第2話 逃亡
病気がよくなると、まだ病み上がりにも関わらず、さっそく勉強するよう言われた。
「こんな問題もわからないんですか」
私の家庭教師は二十代半ばの、地味でいかにも話が通じなさそうなお堅い女性であった。一々嫌味ったらしい口調で私の不出来を咎めなければ気が済まない性格に、かつての私はよく涙したものだった。
だが今は違う。泣いて我慢して机にかじりついてなんかやらない。
「イルゼ嬢。手が止まっていますよ」
「もうやりたくない」
「まぁ! そんな我儘は許されません!」
「身体がまだきついの」
「ご両親からはもう大丈夫だと伺っております。嘘をつくのはよくありません」
その言葉にぷつりときれる。
「うるさい!」
握っていた鉛筆を勢いよく投げつける。今までそんな反抗的な態度をとったことがない私の姿に、家庭教師はあんぐりと口を開けた。
「もうやりたくないって言っているの。あなたの教え方が下手くそだから!」
そう叫んで私は部屋を飛び出した。呆気にとられていた彼女が慌てて「待ちなさい!」という声が聞こえたけれど、全速力で走って逃げた。
途中すれ違う使用人たちが何事かと目を見開き、それが私だと知ると、みな目を丸くしていた。家庭教師と同様、私がこんなことするなんて思いもしなかったのだろう。なかなかに愉快な光景だった。
大人たちの追手をどうにか逃れ、私は庭へとやってきた。夕方までここで遊んでいよう。
「お姉様?」
そう思っていたのに、妹に見つかった。そして彼女の隣にはなぜか私の婚約者、デニスがいた。彼が今日ここへ来るなんて私は知らされていなかった。
彼は私を見ると、悪戯がばれたような、気まずい表情をした。その顔に、妹と会っていることを私に知られたくなかったのだと知った。
二人はこの頃からすでに互いを想い合っていた。私が勉強やら何やらで苦労している間、背徳感に満ちた状況で愛を育んでいたのだ。
それなのに私ときたらそんなことも知らずに、これもデニス様のため、なんて健気に想い続けて……ほんと馬鹿みたい。大馬鹿者だ。
「お姉様。どうしてここにいるの。今は家庭教師の先生とお勉強の時間でしょう」
妹が一人能天気に話しかけてくる。
私はふいと顔を背けて、妹の存在を無視した。こんなやつと口を利きたくなかった。
「お姉様……?」
返事をしてもらえず、妹がショックを受けたように傷ついた顔をする。彼女のためにデニスが代わりに怒る。
「イルゼ。ひどいじゃないか。せっかくレイラが――」
肩を掴んで振り向かせようとした彼の手を私は思いきり振り払った。ぱしんと乾いた音が思いのほか大きく響く。
「触らないで」
我ながら冷え冷えとした声が出たと思う。
デニスが青い目を真ん丸と見開いた。
「イ、イルゼ?」
「あなたたちと関わりたくないから、ついてこないで」
「関わりたくないって……なんだよその言い方! きみは僕の婚約者だろう?」
「はっ、私が? 冗談を言わないで」
私は彼と向き合うと、きっぱりと告げた。
「私の妹と隠れて浮気するような男なんか、私の婚約者じゃない」
浮気と言われ、彼が動揺する。
「う、浮気って……」
「あら、違うの? こんなところでこそこそ会って、私の顔を見るなり挙動不審になっちゃって」
「そ、それは……」
「違うのお姉様! デニス様とわたしはただ話をしていただけでっ」
きゃんきゃん子犬みたいに吠える妹の声に私は煩いと顔を顰めた。
「別にどうでもいいわよ」
「イルゼ。僕は決してきみを裏切ろうとしたわけじゃ……」
その言い分は過去、不倫を言い訳する彼の言い方とそっくりだった。同じ人間だから当然だけどね。ただ不意にあの時の光景や感情を思い出して猛烈に腹立たしさと気持ち悪さに襲われた。
「あなたなんて大嫌いよ」
言葉を失うデニスに、止めを刺すように言った。
「婚約者なんてゾッとする。妹とよろしくやればいいわ」
じゃあね、と呆然とするデニスと、ひどいわと言って彼を慰める妹を置き去りにして、私はさっさと歩き出す。そして日暮れまで遊んで、ようやく探し出した家令とボロボロになった家庭教師の女性に連れ戻されたのだった。
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