第4話 利用する

 結果として、命は助かった。だがしばらくの間はベッドから動けない状態となった。


 今度ばかりは命が危なかったせいか、母は号泣して無事を喜び、父に至ってはまるで死んでいるように顔を真っ青にさせてまだ事実を受け止めきれない様子であった。


「なぜこんなことをしたんだ」


 掠れた声で父にそう尋ねられ、私ははっきりと口にした。


「このままだとデニスと結婚させられると思ったから」


 ――数日後。父は私とデニスの婚約を考え直したいと、デニスの両親に申し出た。


 しかし彼の両親に理由を尋ねられ、お宅の息子さんと結婚するのが嫌で娘が飛び降りようとしたから、と正直に打ち明けることはできない父は適当な理由を述べた。相手はそれでは納得できないと、婚約解消にまでは至らなかった。


 加えてなぜかデニス自身が嫌だと主張したらしい。たぶん彼の両親が結婚まで円滑に進めたいがためについたお世辞のようなものだろう。真に受けるだけ馬鹿だ。


 いずれにせよ、父は私に諦めるよう言った。


「勉強も体調が良くない時以外はこれまで通りやりなさい」


 無事に歩けるようになるとそう残酷に命じたのだった。


「あの家庭教師の女はもう嫌。他の人に変えて」


 父は軽くため息をつき、もう変えてあると告げた。だが今度の家庭教師も私の癪に障ることばかり言い、私は脱走を企てた。叱られはしたものの、三階の部屋に閉じ込められることはなかった。その代わり監視付きで部屋を出てはいけないと言われた。


 腹立たしい気持ちで私は窓から妹が母とどこかへ出かけていくのを見た。


 妹は勉強しなくてもいい。自由気ままに一日を過ごすことができる。遊び放題なのだ。これから母と買い物でも行くのだろう。あるいは今流行の芝居を観に行くのか。羨ましい。なんで私ばっかり……。


「お嬢様。ほら、本でも読みましょう?」


 メイドが機嫌をとるように猫撫で声ですり寄ってくる。私はお菓子が食べたいと言い、彼女はそれで大人しくなるならばと、用意するために部屋を出て行った。その隙に私は部屋を抜け出し、外へ出た。


 前と同じ庭にいればすぐに連れ戻されると、屋敷の外へ出た。今の自分の足でどこまで行けるか確かめたかった。案外遠くまで行けるのではないかと思っていると、途中で馬車が止まった。中が開き、私は顔を顰めた。


「イルゼ! こんなところで何をしているんだ!」


 デニスだった。それと彼の母親もいる。なんて不運なのだろう。


「イルゼ。あなた一人なの? どこへ行くつもりだったの?」


 今回はデニスの母親もいる。公爵夫人でもある彼女に歯向かうのは、さすがにいろいろ面倒だと思い、私はしおらしい顔をして打ち明けた。


「実は……お母様と妹が、私だけおいて街へ行ってしまったから……寂しくて、どうにか二人のもとまで行けないかと思ったんです……」

「まぁ……」


 世間知らずで人を疑うことを知らない――心優しい夫人は子どもである私の言葉をすんなりと信じた。


「イルゼ。それ、本当?」


 やつだけが疑いの眼差しを向けてくるので、私は泣きそうな顔で「本当よ」と訴えかけた。迫真の演技が通じたのか、デニスはとたんに狼狽えた様子で「ご、ごめん。疑ったわけじゃないんだ」と謝ってきた。ちょろいやつ。


「だったら、わたくしたちの馬車にお乗りなさい。あなたのお母様たちのもとまで連れて行ってあげるわ」


 私は一瞬デニスと移動するのが嫌で断ろうと思ったが、逆に母と妹にこの姿を見せつけてやろうと「本当? ありがとう、デニスのお母様!」と満面の笑みで誘いに乗ったのだった。


「――まぁ、それでお父様はどうしたの?」

「母の後を慌てて追いかけていきましたわ。そしてその父の後を、家令が追いかけたんです。旦那様、帽子と杖をお忘れですって言いながら」

「まぁ、うふふ」


 馬車の中で、私はデニスの存在を無視して、ただひたすら夫人との会話を楽しんだ。デニスはそんな私の顔を気味が悪そうに見ていた。自分に対しては冷え切った眼差ししか向けないからだろう。


「あなたみたいな子が、デニスのお嫁さんになってくれるなら、将来温かい家庭が築けそうね」

「母さん!」


 何を言うんだとデニスが少年らしい恥じらいで母を止めた。


「あらあら。デニスったら照れてしまって。あなたが誤って階段から落ちて怪我してしまった時も、それを理由に婚約者であることをやめようとした時も、すごく動揺してしまってね、大変だったのよ」

「母さん!」


 私はにっこりと微笑んだ。


「そうですか。それはご心配おかけしました」


 デニスが困惑したように私を見つめる。怒っていないのか、という表情だ。馬鹿ね。あなたなんてどうでもいいのよ。


「でもおばさま。人の心というのは変わるものですわ」

「あら、どういうこと?」

「彼が私ではなく、他の女性を好きになる可能性もあるということです。いえ、もう他に好きな人がいるかもしれませんわ」

「まぁ……デニス、そうなの?」


 母親に聞かれ、デニスはぎょっとする。


「違う! そんな人いない!」


 親の前だから必死に否定するのね。夫人がちょっと困惑しているじゃない。あーあ。早く認めちゃえばいいのに。


 私はなおもデニスと妹の関係をほのめかすようなことを言って彼の動揺を晒してやった。いい気味だ。

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