第4話 初めてのキス

 瀬奈に誓った通り、俺は態度を改めることにした。


 まずできることからということで、勉強により力を入れることにした。

 今までも頑張ってはいたが、決して本調子ではなかった。

 

 俺は、本屋で一つ上のレベルの問題集を手に取った。

 地元の大学に進学するうえで必要のないもの。

 しかし、遠くの大学に行くなら必要になる知識。

 

 迷う心を追い払い、数冊ほど購入した。

 俺はワンランク上の大学を目指す。

 

 自分を、変えるんだ。

 そして瀬奈を、救うんだ。


 カリカリと机に向かって問題を解いていく。応用問題がズラリと並んでいて、とにかく難しい。

 

 何度も何度も間違えた。

 丸なんてほとんどなかった。


 それでも俺は諦めなかった。

 立ち止まらなかった。

 

 解いて解いて解き続けた。

 解説を見ては、解き方を必死に頭に叩き込んだ。

 

 何度も復習して、ようやく少しずつ解けるようになってきた。

 

 見える世界が、変わってきた。


 よくわからない数式の羅列が、今なら理解できる。

 一つ一つ意味を持って、俺へと訴えかけてくる。

 

 公式に従い、解いていく。

 

 落とし込めないところは上手くやりくりして。

 

 わかる。

 解ける。

 俺ならできる。


 勉強が楽しい。

 確実に成長を実感できている。

 

 努力が認められたみたいな気分だった。

 


 テストを受けた。校内限定のものではなく、全国の生徒が受けるものだ。問題集で学んだことを糧に解いていく。

 

 テスト後、即自己採点をした。

 決していい点数とは言い難かった。

 けど、勉強に本腰を入れてなかった前回よりは伸びていた。

 

 まだ伸びしろはある。俺は進み続けた。



 時折、瀬奈のバイト先であるスーパーに行くことがあった。と言ってもスーパーに用があるわけではない。

 

 夜の十時過ぎ、瀬奈が店の裏から出てきた。

 

「そういえば、連絡先交換してないね」


「ほんとだな」


 夜の街を歩きながら、二人でとりとめもない会話をする。


「今しちゃおうか」


 立ち止まって、連絡先を交換し合う。

 俺のスマホに瀬奈のアイコンが表示され、むず痒い気持ちになった。


「もう出会って二ヶ月くらいになるっけ?」


「いつの間にかそれくらい経つのか」


 ゆっくりと再び歩き出す。

 

 暑かった日々はとうに過ぎ去り、肌寒いことが増えた。

 それくらい瀬奈との交流した期間が長くなっていた。


「それなのにまだ連絡先交換してなかったって笑っちゃうね」


「直接会う頻度が高いからあんま必要なかったとも言い換えられるがな」


「ほー、直接会いたいとな?」


「言ってない」


「えーでも会う頻度高いのは、会いたいからそうなってるってことじゃないの?」


「……」


 実際そうなのかもしれない。

 けど、素直に肯定するのは恥ずかしかった。


「おやおや……? 否定できないんだねー」


 街灯の下、瀬奈のいじわるな笑みが照らし出される。


「勉強、頑張ってるよ」


「あからさまな話題転換だー。でも乗ってあげようぞ。毎日頑張ってて偉いね。継続は力なり、だよ!」


 瀬奈が明るい声で励ましてくれる。

 その声が胸に深くしみる。


 けど、俺の抱えた重い気持ちまでは消えてくれなかった。


「……あのさ、まだ親に話してないんだ」


 その重い気持ちを吐露するように瀬奈へ話す。


「別の大学に行きたいってことを?」


「ああ」


 俺は海の時の発言が見栄っ張りだったことをその後明かした。なんとなく嘘をついたままでいるのが耐えられなかったのだ。

 

 けど、絶対に親へ説得させるとも言った。

 瀬奈は、蓮ならできるよ、と応援してくれた。


「怖いの?」


「たぶん、な」


 親に反対されるのが目に見えているから怖い。だから俺は一歩を踏み出せなかった。


「蓮、必死に勉強してるじゃんか。もっと勇気出しなって」


 眉を下げて、瀬奈は言う。


「わかってる……わかってるけど……」


 堪えきれない想いが漏れ出る。

 自信はついたはずなのに、怖い。

 

 もし駄目だったら、今まで勉強してきたものが無意味になる。

 そうか……だから怖いのだろう。


「蓮はさ……わたしの為にその大学に行くの?」


 瀬奈が俺の核心へ迫る発言をした。


「そう……なるな」


 俺はそれしか答えられなかった。

 それじゃ駄目だとわかっていながらも、他の答えが浮かばなかった。


「自分にとって、何か見つけたほうが良いと思うよ。じゃないと入ってから続かない。蓮が本気で頑張ってる姿を見て、わたしは嬉しいよ。けどね、わたしの為だけじゃなく、自分の為にも目指す理由を見つけてほしいんだ。わたしの為だけじゃ、苦しいよ……」


「だよな……」


 あくまで俺の意思が大前提だ。

 他人のために動くのはいいが、自分を蔑ろにしてはいけない。それでは親にも瀬奈にも失礼だ。


 * * *

 

 家に帰ってきて、カリカリと机に向き合いながら、先程の大学に進学する意味について自問自答する。


 何のために大学へ行くのか。 

  

 瀬奈の言葉がまた蘇る。


『でも、蓮ならなれる気がするんだけどなぁ。立派な先生に』


『そういうのを経験したからこそだよ。辛い気持ちに寄り添える先生っていいじゃん』


 俺は先生になる夢を捨てきれないのだろうか。ずっと瀬奈に言われた言葉が忘れられない。

 

 勉強の手を休め、スマホで学校の先生という職業について調べる。


 大変だ。残業が多い。ストレス溜まる。絶対にやめとけ。


 暗いワードが目に留まる。


 一方で明るい言葉も見受けられた。

 

 やりがいがある。生徒とかかわるのは楽しい。生き甲斐。成長に感動する。


 目を閉じて、俺は憧れの原点に立ち返った。


 小学生の頃、俺はわからない問題で一人躓いていた。みんな解けたようで、俺だけ置いていかれたみたいだった。

 

 それを放課後、担任の先生が理解できるまで俺に優しく教えてくれたのだ。

 

 俺が無理言って頼んだから嫌々だったかもしれない。その先生はもうそのことなんか覚えていないかもしれない。

 

 それでも、その問題の解法の意味がわかったとき、俺はまるで暗いトンネルの先に光明が見えたような思いだった。

 

 先生が付きっきりで教えてくれたから、ここまでたどり着けた。

 俺は、先生ってすごいんだなと強く感動した。

 それが、憧れの始まりだった。 

 

 勉強はわからないことがわかるようになったときに嬉しい気持ちになる。難問であればあるほど、その気持ちは大きいだろう。

 

 それを伝えたいんだ。

 勉強の楽しさを知らない人にも。


 そうだ。これでいいんだ。これが、俺のやりたいことなんだ。

 ピタリとピースが嵌まったような感触を覚えた。

 

 まるで、難問が解けた時のような爽快感だった。


 立派な先生に、なってやる。

 

 * * *

 

 翌日、俺はテストの成績を持って両親に告げた。

 

 別の大学へ進学したい、と。

 実家を出たいという意志も添えて。


 成績は前受けたテストのものだ。行きたい大学の判定はあまりよくない。一方で地元の大学は安定して合格が狙える圏内だった。

 

 両親には困惑されたし、否定もされた。


 理由はやはり家から通える範囲に大学があるからだ。

 そこの偏差値だってまぁ悪いわけではない。


 それなのに遠くの大学へ行く理由。


 口をつぐんだ俺に、両親は安心した顔を浮かべた。

 今がチャンスだと、言いくるむようにまくしたててくる。

 

 高望みするよりも安定圏を狙ったほうがいい、あそこの大学からだってすごい活躍を遂げた卒業生がいる。

 

 ありふれた言い訳が親の口から次々と転がり出る。


 きっと実家暮らしのままでいてほしいのだろう。

 うちはあまり裕福ではない。両親共働きではあるが、収入はそうでもないから。

 ここで俺が実家を出るとなれば、家賃やらなんやらで金がかかる。

 

 大学に通いながらバイトもする予定だが、それでも俺一人の稼ぎじゃ、やっていけない。

 

 どうしても親の協力が必要だった。


 俺は黙りこくっていた口を、おそるおそる開いた。


「先生に、なりたいんだ」


 緊張で声が震えた。

 

 今更、先生になる夢を叶えようなんて馬鹿にされるかと思った。


 昨日固めた決意は両親を前にすると、弱々しくなってしまった。


「そのために、もっと頭の良い大学へ行きたいんだ」


 けれど、気持ちを告げ終わるまではやめない。

 ところどころ掠れた声をなんとか響かせる。


「頭のいい大学へ行って、もっと深く学びたい。高度に学べば学ぶほど、視野は広がるから。そうすれば、教えられることだって増える。だから……」


 俺の気持ちをありのまま告げた。


 前を向けなかった。

 

 怖かった。

 

 笑われるのが。否定されるのが。 


 本気でなりたいから、駄目だと言われた時に心が耐えられる気がしなかった。

 

 唇を噛み締めて、手で握りこぶしを作って、泣きそうになる自分を抑える。


「そうだったのか……どおりで最近勉強頑張ってたわけか」


 ぽつりと父親が言った。


「叶えたい夢があんなら、しょうがないね。応援するよ、あんたの夢」


 母親も言った。


 俺は呆然としたまま顔をあげた。

 

 二人は笑顔で笑っていた。

 

 俺は胸がいっぱいになった。

 鼻がつんとなり、視界がじんわりとした。


 * * *


「親に言ったら背中を押してもらえることになった」

 

「すごいじゃん!」


 あれから数日後、瀬奈へそのことを報告した。メッセージで事前に言ってあったので、改めて言う形ではあるが。

 

 瀬奈は白い息を吐いて、にかっと笑った。


「はい、これ。ご褒美」


 缶のコーンポタージュをくれる。


 俺が来る寸前に自販機で買ったのだろう。まだ熱々だった。


 軽く振ってからプルタブをあけ、息を吹きかけ冷ましながら一口飲む。 


「うまいな。身体があったまる」


「わたしにも一口ちょうだい?」


「ん」


 瀬奈へ缶を差し出した。

 ズズッと一口飲む。


 なんかさり気なく飲み物を共有してしまった。いつの間にか、俺は瀬奈に心を許しまくっているようだ。 


「おー、コーンがいっぱいだ」


 もぐもぐとコーンを咀嚼していた。 


「俺さ、先生になろうと思うんだ」


 俺は瀬奈へ夢を告げた。

 

 俺の背中を押してくれた張本人に、それだけはどうしても言いたかった。 


「いいじゃん」


 歯を見せて、瀬奈は笑みを浮かべる。

 すごく嬉しそうだった。 


「わたしが言ったから?」


「そうだ」


「蓮の人生、変えちゃったかもしれないってことかー」


「俺も、瀬奈の人生を変えるつもりだけどな」


「お互い様だね」


「そうだな」


 ひとしきり言って、二人で笑い合った。 


「あ、そうだ。ご褒美もう一つあげるよ」


「なんだ?」


 閃いたように瀬奈は言った。

 言い方からして、持ち合わせがあるわけではないようだ。一体何をくれるというのだろうか。


「目、閉じて」


 言われた通りに目を閉じた。

 視界が闇に覆われる。

 

 周囲の微かな葉擦れの音が響く。

 目を閉じると、他の感覚が一層過敏になる。

 

 目を閉じて公園の空気を浴びるのもなかなかいいなと思っていたその時だった。


 唇に何かが触れた。

 

 それは、柔らかくて暖かかった。


 目を開ける。 


「あははっ、顔真っ赤だよ?」


 瀬奈はほくそ笑んだような顔を向けてくる。

 その顔を見たら、さっきの感触を思い出して、鼓動がますます早くなる。


「そっちこそ赤いぞ」


 俺は仕返しといわんばかりに言ってやる。


「えっ!?」


 瀬奈はしきりに自分の顔をペタペタと触り始めた。「熱いからほんとに赤いのかも……あぁぁぁ恥ずかしいぃぃ」とかなんとか一人でぶつぶつ言っている。


「んじゃ、そろそろ勉強に戻るから」


「ちょ、ちょっとまってっ! ……か、感想とかないの!?」


 俺が踵を返そうとすると、瀬奈に食い止められた。

 

 感想、と言われて真っ先に浮かぶのは……。


「……コーンポタージュの味がした」


「……わたしも」

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