3 霧宮凪「罠」
襖で仕切られた個室に、肉の焼ける心地良い音が響く。
「特選の松阪牛です。ここのはサシはもちろん、赤身の質も良くて美味しいんですよ」
凪は、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
ここ数日、安いカップ麺で凌いできた胃袋が悲鳴を上げていた。ビールで流し込む脂の乗った焼き肉。その光景が脳裏に、いや、舌の上に浮かび、思わず飛びつきそうになる。
――い、いや、だめだ。騙されちゃいけない!
ぐっと我慢して首を振った。これは裁巳の罠なのだ。
香りにやられないよう少し息を止め、ここに至るまでの経緯を思い返した。
ここ最近、凪は連日の調査で疲労困憊していた。今週は都内のマンションに出没する怨霊の調査で連夜の徹夜。そのうえ、昨日は近隣の同業者との定例会議、さらには後輩からの協力要請と出ずっぱりだった。
そんな中、突如として裁巳から呼び出しを受けたのだ。
話があるとのことだったが、正直なところ断りたい気持ちでいっぱいだった。しかし、彼女がまた何かしでかすつもりなら様子を見ないわけにはいかない。凪はそう考えて、疲れきった体に鞭を打ち、指定された待ち合わせ場所にやって来たのだが――
そこがこの高級焼肉店だった。
「前に、あなたの札を焼いてしまったでしょう? そのお詫びとして、今日はわたくしの奢りで肉を焼いてあげます」
店先で目を白黒させていた凪に、裁巳は満面の笑みでそう言った。
確かに、以前そういうことがあった。しかし、だからと言って突然の奢り焼き肉はどう考えてもおかしい。凪が裁巳に札を焼かれたのは一度や二度ではなかったが、こんなことは初めてなのだ。下手に飛びつけば、後で痛い目を見ないとも限らない。そう心に刻んで店に入った。
しかし、こうして美しく焼かれた肉を前にすると、その意志がぐらぐらと揺いでいた。
「ねえ、裁巳さん。本当に今日は焼き肉を奢ってくれるためだけに呼んだんだよね?」
「もう。あなたさっきから何を疑っているんですか?」
念の為に尋ねると、裁巳はそう言ってくすくすと笑った。その返答に凪が安心して箸に手を伸ばしかけたとき、彼女は次の肉を並べながら続けた。
「松阪牛を奢るんですから、ちゃんと別の頼み事もあるに決まっているじゃないですか」
「ああもう、やっぱり」
凪は深く溜め息をついた。
仕事の話ならばクズレを通して言ってくるはずだ。だとすると、趣味としての幽霊狩りの話だろうか。それなら、すぐにでも逃げ出したいところではある。
しかし、今日の裁巳の策略は完璧だった。
息をつくために吸った空気でさえ、芳醇な肉の香りが染み込んでいて凪を椅子に縛り付けてきた。抗いがたい衝動に思考も混濁し始める。決めつけは良くない。話くらいは聞こう、と。
「と、とりあえず聞くだけ聞くけど……どんな頼みなの?」
「大したことではありませんよ。実はわたくしの通う学校に、妙な呪物が紛れ込んでしまいまして。その対処を少し手伝って欲しいだけです」
「呪物?」
「ええ、呪われた『ウィジャボード』です」
ウィジャボードとは降霊術の道具で、簡単に言えば海外版のこっくりさんを行うための文字盤だ。
焼けた肉を網から降ろし切ると、彼女はその経緯を語り始めた。
事の発端は、裁巳の親友が占い研究部から相談を受けたことだという。それは、文化祭の出し物用に『古くて本格的なウィジャボードを探してほしい』という頼みだった。どうも親友というのが貿易会社の社長の娘で、その伝手を当てにしてのことだったようだ。
親友は頼みを快諾し、父親にその話をした。けれど、そこで問題が起きた。娘からのお願いに気合の入った父親が、全力を挙げて本格的過ぎる物を手に入れてきてしまったのだ。
古いだけでなく、呪われ、しかも妙などくろ蝙蝠が取り憑いたウィジャボード。
それは今、学校の占い研究部の部室で保管されているという。
「頭蓋骨を被った蝙蝠……動物霊か」
「弱小な霊ですが、近くにいる幽霊を呼び寄せ、ウィジャボードへの回答を強いる呪いの一部として機能しているようです」
「うーん。無理やり回答者を呼び寄せるウィジャボードなんて霊障が起こる気しかしないよ」
凪の懸念に裁巳も頷く。
「現にわたくしが部室に来る前は、実際にプランシェットがひとりでに動いていたと言っていました。その場の誰も霊感を持たないのにです」
プランシェットとは、こっくりさんで言うところの十円玉に相当するものだ。使用者が手を当て、呼び出した霊に動かしてもらう。ただ、霊能力のない一般人が儀式をやったところで、普通は反応すらしないはずだ。
「それならもういつどんな形で霊障が出るか分からないよ。すぐに回収して、解呪に取り掛かった方が……」
そう口に出したところで、凪はやっと裁巳の考えが読めた。
「そっか。それであたしを呼んだんだね?」
「ええ。お察しの通り、わたくしそういう細々としたことはさっぱりなので」
裁巳は澄ました顔で肩を竦める。
彼女は神がかりと呼ばれるほどの強い霊力を持っているが、その弊害も少なくなかった。霊視が苦手なのはその最たる例で、他にも札などの道具を使った除霊術など、細やかなコントロールに難がある。以前練習に付き合った際には、貸した札を全部灰にされたこともあった。
――うう、あれもかなりの出費だったな。ほんと、霊力馬鹿なんだから。
耐久力のある高級霊具なら違うのかもしれないが、呪いがそんな融通を効かせてくれるはずもない。しかも、解呪というのは爆弾解除のようで危険が伴う作業だ。失敗して自分に影響が出るだけならマシな方で、周りを巻き込んで大惨事になることも少なくなかった。
「でも、あたしだって呪いの専門家ってわけじゃないんだよ?」
「そうは言っても、わたくしよりは扱いに慣れてるでしょう?」
「それはそうだけど……」
しかし、まだ呪いを直接確認したわけではない。万が一、凪の手に負えないようなら呪いの専門家に協力を求める必要だって出てくる。
「とりあえず、現物を見てみないことには何とも言えないよ」
「ええ。そう言うと思って、数日ウィジャボードを貸してもらえるよう交渉してあります。ただ……」
と、それまではきはきとしていた裁巳の声が、急に歯切れの悪いものになった。
「どうも次の降霊会が既に明日と決まっているらしくて、貸すのはそれ以降ということになってしまいました」
「えっ! 明日!?」
しかも、今度は文化祭の予行演習として、場の雰囲気作りはもちろん、調べてきた呪文なども唱えてより本格的な儀式として行うそうだ。例え付け焼き刃だとしても、そういう要素の積み重ねは心霊現象の後押しになりかねなかった。
「そ、それはまずいよ。さっきも言ったけど、もうどんなことが起きても不思議じゃない。無理にでも止めないと――」
「馬鹿を言わないでください」
ぴしゃりと言われ、思わず身を竦ませる。その隙に、裁巳は華麗な箸さばきで凪の前の皿から肉を一枚取り上げてしまった。
「あっ」
「心霊ごときが、わたくしの友人たちの楽しみを奪っていいはずがありません。この件はみなさんに気づかれることなく、穏便に解決する必要があります」
肉をさっとタレに潜らせ、上品に口へと運ぶ。
その光景に凪は「あたしの肉!」と叫びそうになるのを何とか堪えた。裁巳が日常生活と心霊を切り離しているのは知っていたが、凪だって安全を考えての進言だった。それにこの仕打ちはひどい。というかずるい。
「うう。じゃあ今から学校に忍び込むくらいしかないよ。短時間じゃ解呪は難しいだろうけど、一時的な封印くらいならなんとか」
「……まったく。うちの高校は田舎の学校じゃないんですよ?」
裁巳は紙ナプキンで口元を拭うと、今度は呆れたような声色で返してくる。
「あなたが外壁を登り切る前に、警備の方々に取り囲まれるに決まってます。そのあとは速やかに警察に引き渡され、夜にはニュースで顔が出てるでしょうね」
「あぁ、通ってるのって超お嬢様学校なんだっけ……」
その田舎の学校に通っていた凪としては、どうにも想像しにくい光景だった。
だが、心霊に関わりがあることを除けば裁巳は生粋のお嬢様だ。その彼女が言うのなら、本当に厳しい警備体制が敷かれているのだろう。
「でも、それじゃあどうするの?」
そう尋ねると、裁巳は考え込むように網の上を見つめた。
「明日の降霊会ですが、やはりいまさら止めることはできません。なので、わたくしも参加させてもらって万一の事態に備えようと思っています」
ただし、人目が近いのでいつものように対処ができるわけではなく、瘴気を発するじゃのめぼうずに任せることも言語道断、とのことだった。
そこで凪の出番というわけらしい。
「凪さんには学校の周囲を結界で固めて、降霊会のときに外から霊が呼び寄せられるのを防いでほしいのです。ただ、警備の目は敷地の周囲にも向けられていますから。なるべく目立たないように」
「うーん、難しいこと言うなあ」
確かにこういう仕事をしていると、人目を憚って行動することは多々ある。だが、怪盗のように警備を掻い潜る技術があるわけではなかった。捕まったらニュース行きと言うなら、結構な覚悟が必要だ。
「もしものことは安心してください。念の為、これを用意してあります」
「え?」
差し出された物を何となく受け取り――凪は仰天した。
それは社員証だった。免許証のようなカードで、知らない会社の社名と凪の氏名が書かれている。役職の欄には『
「な、何これ……」
「うちで契約している特別な派遣会社の社員証です。もし怪しまれても、関係者だと言ってこれを見せれば大丈夫でしょう。ただ、折桜家の立場もありますから、万が一の保険と考えてください」
「いやいや! そうじゃなくて、こんなの作った覚えないんだけど! しかもこれあたしの運転免許証の写真だよね!」
凪は咄嗟に脇に置いていた鞄を漁った。財布を開けると、すぐに免許証が出てくる。それにはほっとしたが、ならば裁巳はどうやって写真を複製したのだろうか?
「い、一体どうやって作ったの?」
「いえ、少し頼んだら作ってくれました」
「え……?」
「だから、頼んだら作ってくれたんです」
誰が? いつ? どうやって? 凪が訪ねても裁巳は一切答えず「頼んだら作ってくれました」以外何も言わなかった。
「あとは食べながら考えてください。ほら、焼き肉は熱いうちが一番美味しいですから」
そうして、彼女は網の上にまた肉を並べ始める。
その張り付いたような笑みに背筋が冷たくなった。このことはもう触れない方がいいかもしれないと直感的に思う。
――しゃ、社員証のことは置いておくにしても……ウィジャボードの方は、普通に呪いに巻き込まれた友達を救いたいって話しだよね。
そこは当初考えていたひどいことの手伝いなどではなかった。
人と迷える魂の両方を救うのが凪の目指す祓い人の姿だ。それなら多少連勤で疲れていようと、身を粉にして働くのが正しい判断なのかもしれない。
なぜだかお腹が鳴る度に、そんな思いが強くなっていた。
――でもこれ裁巳さんの罠じゃなかったっけ……。
「あら、まだ全然食べてないじゃないですか」
思考が遮られる。
ふと見れば、裁巳がまた焼けた肉を取り分けてくれていた。程よく色づいたカルビが綺麗に盛られ、凪の目の前に置かれる。その瞬間、甘さと香ばさが混じり合った芳醇な香りが鼻腔を駆け抜けていった。
「もしかして焼き肉は嫌いでしたか? でしたら、この肉はわたくしが責任を持って――」
「ううん、大好き! いただきます!」
凪は考えるのを止めた。
欲望のままに箸を伸ばし、脂の滴る肉を口の中に放り込む。噛みしめると程よい弾力とやわらかさ、それから融けるような旨味が口の中に溢れ出してきた。
――お、おいしい! おいしすぎるよ……!
思わず頬が緩み涙さえこぼれる。稀に食べる食べ放題の物とはまるで違った。天国の食べ物だ。
「良かったです。たくさんありますから、明日の降霊会に備えてどんどん食べてくださいね」
凪は肉を頬張りながら頷いていた。何やら既成事実にされてしまっている気もしたが、松阪牛の前では些細なことだった。
「焼き肉最高っ!」
そうして、また脂の滴る肉を頬張り冷えたビールを流し込む。
この時の凪は、間違いなくここ最近で一番幸せだった。
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