第3話 同棲のお誘い

 毎日がモノクロのようだった。

 ただ平穏に、平凡に、淡々と過ぎゆく。


 暑さも和らいできた、高校三年の十月。

 受験勉強には取り組んでいるものの、いまいち身が入らない。

 成績的には問題ないので、今までの調子を保ち続ければ合格圏は狙える。

 

 しかし、本当にこれでいいのかと疑う自分がいた。

 

 俺が進学しようとしているのは地元の大学だ。家からでも充分通えるくらいのところにある。正直、距離だけで決めたと言われても否定できない。

 

 それくらい、将来に対しての見通しが甘かった。

 けれど、今更変えようとは思わなかった。

 

 これでいいんだ、ここなら受かる、下手に上の大学を狙おうとしても落ちるだけだ、と自分がこの大学に通うための理由を、外堀を埋めるかのように言い繕っていた。


 本気でやりたいことなんてない。

 ただ将来の選択の幅が広がればいいと思っている。

 

『でも、蓮ならなれる気がするんだけどなぁ。立派な先生に』


 不意に瀬奈の言葉が脳裏にこだます。


『そういうのを経験したからこそだよ。辛い気持ちに寄り添える先生っていいじゃん』


 彼女の笑った顔を思い出す。 

 

 いや、先生になるのはもう諦めたんだ。

 もっといい職業があるはずなんだ。

 楽で稼げる職業が。


 あれ。

 

 仕事に対する価値観っていつこうなってしまったんだろう。

 昔は給料だとか楽とかそんなので決めていただろうか。

 きっと違った。自分のなりたいものを憧れで決めていた気がする。

 

 でも、結局世の中は金だ。

 金があるやつが偉いんだ。

 

 けど、努力のしすぎだって辛い。

 ほどほどにいい大学を出て、ほどほどにいい会社に入る。それが正解のはずなんだ。


「ふぅ……」


 勉強の手を休めて思考の海に沈んでいた意識を現実へ戻す。

 

 休日を丸々勉強に費やしたせいか、頭が疲れているのかもしれない。

  

 煮え切らない気持ちのまま、勉強を再開することにした。

 

  

 夕方になった頃。

 

 母親におつかいを頼まれた。集まりがあって行けないそうだ。

 

 勉強を言い訳にして断りたかったが、颯爽と去ってしまったため、仕方なく買ってくることにした。

 


 自転車を漕いで、近所のスーパーにやってきた。

 普段あまり入らないため、どこに何が置かれているのかわからない。

 メモ帳と商品棚を照らし合わせながら、目的のものをかごに突っ込んでいく。


 これもよし、それもよし……。

 あと一つだ。


 しかし最後の一つがなかなか見つからない。

 一体どこに陳列されているのだろうか。


 闇雲に探しても時間の無駄だと思い、近くの店員さんに訊いてみる。


「すみませ──」


 俺の声に反応して店員さんが振り向く。


 瀬奈だった。


 驚きで言葉が詰まる。


「……蓮?」


 スーパーの制服を身に纏い、頭に三角巾を巻いているその姿は、普段とはかけ離れていた。


「あ、あの瀬奈っ……」


 しどろもどろになりながら話しかける。

 

 謝りたかった。

 必要以上に踏み入ったことを。

 その心を傷つけたことを。


「十時」


「へ?」


「十時にバイト終わるから」


 それだけ言うと瀬奈は去ってしまった。 


 ぽかんとしてしまう。 

 十時にバイトが終わるから一体何だというのだろうか。今から数時間後まで待てというのか。


 いや違う。

 十時にまた来いということか。

 

 話をしたいのだろう。

 この間の件について。

  

 瀬奈の意図をやっと理解した俺は、商品の場所を尋ね忘れたことに気付き、別の店員へ声をかけるのだった。


 ――――――――――


 十時になる少し前に、再びスーパーへやってきた。


 電気がところどころ消されていて、寂しい印象を受ける。


 瀬奈が店の裏から出てきた。

 私服だった。

 

 こちらへ近付いてくる。


「いこっ」


 こんな時間にどこへ行くというのだろうか。

 質問しようとしたが、瀬奈は歩き出してしまった。

 俺はその跡を慌てて追った。

 


 どこかいたたまれない空気の中、瀬奈と二人歩く。

 押して歩く自転車のチェーン音が悲しく鳴り響く。

 

 辺りは真っ暗で、人気はない。

 街灯が俺達を照らす。

 瀬奈の表情は影が遮っていて窺えない。


 時折車が通り過ぎていく。

 こんな時間にどこへ行くのだろう。

 どうでもいいことを考えることによって、場の空気から逃げ出したつもりになった。


 俺達の間に会話はなかった。 

 俺はこの静寂を破る勇気を持ち合わせていなかった。

 


 やがて、波の音が聞こえてきた。


 俺達が住む場所は海が近いのだ。


 近付いていくと、音はどんどん大きくなる。


 ざあ……ざあ……ざぶん……。


 このぎこちない空気感を打ち消すかのように波の音が響き渡る。

 


 砂浜までやってきた。

 俺は適当なところへ自転車を停めた。


 夜の海は神秘的だった。

 

 宇宙を眺めているみたいに、黒く吸い込まれそうで、けれど空に瞬く星が反射されていて美しかった。


 瀬奈は靴を脱いだ。

 裸足になり、海へ歩いていく。


 最悪な未来が頭を過った。「瀬奈ぁぁ!」と決死の声で叫びながら、手を伸ばす。


「大丈夫だよ。涼みたいだけだから」


 瀬奈の言葉を聞いて安堵した。

 

 俺は瀬奈のことを見つめる。

 楽しそうに浅瀬で足踏みしていた。

 

 その姿と雄大な背景が、一枚の絵のように見えてくる。

 

「わたしさ、どこにも居場所ないの」


 瀬奈がぽつりと言った。

 視線は俺に向けられていない。まるで独り言のようであった。

 けれど確実に俺へ届くように言ったのは間違いない。


 きっと、あれから瀬奈なりに色々考えて、話すことにしたのだろう。その想いや葛藤がなんとなく伝わってきた。


「親がさ、再婚するつもりなの。離婚したのは去年。前から両親の仲が怪しいとは思ってた。でもやっぱり離婚ってなると、やりきれない気持ちになった」


 瀬奈の内情が綴られる。

 

 それは海で遊ぶ今の姿とはかけ離れていて、暗くじめっとしていた。


「わたしをどっちが預かるか、揉めに揉めた。まるで、責任を押し付け合うように」


 不必要な存在だと突きつけられた、と裏で思っているのが俺にはわかった。


「結局、わたしは母親の元で暮らすことになった。それでさ、離婚前に既に彼氏的なのがいたらしいの。今は離婚成立したから心置きなく結婚できるねって、そいつも家に住み始めたの。わたしは邪魔者でしかなくて、家に居場所なんかないんだ。いつ追い出されてもおかしくないくらい、母親もそいつもわたしを睨み付けてくるの。その蔑んだような目がたまらなく怖くて、思い出しただけで震えが出てくるんだ」


 途中から、瀬奈の声には嗚咽が混じっていた。 


「両親が離婚したとき、わたしの気持ちを察して友達はみんな距離を取った。そして、そのまま帰ってこなかった。前みたいに話しかけても、そっけない態度をとられるんだ。もしかしたら、最初から友達じゃなかったのかも。ただ、わたしと距離を取りたいが為の口実だったのかもね」


 あははっ、といつものように笑いながら言う。

 その笑い声は、どう聞いても笑っていなかった。


「学校に行くとさ、突然涙が出てきちゃうんだ。なんにも考えてなくても勝手にだよ!? それが嫌で学校に行きづらくなった。バイトは無心で作業できるし、お客様もいるからなんとかなってる。でも、何度も注意されてメンタル的に苦しいときもあって辛いや」


 瀬奈は上を向く。

 まるで、涙を零すのをいとうように。


「家族も駄目、友達も駄目、バイト先も駄目。頼れる人がもういないのに、どうやってこのさき生きていけばいいのか、わかんないよ……」


 助けを求めるように切なげに紡がれる。


「なら、俺を頼ればいい」


 はっきりとそう言った。

 半端な気持ちなんかじゃない。

 

 瀬奈はゆっくりと視線を俺へ向けた。


「出会って数日なのに、何言ってるの? それにさ、キミに何ができるの?」


 突き放すような物言いだった。


「確かに数日だけど、でもっ!」


「無理しなくていいよ」


 諦めを悟ったかのような響きだった。


 瀬奈が一人沈んでいこうとしている。

 俺は必死に手を伸ばす。


「俺は、瀬奈を救いたいんだ。救わなきゃ一生後悔すると思うんだ!」


 心の底から、声を上げた。

 普段大声を出さないからか、ところどころ乱れていた。


「じゃあ、具体的には何をしてくれるの?」


 微かな希望に縋るように、瀬奈は俺を見つめる。


 間が生まれる。


 瀬奈の為に何ができる。

 

 気持ちだけじゃ救えない。

 言葉だけじゃ助けられない。

 

 だから――


「……一緒に、暮らそう」


 俺は捻り出した答えを静かに述べた。


「あははっ。面白い冗談言うね」


 瀬奈は本気で冗談だと思っているようで、いつものようにからからと笑った。


「冗談じゃない。今は無理だけど、もうすぐ俺は高校を卒業する。そしたら……」


「そしたら?」


「大学に進学する。それで……地元を出るんだ。一人暮らしする予定なんだ。だから、そこで瀬奈と一緒に暮らせる」


 地元を出るつもりなんてなかったのに。

 

 口が勝手に動く。瀬奈を救おうと。


「付き合ってもいないのに同棲のお誘いかー」


 ただの夢物語だと決めつけるように、淡々とした声音で言う。


「瀬奈、決めるのはお前自身だ」


 俺は瀬奈に真剣に向き合って言った。


 そして一度言葉を切って、深く息を吸って吐いて、続けた。


「頼む、俺と一緒に来てくれ」


 瀬奈に手を伸ばす。

 この手を取ってくれと願いながら。


「なんだか、プロポーズみたいだね」


 俺の本気度を理解したのか、からかい混じりではあるが、さっきよりもちゃんと受け止めているようだった。 


「キミの態度次第、かな」


 目を細め、瀬奈は告げる。


「態度?」


「そう、行動で見せてよ。わたしは家族にも友達にも裏切られているから。言葉だけじゃ信用できないよ」

  

 俺への微かな希望を託すように、瀬奈は悲しく告げる。


「わかった。やってやるよ」


 俺は決意を込め、瀬奈へ力強く宣言した。

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