3 霧宮凪「澱攫い」

 翌日の午後――


 空がオレンジ色に変わる頃、なぎは都心の雑踏から一歩外れた細道を歩いていた。ひび割れた石畳を歩いていくと、次第に大通りの喧騒が遠のき、ビルの隙間を抜ける風の音が大きくなる。

 そんな静けさの中を凪は迷いなく進んでいくが、その足取りは決して軽いものではなかった。


 ――はあ。昨日は本当に散々だった……。


 結局あのあと、車に戻るために再びトンネルを通る羽目になったのだ。もちろん、幽霊たちには散々追いかけ回され、おかげで今も足の裏がぱんぱんだった。

 けれど、まだ休むわけにはいかない。


 目的の雑居ビルが見えてくると、木製の扉とその上に掲げられた看板が目に入った。ただ、看板と言っても店名などは書かれていない。何かを掬う『手』の絵が描かれているだけの簡素な板切れだ。それ以外その場所の存在を示す物は何もなく、知らない者からすればそこに何があるかまったく分からないだろう。

 ただ、凪にとっては馴染のある場所なので、気後れすることなく扉に手を掛ける。


 音を立てて扉が開くと、奥には柔らかな照明に包まれた空間が広がっていた。深みのある木目の美しいカウンターやモダンなペンダントライト。壁には妖怪の描かれた掛け軸が飾られていて、それが少しこの場所の中で浮いていた。


 一風変わった隠れ家系のバー。

 しかし、こう見えてここは【澱攫おりさらい】の活動拠点のひとつだった。


 表向きは普通のバーとして営業しているが、依頼人との面会や祓い人たちの集まりの場としての顔も持っている。

 凪は今日ここで昨日の報告をすることになっていた。


「ごめんください。クズレさん、霧宮です」


 凪が声をかけると、カウンターの奥から男性が現れる。

 少し白髪の混じったオールバックの髪に、かっちりした黒いベストにネクタイ。洗練されたバーテンダーの装いに身を包んだ男は、凪の顔を見て深い皺の刻まれた目尻を緩めた。


「やあ、凪くん。ご苦労さま」


 穏やかな声で男性――石葉クズレが答える。

 彼は【澱攫い】のまとめ役であり、店のオーナーでもあるベテランの祓い人だ。依頼の管理も彼の仕事であり、今回の凪の仕事も彼から割り振られたものだった。


「佐盛トンネルの件だね」


「はい、これが調査報告です」


 凪はカウンター席に腰掛け、鞄から取り出したファイルをクズレの前に置いた。彼は頷くと、資料はそのままにグラスに水を注ぎ始めた。


「相変わらず仕事が早いね。さすがは筆頭調査員だ」


「いえ、あたしの力というよりは、みんなが清めてくれた塩と札のおかげです」


「いやいや、謙遜しないで」


 凪の言葉にクズレは微笑みながらコースターを用意し、グラスを置く。


「普通、青札を貼る場所を選定するだけでも数日かかるものだよ。幽霊に邪魔されながらならもっとね」


 それはそうかもしれないが、面と向かって言われるとどうにも気恥ずかしかった。

 凪は頬を掻きながらグラスの水を口に含む。レモンの果汁が入っているようで、微かな酸味が爽やかだった。


「とりあえず、先に結果を報告しちゃいますね」


 そうして、昨日の出来事を説明し始めた。

 人を怖がらせるための心霊現象、トンネル内での体験、幽霊たちの様子――そして、中心となる怨霊の存在について。霊視の結果と所感も簡潔にまとめていく。


「なるほどね。凪くんの分析では、この怨霊は地縛霊ではなく浮遊霊であり、力もそれほど強くはないと」


 報告を聞き終えたクズレが、ファイルを捲りながら静かに呟いた。


「はい。怨霊は普段気配を隠していますが、場所さえ把握できればうちの祓い人なら十分対処できると思います」


 凪の見解にクズレは少し安堵の表情を浮かべた。

 彼は資料をカウンターの下に仕舞うと、グラスをひとつ手に取り、小気味よく拭き始める。


「よく調べてくれたね。これだけ情報があれば、除霊役の祓い人も安全に事を進められるよ」


 祓いの分業がされている【澱攫い】では、このあとのことは『除霊役』という霊との直接対峙に長けた専門家が行う。対して、凪のような調査員は『霊視役』と呼ばれており、その仕事はここまでだった。


「調査、お疲れ様でした」


「はい。ありがとうございます!」


 クズレの言葉に、凪は大きく頷く。心の中では、これで無事に任務を終えられると安堵していた。


「じゃあ、さっそく除霊役の手配しておくよ。確か、今はみんな依頼で埋まってたからはずだから、一週間後くらいを目処に――」


 その時、バーの入り口から扉の開く音がした。冷たい風が一瞬だけ流れ込んできて、凪の首筋を撫でる。


「こんにちは」


 その声に凪は反射的に振り返った。

 そこにいたのはひとりの少女だった。長く艷やかな黒髪、線の細い整った顔立ち、そしてコートと共に抱えるようにして持った青い和傘。都内でもあまり見かけない英国風の制服に身を包んだその姿は、このバーの中にあってもあまりに華やかだった。


「た、裁巳さん……」


 凪の呟きに折桜おりざくら裁巳たつみは微笑みを浮かべた。


「こんにちは、凪さん。ここで会うなんて奇遇ですね」


 裁巳はそのまま凪の隣にやって来て腰掛けた。荷物を仕舞う動作ひとつひとつにも品があり、凪にはない生まれながらの高潔さが感じられる。それはそのはずで、彼女は富豪の娘。社長令嬢のお嬢様だった。

 ただ、その裏の顔は神がかりの『蛇の目姫』と称される強力かつ冷酷な幽霊狩りだ。


 凪はよく彼女の祓いを手伝う――と言うより、素行を監視することがあり、浅からぬ縁があった。

 けれど、今日の遭遇は完全に予定外だ。


「きょ、今日はどうしてここに?」


「いえ、放課後友達と服を見に行く予定が流れてしまったので、楽しめる獲物――ではなく、興味深い依頼や幽霊の情報が入ってないかと思いまして。散歩がてら寄らせてもらったんです」


 そう言って裁巳はクズレに紅茶をリクエストした。

 彼は頷き、道具を用意して紅茶を淹れ始める。その手つきには長い経験が滲み出ていた。一応、クズレは祓い人としての裁巳の師匠でもある。


「それでクズレ。何かいいお話はありませんか? できればすぐに見に行けるものが良いのですけど」


「うーん。裁巳くんが満足しそうな依頼は今は……」


「目撃談でも構いませんよ」


 クズレは黙って首を振る。すると、裁巳は頬を小さく膨らませた。


「もう。最近ずっとこんな調子じゃありませんか。ここに来て得られるのは美味しい紅茶ばかりです」


 そうして不機嫌そうに足を組むと、お湯の注がれるポットを睨みつける。


 彼女のここでの立場は少々複雑で、正式な祓い人ではなく【澱攫い】に協力する『外部の協力者』ということになっていた。

 その目的は、凪たちと共に成仏できない魂を助けるため――などということはなく、単に珍しい幽霊の情報が得られるからだった。奇妙で奇っ怪な幽霊を集めることが彼女の趣味なのだ。


 しかし、いくら除霊依頼の集まる【澱攫い】と言えど、そういう情報が常にあるわけではない。このままではまた面倒なことになりそうだ、と凪は小さくため息をついてグラスを呷った。


 と、そこでクズレと目が合う。

 苦笑いを浮かべる彼の表情を見て、何が言いたいのかすぐに分かった。


 ――まあ、確かに裁巳さんにやってもらえれば早いけど……。


 最強格の霊能者が手隙で、調査が済みであとは祓うだけの除霊依頼がある。おまけに、お目付け役である凪もちょうど空いたところだ。

 凪としても、トンネルの件は早急に解決したいという思いもある。


 そうして様々な要素を考慮した結果――凪はしぶしぶとだが頷くことにした。

 それに対して、クズレは片手で軽く拝むような仕草を見せてから、不機嫌そうな裁巳へと向き直る。


「一応、派手じゃないけれど除霊の依頼ならあるんだ。ちょうど調査が済んで、あとは祓うだけのやつが。凪くんが担当してるから、彼女にも付いてもらうけど……それでよければ、すぐに回すことができるよ」


「まあ。それならそうと早く言ってくださいよ」


 それを聞いた裁巳は途端に表情を明るくする。そして「もちろんその依頼、謹んで受けさせていただきます」と言って凪に微笑みかけてきた。


「…………」


 けれど凪は、その細まった目の奥に獲物を狙う狩人のきらめきを感じ取っていた。下手をすれば、ただ幽霊を祓うだけでは済まないかもしれない。


 ――調査が済んですぐなのに、また大変な仕事を引き受けてしまった……。


 何度目かのため息をつきつつ、凪はグラスを手に取る。けれど、いつの間にか中身は空になっていて、冷ややかな結露が指先を濡らすだけだった。

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