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 階段を上がって、右手。きしむ廊下の音も、ドアノブの形も、あの頃のまま。ゆっくりとドアを引いて、中に入る。あるはずのない美知香の匂いが鼻をくすぐる。左にベッド、右に学習机。机の上には、十年前とは違うモデルのパソコン。壁には、懐かしいポスター。美知香が好きだったバンドのやつ。

 私は目を閉じて、深く呼吸した。当時と違う部分もあるけど、総じて記憶どおり。ゆっくり目を開けると、並んでベッドに腰掛ける二人の小学生の姿。パソコンに向かいマウスを操作する中学生の美知香。空気を読まずに話しかける高校生の私。時間は一瞬で、永遠だ。誰もいないけれど、私たちがいる。

 床の上に段ボール箱が無造作に置かれていた。私はベッドに腰をおろし、箱を開いた。おそらく、美知香のアパートから送られてきたものの一部だろう。スケッチブックやクロッキー紙、ルーズリーフ等、様々な種類の用紙と、衣類が収められている。その一番上に置かれていたiPadを手に取り、起動させた。持ち主不在のそれは、何食わぬ顔でホーム画面を表示した。パスコードが設定されていないあたりが、持ち主の性格を端的に表している。

 ペイントアプリを起動して、アーカイブを開く。カラフルなイラストがサムネイルで表示される。そのうちの一つをタップする。小さかったイラストが、画面いっぱいに表示される。まるで画面から飛び出そうとするように。

 初めて美知香の絵を目にしたときのことを、思い出さずにはいられなかった。それは確かに美知香の絵だが、躍動感も色使いも、私の知るそれとはレベルが違った。縦横無尽に走る描線が、現実離れした色彩に溢れた世界を創造する。単なる一枚絵なのに、物語が見える。感情が伝わる。

 すべての絵には共通点があった。どれも鋭い目つきの女性であることと、絵のどこかに必ず目玉が描かれていること。美知香の絵を見るとき、美知香の絵もまたこちらを見ている、とでも言うように。

 Safariを開き、ブックマークの中からpixivを選ぶ。案の定、iPadに記憶されたパスワードでログインできた。幼少期から部屋にパソコンがある生活を送ると、セキュリティ対策の意識が欠落するのだろうか。

 アカウント名「Michi」のページが表示された。ペイントアプリにあった絵と同じものと、おそらくそれより以前のものが投稿されていた。女性と目玉というモチーフは同様に、これらの作品は成長の記録にもなっていた。最初の投稿は十年前。最新のものと比べるといくぶん拙くはあるが、すでに彼女の作家性は十分に発揮されているように見えた。何十枚も投稿されたイラストたちは、奇妙なことに、全て同じタイトルとそれぞれのナンバリングという形式で統一されていた。


《フロム・ミー・トゥー・ユー ♯1》


 一枚目の少女はベッドにもたれ、本を読んでいる。髪には目玉。コメント欄を見て、私は息を呑んだ。


《わたしの大切な人》


 二枚目は魔法使いのような出で立ちで、こちらに右の手のひらを向けている少女。左手には杖。水晶のあるべき所には目玉が収まっている。短く切り揃えられた前髪。高二の冬、短く切りすぎた前髪をかわいいと言ってもらえた記憶が呼び起こされる。

 三枚目も四枚目も同じ少女。どれも同じモチーフ。

 その少女は、私だった。美知香が選んだモチーフは、どれも私。私なんかを選んでくれていた。

 アカウントの所有者はすでに不在だけれど、コメント欄には彼女の存在がいまだ生き生きと残されていた。作品の説明というよりも、ほとんど日記に近い。


《実在のモデルはいます! が、本人の同意は得ていません(笑)もっとかわいくかっこよく描けるようになったら明かそうかと(汗)》


 目頭がにわかに熱くなる。何だよそれ。言ってよ。言ってくれれば同意したよ。もっと早く見せてもらいたかったよ。


《私には絵を描く力があるっていうことを教えてくれたのは彼女でした。私を仄暗い海の中から救い出してくれた人》

 

 小五の夏、美知香のキラキラした瞳を思い出す。私にとって美知香が特別な存在であったように、彼女にとっても私は特別な存在だったのだろうか。


《彼女は私にインスピレーションを与えてくれるんです。彼女と話していると、新しい物語が見えてくる。私はそれを絵にしているだけ。なんつって》


 日付を見ると、一年近く更新のない期間があった。大学一年の夏頃から。美知香と私の、最後の電話の日のあたりから。それでも、次に更新されたイラストは《フロム・ミー・トゥー・ユー ♯18》、水着ではしゃぐ少女。


《なんだよサークルの旅行って。リア充してんじゃねーよ(ようやく咀嚼できた)》


《フロム・ミー・トゥー・ユー ♯19》寂しそうに笑う少女。


《今ならわかる。私はまだちゃんとした答えを伝えていない。そりゃあ怒るよね》


《フロム・ミー・トゥー・ユー ♯20》誰かと電話をしている少女。


《次会ったら、ちゃんと伝えよう。私の気持ち》


 美知香の絵に雫が落ちる。慌てて袖で拭う。画面がスクロールされ、最後のイラストが表示される。

 見覚えのある絵だった。鋭い目つき。口元には笑み。エメラルドグリーンの髪。かっこいい振袖の少女。

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