第1話

 それにしても変な時期に来てしまったものだ。一月のロンドンは朝八時になっても早朝のような明るさで、夕方五時になったら今日の活動はやめましょうと太陽がやる気をなくしている。そのくせに雲はよく動くし、雨を降らせないと気が済まないらしい。日本にいた時からこのことを知っていたら引っ越したいと思わなかったかもしれないとも感じる。

 現地校に入学した僕は、少しくらい同じ学校にいる日本人に助けを求めようかなどといつも通り安易な思考回路になっていたが、残念ながら二つ上の学年に一人いるだけだった。彼は日本人といってもイギリス人とのハーフで一日の九割を英語で生活している、まさに現地の人らしい。もちろん僕が話しかけに行く勇気もなく、すでに転入してから二か月ほどが経った。先生やクラスメイトは少なからず優しく接してくれるが、どの授業でも少し浮いてしまっているのがバレバレだ。ほとんどの海外の学校は九月から始業するから変なタイミングに来てしまったし、なんにせよ授業も全部英語だから宇宙語を聞かされているようなものである。僕は日本ではいわゆる普通の部類だったんだから、さすがに助けてくれる親しい友達くらいできるだろうと思っていたが、意外と誰とも進展がないように思える。このままどっちつかずの生活を続けていたら僕のそれなりに輝かしい青春は消え去るのだろうかという邪念が毎日僕の頭を通過する。となると。

 まばらにしか人がいない静かな図書室の窓から外を眺める。テニスコートの半分くらいの大きさしかない敷地に、四人掛けのベンチが二つ置いてあるだけの閑散とした中庭。そこに彼はいる。廊下で時々すれ違うだけで、名前も好きな学食も知らない。緑色の透き通った目、ストレートに近いが自然にウエーブがかかった黒髪、堀を際立たせる高い鼻、そして決して高くはない身長でも目立つ小顔。日本人とイギリス人のハーフであるが故に整った顔のパーツは誰が見てもイケメンと呼ばざるを得ないだろう。彼はベンチの端に座り、三人の友達の話に相槌を打ちながら時々笑顔を浮かべている。


 かっこいい、と思ってしまった。


 学校に入って二週間目、担任の先生から二個上の学年に日本語を話せる子がいるから、困っていることがあれば相談に乗ってくれると思うよと言われ、クラスメイトからいつも中庭か校庭にいるという情報をゲットし、司書の先生にどの子が日本人とハーフの子かを教えてもらった。なんせ見た目がまったくと言っていいほど日本人ではなかったため、僕の数少ない英語のボキャブラリーでなんとかたどり着いたのだ。問題は、司書の先生が指をさして教えてくれた時、彼と目が合ってしまったことである。たった0コンマ何秒という時間、ガラス越しだったにも関わらず奴が僕を恐らく日本人として認識したためか、転入生として認識したためかは知らないが微妙な気まずさが訪れた。しかしそんなことはどうでもよかった。僕は僕の目を、確実に彼の奥行きのある緑色の、少したれ目気味の目から離すことができなかった。彼こそすぐに目をそらしたが、僕はずっと合ってしまった目の残像でも見ていたんだろう。その時、僕はかっこいいと思ってしまった。少しこちら側を向く顔の角度と何かもの言いたげな視線は、僕が人生で一度も見たことのない表情をつくりだしていた。

 その日以来僕は毎日休み時間は図書室を訪れ、彼が木曜日以外は中庭にいることまで調べ上げた。まるでストーカーのようだと自分でも思ったが、本物のストーカーは相手の名前くらい知ってるだろうという謎の言い訳でやり過ごしていた。僕の目は目の前にある家から適当に持ってきた漫画と、五メートルほど離れた窓越しの奴の姿を交互に観察している。十分に一回ほどは必ず目が合うので奴も僕の存在に気付いてるはずだが、まだ声を交わしたことは一度もない。しかし僕はすでに知っている。廊下でたまにすれ違うときに友達と話してる声が聞こえるが、程よく低い、落ち着いた声である。周りの群衆を見ていると高めで、雑に喋っている人たちばかりだがやはり奴は一味違った。これまた僕が人生で一度も聞いたことがないほど耳によく馴染む声だった。かっこいい、という単純で、すべてを表した言葉が僕の頭の中をめぐるのが分かった。

 僕が漫画をリュックの中にしまったと同時に時計が二時ちょうど、つまり休み時間終了の数字を指し、奴も同時にベンチから立ち上がる。明日は木曜日、つまり奴に会えないということになる。恐らく校庭にでもいるのだろうが、一人で校庭の周りをうろついて探す勇気はなかった。またいつも通り一人で図書室に座っているのだろう。


 しかし、二月二十六日、木曜日は違った。

「あのさ、ユウリくん?だよね。よろしく。」


 突然背後からかけられた声は、僕が人生で一度も聞いたことがない、よく耳に馴染む声だった。

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