6 霧宮凪「祝詞」
暗いトンネルの中間あたりまで来ると、
小さな懐中電灯の細い光に照らし出される瓦礫の数々。幽霊たちは、その影に隠れて身を寄せ合っていた。青白く、生気のない老若男女様々な者たち――中にはあの頭の大きな女将の姿もあったが、彼らは凪に気づいても動こうとはしなかった。
――もう怖がらせにくる気はないみたい。あの大男が離れたから……って言うより、裁巳さんのせいかな。
支配者だったはずの頭陀袋の怨霊を、まるで玩具のようにいたぶる別の脅威が現れたのだ。困惑するのも無理はない。
しかし、だからこそ凪が入り込める余地があると言えた。
「みなさん、大丈夫ですか?」
凪はゆっくりとライトを下げ、できるだけ優しい声色で語りかける。すると、女将の霊が一歩前に出てきた。
「先日のお客様。も、申し訳ありませんが、旦那様は取り込み中でして。ああ、お部屋のご用意が……」
大きな頭が不安げに揺れる。まだ意識の混乱が解け切っていないのかと思ったが、落ち着いて観察してみればそうではないことが分かった。
彼らは自ら幻想にすがりついていた。
受け入れられないのは、もっと根本的な自分たちの状態――つまり、死んだという事実なのだ。
――そうか。現実逃避する幽霊たちだからこそ、そこまで力のないあの怨霊にも操れたんだ。
それは珍しいことではなかった。死を受け入れられない幽霊は多く、その逃げ場として僅かに残った生前の記憶は優秀だ。しかし、それに縋るのは未練を深めることも繋がってしまう。
「ありがとうございます、女将さん」
深く息を吐き、凪は静かに女将に向き合う。
「でも、もう部屋の用意は必要ありません」
「え? いえいえ、せっかくお越しくださったお客様を追い返すわけには――」
「よく聞いてください。ここはあなたの旅館ではありません。務めている会社でも、通っている学校でもない」
その場にいる霊たちの顔を見渡しながら、ゆっくりと告げる。
「ただの工事中のトンネルなんです。そして、みなさんも、もう生きてはいない。死んで、魂だけがさまよっている……幽霊なんです」
一瞬の静寂の後、悲鳴や否定の声が響き渡った。
「な、何を言っているんだ!」
サラリーマン風の男性の幽霊が前に出てきた。その手足は歪に折れ曲がっていたが、怒りに満ちた表情ははっきりしていた。
「俺は生きている! それより、次の電車に……電車に乗り遅れれば、クビになってしまうんだ……」
男性は虚空に向かって必死に何かを掴もうとする。記憶の中にある電車のつり革に掴まろうとしているかのようだった。
「そうよ! 私は生きている!」
別の女性の幽霊も叫ぶ。彼女の腕には血の滴る無数の傷跡があった。
「生きていなければ……こんなに痛いはずがない!」
涙ながらの言葉に、凪は胸が締め付けられる思いだった。彼らの苦しみが痛いほど伝わってくる。
「確かに受け入れるのは辛いことかもしれません。でも、このままではいつまでも苦しみ続けることになってしまいます。今がそこから抜け出すチャンスなんです」
ギャアアア――。
そのとき、トンネルの外から悲鳴が響いてきた。頭陀袋の怨霊の声だ。蛇の目姫が『遊んでいる』音が不気味に響く。
幽霊たちは一斉にその方向を向き、震え始めた。
「え、ええと、あなたたちを縛ってきた悪い怨霊は、今別の祓い人に対処されています。もう自由なんです」
「自由……」
女将の幽霊の呟きに凪は頷いてみせる。
「はい。でも、このままここに留まればあまり良いことにはならないでしょう。もうひとりの祓い人は、その、あまり穏やかな人ではないので」
その言葉のあとに再び悲鳴が響く。皮肉なことだが、それが凪の言葉の説得力を高めてくれていた。
「じゃ、じゃあどうしたら……」
「できれば成仏してほしいけど……でも、心が決まらないならここを離れてください」
それは問題の先送り。しかし、強要することもできなかった。彼らの心を蔑ろにしたくはなかったし、何より『成仏』に導くにはすべての未練を棄て去れなくてはならない。だが、外の状況を考えるとそれを手助けする時間は残されていなかった。
だから、苦肉の策だ。
「少なくとも、一点に留まり続けるよりは魂にもいいはずです。でも、いつかは向き合わなきゃいけない時が来ることも覚えておいてください」
「…………」
辺りに沈黙が漂う。しばらくして、何人かの幽霊が前に出てきた。
「俺は……まだ納得できていない。死んでるはずがないんだ」
その中のひとりであるスーツ姿の男性が言った。
「でも、ここに留まるのも怖い……」
「分かりました」
その答えに、凪は優しく微笑んでみせた。
「では、新しい場所で自分の心と向き合ってみてください。でも、今度は人に手を出したり、変な奴に捕まらないよう気をつけてくださいね」
男性は頷き、先程の自分を傷つける女や他の霊たちと共に反対側の出口へと向かっていった。彼らの背中を見送りながら、凪は心の中で祈りを捧げる。
――いつか、あなたたちも安らかな日を迎えられますように。
そうしていると、残っていた幽霊たちの中から女将の幽霊がおずおずと出てきた。
「私どもは……もう十分かもしれません。旅館も、お客様も、もういなかったのだから。成仏……すべてを忘れて消え去ってしまった方がいいんでしょうね」
彼女の声は震えて弱々しい。
だから、凪は全力で首を横に振った。
「それは違います」
「え?」
「成仏というのは、消え去ることではありません。終わりではなく、新しい旅立ちなんです。あなたたちが過ごしてきた人生はその礎となり、決して無駄にはなりません」
「……そう、ですか」
幽霊たちがその言葉を信じたかどうか、それは凪にも分からない。けれど、少しだけその表情が安らいだように見えた。
「……分かりました。では、旅立つにはどうしたら良いですか?」
「今からあたしが『送りの祝詞』を詠みます。みなさんは、ただ心を落ち着け、聞いていてください」
幽霊たちは静かに頷く。
凪はそれを確認してから、目を閉じ、両手を合わせて深い呼吸を繰り返した。そして、心がしっかり整ったのを感じてから――ゆっくりと胸に刻まれているその言葉を詠み上げる。
高天原に神留座す
清めの大神、八百万神の御前に
謹んで奏上奉り申す
かくの如く荒ぶる霊よ
その憂い、その名残を鎮め給え
我、此処にて
心を清め、言霊を以て
汝が残しし未練、穢れを今浄めん
天津神地祇の威光を借りて
清き流れの如く
安らぎの彼岸へ導かん
汝が纏いし縁、未練、穢れ
今ここに祓え給い清め給え
八百万神等を神集えに集え給い
神議りに議り給いて
祓え給い清め給えと奏上す
これによりて、この世の憂いより
永劫に解き放たれんことを
恐み恐みも白す
祝詞を詠み終えた凪は、ゆっくりと目を開いた。
目の前には、暗いトンネルがずっと続いているだけだった。頭の大きな女将の霊も、他の幽霊たちも、もうどこにもいない。ただ、微かな霊気の残滓が残るばかり――
ありがとう――。
風の音に混じってそう聞こえた気がした。けれど、それは凪の願望を映した空耳だろう。
「みんな、おやすみなさい」
それでも、彼らが最後に見せた柔らかな笑みは、凪の心の中にしっかりと焼き付いていた。
――――――――
トンネルの外に出ると、雨は嘘のように上がっており上空には澄んだ星空が広がっていた。ただ、目線を下に向ければ、工事現場の真ん中に凪の予想していた通りの光景があった。
「まったく、全然口を割りませんね……ほら、いきますよ」
道路脇にある街灯に照らされながら、裁巳は何やら手で宙を掻くような仕草をしている。
すると、どこかから弾んできた大きな黒いボールが、空中で何かに打ち出さたように跳ね返った。弾んでいった先には傘から伸びる白い腕が待っていて、そのボールを叩いてまた跳ね返す。彼女たちはそんなことを何度も繰り返していた。
その黒いボールに見える物が、あの頭陀袋の怨霊であることは確認するまでもないことだ。
「裁巳さん、もうその辺にしてあげてよ……」
「あら、凪さん。ずいぶん遅かったですね」
気づいた裁巳が凪の方に振り返る。と、打ち返されなかった怨霊が凪の近くに落ちて転がった。
「…………」
大の字に倒れた怨霊は、もはや呻くことすらできないようだった。頭に被っている頭陀袋は破れ、白目を向いた顔の一部が露出してしまっている。霧散してはいないので二度目の死を迎えてはいないようだが、意識はなさそうだった。
「残念ながらこちらはハズレでした」
裁巳はそんな怨霊には目もくれず、腕が伸びる傘を肩に掛けたまま凪の方へと歩いてくる。
「意外と錯乱がひどいようで、親玉など知らないの一点張りでしたよ。それで、そちらはどうでしたか?」
「あーうん。それなんだけど――」
凪はなるべく刺激しないよう、慎重に言葉を選びながら真実を話した。けれど、それは空中に投げ出された人が必死に手を伸ばすような、無駄な努力だったかもしれない。
話し始めてすぐに裁巳の輝いていた瞳がすっと細められ、みるみるうちに凍りついていった。その冷え切った視線に今日一番の怖気が走る。怨霊よりも怖いのはいかがなものか、と凪は話しながら心の中で抗議した。
「と、いうわけなんです」
「…………」
「あっ、ええと! 本当はもっと早く伝えたかったんだけど、裁巳さん、すっかり熱中してて、聞こえてないみたいで……」
凪が慌てて取り繕っても裁巳は何も言わなかった。
代わりに、突然片手を持ち上げたかと思うと、人差し指を丸めてぴんっと弾く仕草をした。いわゆるデコピンだ。すると、傘から伸びる白い腕もまた同じ動作をする。転がっていたあの頭陀袋に向けて。
「――っ」
やはり意識がなかったようで、指に弾き飛ばされても怨霊は声ひとつ上げなかった。何度かアスファルトの上を弾み、そのままトンネルの中へと消えていく。
「ちょ、ちょっと裁巳さん!」
「いいでしょう。情報伝達に関して、わたくしにも落ち度があったことは認めます」
裁巳は凪の抗議を無視してそう呟くと、やや荒々しく蛇の目傘を閉じた。伸びていた腕が霧のように消えるのも待たず、彼女はそのまま踵を返す。
「まあ、懐かしい思い出に浸れたので、今日はそれで良しとしておきましょう」
「ええと、あの怨霊はもういいの?」
「あんな雑――どこにでもいるような霊にこれ以上手間を掛けたくありません。時間の無駄です」
裁巳は凪の方に振り返ることなく手を振り、歩いていってしまう。
――譲ってくれてる、なんてことはないか。あの子のことだから、本当にもう興味がないだけなんだろうな。
それでも、【
「ありがとう、裁巳さん!」
その背に呼び掛けるが、彼女は反応を示すことなく車に乗り込む。
今はそれでもいいと思った。
それよりも、あの状態では怨霊も長くは保たない。祓い人としての仕事を全うすべく、凪は最後の魂の元へと走り出すのだった。
――――――――
これ以降、佐盛トンネルで心霊現象が起こることはなくなった。お祓いが済んだとの話を聞いて、小川を含む作業員たちも戻ってきた、と凪は少しあとになって聞いた。
工事は速やかに再開され、来年の夏頃までには完了する見込みだという。
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