08 絶妙に下回ってくるんだよなぁ

 フィリップ皇太子から手紙が届いた。

 うんざりした顔の専属侍女マルゲリータちゃんはそう言って、汚いものでも摘むようにして書簡を持って現れる。


「ナターシャ様。ダメップからの例の臭いのです」

「ありがとう。今度は何を言ってくるのかな」


 私としては、さっさとアーサーと入籍してしまいたいんだけどね。残念ながら貴族の結婚というのはそう簡単なものではないのだ。

 少なくとも婚約から半年くらいは期間を空けて、他の者と結婚式の日程が被らないように調整してから式の招待状を送る必要がある。私の場合は特に、懇意にしている貴族家も多いからなおさらだ。


 今は秋だから、結婚式は早くても来年の春頃になるだろうか。ひとまずそこまで逃げ切れば、私とアーサーの勝ちだと思っていいだろう。


「うーん……なるほど、こう来たかぁ」

「ダメップ皇太子は何と?」

「これまた斜め下だなぁ」


――偽聖女ナターシャの結婚は認められない。聖女アサヒを差し出すか、ナターシャが帝都に来ない場合、ライラック辺境伯家には反逆罪を適用する。


 なるほどね。とりあえず、この手紙はとんでもない悪手だと思うんだけど。フィリップ皇太子はどういうつもりでこんな手紙を寄越してきたんだろうなぁ。


「ナターシャ様、どうされるんです?」

「コピーしてばら撒くわ」

「え……」

「コピーしてばら撒くわ。あのね、貴族家の結婚に皇家が口出しをしてトラブルになったことは、歴史上何度かあって、いずれも大きな内紛に発展したの。その反省から、帝国では一つの決め事があるんだよ」


 貴族家の者の結婚は、その家長に決定権がある。皇家であってもその権利は決して侵害してはならない。


「まして今回は、私に偽聖女という不名誉を押し付けた上で破談にした婚約の話を、皇家都合で蒸し返そうとしている。その上、聖女を取り逃がしたという皇家の失態の責任をライラック辺境伯家へ押し付けようとしている形だからね。こんな横暴を許したら、他の貴族家だって安心して暮らせなくなるよ」

「なるほど。つまり」

「コピーした手紙をばら撒くのと同時に、皇家への抗議の署名へのサインをお願いする。大きな貴族家ほどこの手紙は許容できないはずだよ。これを許してしまったら、帝国全体の貴族家の統制が崩れる――それほどの話だからね」


 さて、そうと決まれば各貴族家への手紙を書かないとね。迅速に、丁寧に。あぁ、香りつきの石鹸でも同封しようかな。たぶん喜んでくれると思うんだよね。


「マルゲリータちゃんはお父様にこのメモを渡してもらえるかな」

「……戦争ですか?」

「今は声をかけておくだけだよ。武門の家にはお父様の勇名が効果的だからね。温厚だけれど怒らせたら恐ろしいライラック辺境伯が、皇家の横暴にそろそろ我慢できなくなってきた――そういう噂を流して、圧力をかけるの」


 どうも帝国軍に深く関わっている人間ほど、お父様の名前に恐れ慄くみたいからね。帝国軍の元帥ですらお父様とは争いたくないみたいだから、フィリップ皇太子が軍を動かすのは難しいだろうな。


「とにかく、多方面から対処してみるよ。理想としては、フィリップ皇太子が動けば動くほど追い詰められていくような構図を作ること」

「さすがナターシャ様」

「褒めるのはまだ早いよ。何せ相手は何をしてくるか読めない奴だから、賢い奴よりたちが悪いの。現状では何も安心できない」


 そうして、私は手紙の作成に取り掛かった。

 私なりに皇太子の行動は先読みして対策を打っているけど、どうかなぁ。絶妙に下回ってくるんだよなぁ。とにかく、いつ何があっても良いように情報収集だけは欠かさずやっていこうと思うけど。


  ◇   ◇   ◇


 アーサーのまとめた資料を見て、私はうんうんと頷いていた。


「入浴の健康効果について……なるほどね」

「うん。僕も本当は観察期間を長く取るべきだと思ってたんだけど……短期間で劇的な効果があったからね。現段階でのデータでも、風呂屋の普及計画を進めるのに十分だと思ったんだよ」


 清潔に過ごすことは健康に良い、というのは経験則としては知られているけど、これまではちゃんとしたデータになかったんだよね。それが今回は、アーサーによる一ヶ月ほどの調査で、それがしっかり数字として現れる結果になった。


 調査対象にしたのは冒険者たちだ。

 毎日辺境の森で探索を続ける冒険者たちは、何かしらの健康被害を受けることも多い。だから、そんな冒険者を三百人ほど対象にして実験を行ったのだ。報酬としては、金銭の他に日々の食事を提供したから、彼らも喜んで協力してくれたようだ。


 冒険者たちは百人ずつ三グループに分かれてもらった。これまで通りの生活をする者、洗浄の魔道具を毎日使って身綺麗にする者、風呂に毎日入る者――そうして一ヶ月ほど観察を続ければ、その効果は数字として明確に現れていた。


「このグラフを見てほしい。グループごとの傷病者数を日毎に累計したものだけれど、洗浄の魔道具を使うだけでもガクンと病人が減るし、風呂に入る者はさらに大幅に健康になった」

「そうだね……こっちのグラフは?」

「被験者へのアンケート結果だよ。日々の疲労度を記録していったものだけど、風呂に入っているグループは極端に疲労度が低いことが分かる。疲れが軽くなるからこそ、探索にも集中できて、怪我人が少なく抑えられているんじゃないかな」


 なるほど、これだけデータがあれば、お父様を説得することもそう難しくはないだろう。


「ありがとう、アーサー。そうだなぁ。冒険者向けの大浴場を作って身綺麗になってもらおうかな。建設費は辺境伯家から出してもらうけど、維持費は研究所から出す」

「採算は取れそう?」

「冒険者が採取してくる魔法薬素材は、研究所にとっても生命線だからね。彼らの待遇改善に多少のお金をかけても利はあるよ」


 あとはそうだなぁ。浴場を作っても、それを冒険者が使ってくれないと意味がないからね。そこも工夫が必要かな。


「冒険者に入浴を義務付ける……のは違うよね」

「違うの?」

「うん。強制するようなやり方ではなくて、冒険者を起点に、最終的には領民みんなが自らお風呂に入りたがるような状態にしていきたいからさぁ。アーサーは何か案はある?」


 私がそう問いかければ、アーサーは少し悩んでからポツリと言った。


「そうだなぁ。スタンプカードとかかな」

「スタンプ? 何それ」

「あーいや、ただの思いつき。そんなに効果はないかもしれないけど。一度入浴をするごとに、カードにスタンプを一つずつ押してもらえるんだ。スタンプが溜まると何か特典がある――とか」


 え、何それ。すごく良いじゃん。


「それ、最高だと思うよ。スタンプが全部溜まったら……そうだなぁ。散髪無料、とかね」

「散髪?」

「冒険者は食べていくだけで精一杯の人がほとんどだから、髪も髭も爪も伸び放題で、他の市民からも不潔だって下に見られることが多いんだよ」


 だから、風呂に入って身綺麗にすると同時に、一定期間ごとに散髪屋の利用が無料になれば、彼らの衛生事情はかなり改善すると思うんだよね。

 それが評判になれば、他の地域にいる優秀な冒険者も呼び寄せられるかもしれないし。


「そうと決まれば、さっそくお父様を説得に行かなきゃ。アーサーも一緒に来られる?」

「もちろん。ブルーにも声をかけないと」

「そうだね。実験には騎士団も協力してくれたんだっけ。あ、冒険者向けの施設運営が軌道に乗ってきたら、次は騎士や領兵向けにも浴場を作ることになるかな」


 まぁ、そっちは辺境伯家の予算で運営するだろうから、私はノータッチだけどね。とにかくまずは、冒険者向けの銭湯をしっかり形にしないと。


 そうして、私はアーサーと一緒に浴場運営について細部を検討し始めた。

 異世界のお風呂文化はなかなか面白いからね。取り入れられるものはガンガン取り入れて、魔法薬とは違ったアプローチから、病気を減らしていければいいなと思う。

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