4 霧宮凪「牛の呪縛」

 その晩、なぎはさっそく天国から地獄の急転直下を味わっていた。


 当初こそ、焼き肉から得た力で絶好調だった。目立たない結界を構築するために的確な道具を選び出し、調べて確認した敷地サイズに合わせて丁寧に調整を行った。その後、深夜の学校の周囲を忍び足で巡回。人目を盗みながら側溝や街灯の影など、死角となる場所に結界の要を隠していったのだが――

 その辺りから、がくん、と身体が重くなってきた。


 考えてみれば当然だった。いくら美味いものを食べようが、人間それだけで動いているわけではない。

 休息、凪にはとりわけ睡眠が不足していた。


「うう、目の前が霞む……」


 完全に昨日までの連勤が祟っていた。

 それでもなんとか広い学校の周囲を回り終え、空が白み始める頃には結界の仮設置を終えることはできた。


 しかし、最後の仕上げ――結界を起動するというところで、遂に体力が限界に達する。


「だ、だめだ。眠気で霊力が乱れる。結界を活性化できない……」


 しかも、結界が出来上がったとしても、仕事はそれで終わりではなかった。


 この結界は、構成物が石や葉など人目に付きにくい形であることを重視したため、密度はそれほど高くはない。そのため、たくさんの霊に張り付かれればすぐに破られてしまうだろう。つまり、そうなる前に凪が追い払わなくてはならなかった。


 しかし、まともに霊力も扱えない状態ではそれも難しい。


 ――い、一度寝よう。最低限朝までにやらなきゃいけないことはやったし、活性化も精度が戻ればすぐにできるはず。昼前くらいにタイマーを掛けておけば……。


 朦朧とする頭で考えながら、近くのコインパーキングに停めていた車までなんとか戻る。どうにか扉を開けると、這いずるように乗り込んだ。


 そして、シートに身を預けた次の瞬間――凪の意識はぷっつりと途絶えていた。



          ――――――――



「と、いうわけなんです……」


「なるほど。それでこんな時間まで寝ていたと」


 助手席に座る裁巳たつみは、事の顛末を聞いて不機嫌そうに息をついていた。

 

 あれから半日近くが経っている。つまり、既に放課後だ。


 深い眠りに落ちていた凪の意識を現実に引き戻したのは、断続的に響くノックの音だった。目を開けると窓の外には裁巳が立っていて、呆れたような怒ったような、そんな微妙な表情で寝ぼけた凪の顔を見つめていた。約束の時間になっても連絡がなかったので探しに来たのだそうだ。


 現在、苛立たしげな彼女を車に乗せて学校に戻っているところだった。


「まったく。一向に結界が完成しないので探しに来てみれば、まさか寝入っているとは。あまりに気持ちよさそうだったので、起こすか迷ってしまうほどでしたよ」


「ほ、本当に、面目次第もございません」


 いくら皮肉を言われても、寝坊した手前言い返すことができない。ただ平謝りするしかなかった。


「もうすぐに降霊会が始まりますが、準備は大丈夫なんですか?」


「う、うん。結界の敷設まではやったから、あとは活性化するだけ……のはず」


「それが夢だった、とかじゃなければいいですけど。降霊会は一時間程度とのことです。ちゃんと松阪牛分は働いてくださいよ?」


「はい、頑張ります……」


 朱くなり始めた日差しが視界に入り、寝起きの目に染みた。

 そもそも、焼き肉は札を焼いたことへの詫びだった気もしなくもないが――しかし、確かに結界も作り損なうようでは祓い人として恥ずかしい。ここからなんとか挽回しなくてはならない。


「それはそれとして、よくあたしのいる場所分かったね」


 裁巳には凪がどこに車を停めたか特に伝えていなかった。凪くらい霊力の探知に慣れていれば、学校の結界に残された痕跡を辿り、作り手を見つけることもできる。

 だが、裁巳はそういう細かいことが苦手だと思っていたので、それが少し意外だった。


「それは、この子があなたの匂いを覚えてましたから」


 裁巳はコートのポケットから何かを取り出し、ダッシュボードの上に置く。横目に見てみれば、それは小さな和傘のストラップだった。


 けれど、それはただの飾りではなかった。

 凪が目を向けた瞬間、突如としてその表面に目玉が浮き出てきたのだ。


「だめだよ、ナギおねえちゃん。ヘビのナワバリで昼寝なんてしたら、食べられちゃうよ?」


「うわあ!」


 ぎょろり蠢く蛇眼に驚き、ハンドルを握り損なった。なんとかすぐに立て直すが、突然の揺れに裁巳が顔をしかめてしまう。


「ちょっと。あなたまだ寝ぼけてるんですか?」


「ご、ごめん」


 凪はすぐに謝った。しかし、驚かせる方も悪いじゃないか、と少し思ってしまう。


 ――よりにもよって、じゃのめぼうずなんて……。


 いつもの青い蛇の目傘ではなかったので、凪もすっかり油断していた。


 しかし、じゃのめぼうずに案内させたのなら、凪の位置がすぐに分かったのも納得だった。あの蛇は、一度狙った獲物の匂いを絶対に忘れることはない。

 そして、凪はある事件のせいで既にマーキングされてしまっている。


 ――ああもう、最悪の眠気覚ましだよ。


 嫌な出来事を思い出しかけ、凪は頭を振った。

 しかし、天国のあとには大抵ひどい地獄が待っている。昨日松阪牛をたっぷり堪能した凪の苦難は、こんなものでは終わらなかった。


「丁度いいです。今日はこの傘、あなたが持っていなさい」


「へ?」


 それは学校の近くに到着したときだった。裁巳を降ろそうと車を停車させると、彼女が突然そんなことを言い出したのだ。


「既にわたくしの霊力をいくらか込めてあります。傘を開けば、五分くらいはじゃのめぼうずを出せるはずです。このサイズだと指一本らしいですが、その分瘴気も少ないですし、屋外ならば一般の方々にも影響はないでしょう。霊の対処に活用してください」


 当然、その提案は凪にとって青天の霹靂だった。


「いやいや、ちょっと待って! 全然いらないよ!」


 あの祟り神と一緒なんてとんでもないことだ。けれど、裁巳は詰め寄った凪の額に指を当て、有無を言わさず押し返してきた。


「分かりませんか? お寝坊さんだけでは不安だと言っているんです。それとも、以前のこと、まだ気にしているんですか?」


 一瞬、記憶の中にある蛇舌がフラッシュバックする。

 それを振り払うように、凪は首を大きく横に振った。


「まさか! あんなこと、祓い人やってれば日常茶飯事だし。全然平気!」


「そう。じゃあ問題ありませんね。よろしくお願いします」


 裁巳はそう言うと、ストラップをそのままに車を降りてぴしゃりと扉を閉める。そして、その背中はすぐに角を曲がって見えなくなってしまった。


「え、ええ……」


 凪は裁巳の消えた角を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 確かに、以前あった出来事は気にしてはいない。だが、一緒に行動するのも平気というわけではなかったのだが――その言葉を掛ける相手はもうどこにもいなかった。


「ううう、やっぱり最悪だ……!」


 凪は崩れるようにハンドルに突っ伏す。

 やはり、昨日は松阪牛に釣られず、速やかに家に帰っておくべきだったのだ。そんな思いが、今になってふつふつと湧き上がってきていた。


「えへへ。今日はよろしくね、ナギおねえちゃん」


 そんな凪の後悔を、傘は蛇の目を震わせて嗤っていた。

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