消えていく、春

あおた

プロローグ

 実感もなく住む場所が変わる、というのはどことなく虚しいものである。


 中学一年生の秋、両親から仕事の都合でイギリスに引っ越すと聞いたときは心が跳ね上がった。中学校のみんなとも上手くやれていたし、別に嬉しいわけではないけれど海外に住むというのは人生が変わる気がしていた。実際、英語もしゃべれるようになって日本に帰ってきたら少しくらいモテるかなと変な想像もした。

 小学校のころから学年に二、三人は海外での生活を経験する子がいた。いわゆる「帰国子女」という称号が与えられたすごい人たちだ。よくあるのはクラスのお別れ会などで「アメリカでも頑張ってね!」「帰ってきたらまた遊ぼう!」と喝を入れ合い、歌を歌って別れを惜しむというものである。


 入って九ヶ月の中学校。最終日。今僕の目に映っているのは誰もいない一年五組の教室だけである。何かがおかしい。恐らく誰かが、とんでもない重大なミスをしたとしか思えない。こうして下校時間が近づきながらも何かサプライズとかないのかなと待ってるのがいよいよ馬鹿らしくなってきた。荷物を整理し、下駄箱の上履きをかばんに突っ込み、一応事務員さんにさようならと声をかけて正門を出る。五時近くで下校している生徒はほぼいない。皆最終日ということでスキップしながら帰ったのか、あるいは部活で汗を流しているのだろう。

 いつもの自販機と交差点を通り過ぎ、野良猫にでも話しかけようかなと思っていたら家のドアが見えてきている。こんな笑えることがあるか。こちとらもう一月からイギリスなんだぞと自分に突っこみながらこの一連の犯人を考える。クラスからの手紙や喝もない、そんな最終日を僕にくれたのは誰なのか。僕は決してクラスで目立つ方ではないがそれなりに人と話し、それなりの成績をとる、いわゆる普通と呼ばれるの部類に入るだろうとは思っていた。となると、クラスのみんながイギリス行きの僕の存在を忘れていたのか。いや違う。うるさい一発目軍団はいたけど、他人を無視したり排除したりするような人がいるクラスではなかった。比較的まとまりがあったような気がする。となると。

 担任という文字が頭の中に浮かび上がってくる。あの人は間違いなく世界で一番天然と呼ばれる部類に入る人だとおもっていた。まさかとは思うが、クラスのみんなに僕のことを伝え忘れたのではないだろうか。そんなことがあってたまるかと思いながら家のドアを開け、リビングへと向かい録画した恋愛ドラマを見ている母親を見つける。明後日引越センターが荷物を受け取りに来るというのに呑気な人だ。しかし、これを闇に葬ったままイギリスに行くことは僕の普通プライドが許さないと言っている。

「かーちゃん、イギリスに行くこと林原先生に言ったよな?」

 体勢は崩さずに母が答える。

「当たり前やん、イギリスの学校と日本の中学の反復横跳びなんてできるわけないやろ。なめんな、ふん。」

ドラマで身に着けたのであろう関西弁と子供っぽい口調が鼻につくが、さすがに母親は無実である。

 林原てめえ!と叫びたくなったのを喉に抑え、かばんからスマホを出してクラスラインをのぞく。最後の会話は夏休みの直前、誰が一番課題を最終日に泣きながらやりそうか選手権で終わっていた。小学校かよ、と思ったけど、実際中一なんて同じようなものだろう。せめてここに知らせておいた方がよいのは確実だ。引っ越しのことを伝えたのは小学校からの友達二人で、自分は意外となんでも話せる、みたいな親しい友達が中学ではまだできていなかったことに今さら気づく。しかし気にしている場合ではない。普通でいられることのできたクラスに少し感謝を込めて

「実は、イギリスへ引っ越します。来週からです。少しの間、ありがとうございました。」と送る。


 イギリスでできるかな、恋愛。僕は輝かしい未来への門出を開いたはずだった。

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