 

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