2 霧宮凪「まぼろしの中」

 ペンライトの明かりがひび割れた壁面を照らし出していく。

 トンネル内部の車道の脇には、資材や瓦礫が無造作に放置されており、工事現場というよりは廃墟に近い印象だった。入口からの光があっても薄暗く、またじめじめしていて幽霊が人を驚かすには絶好の場所と言えた。


「うう。早く済ましちゃおう」


 そんな寂れたトンネルの中で、なぎは時折立ち止まっては壁に青い札を貼っていた。

 これは霊視を補助するための特殊な札だった。

 結界の一種で、適切に張り巡らせれば霊視の範囲と精度を飛躍的に向上させることができる。防護の赤札と同様中々に値が張る代物だったが、前回の反省から持参してきていた。


「ふう。これで半分くらいかな」


 また一枚札を貼って凪は背後を振り返る。そこには薄暗いトンネルの道が続いており、入り口に見える光はかなり小さくなっていた。


 そこでふと、古いトンネル特有の苔臭いじめっとした風が頬を撫でる。


 くすくす――。


 その風に乗って、かすかな笑い声が聞こえた気がした。


「だ、誰かいるの?」


 声を掛けても返事はない。

 ただ、凪は壁の奥にうごめく存在を感じ取っていた。無数の幽霊たちが、じっとこちらの様子を窺っているようだった。


「す、すみません。よければ、少しお話を訊かせてくれませんか?」


 当事者たちから話を聞ければ早い。それに上手くいけば、人をおどかすのを止めるように説得できるかもしれない。

 そう考えた凪が、虚空に向かって呼びかけていると――


「お客様、お呼びになりましたか?」


 耳元で声がして、心臓が跳ね上がる。


 振り返れば、そこには和服姿の中年女性が立っていた。

 ただ、その頭部は異様に大きく、まるで玩具の首振り人形のようだった。目も黒い穴が空いているだけで眼球がなく、あまりに生きている人間の姿とかけ離れている。


 ――ひうっ! こ、こんなんだから人を怖がらせにくる幽霊たちは苦手なんだ!


 こうした恐ろしい見た目は、人をおどかすことを目的とする幽霊たちに見られる典型的な特徴だった。死者たちの姿形の変化は、魂の劣化だけでなく、持っている未練や目的にも応じて少しずつ変化していく。


 ――でも、この人がここで生き埋めになった幽霊……なのかな?


 呼吸を整えながら考えて、すぐにそれは妙だと気づく。

 人を怖がらせるためとはいえ、作業員の幽霊がこんなきっちりと和服を着た姿になるだろうか。しかも、凪のことを『お客様』と呼んでいた。作業員がそう呼ぶ相手を凪はすぐに想像できなかった。


 ただ、そんな違和感の元は、幽霊自身がすぐに教えてくれた。


「当旅館の女将です。どうぞ、ごゆるりとお過ごしください」


「りょ、旅館? 女将?」


「ええ。当館の歴史は古く、お客さまが生まれるよりも前に……」


 女性の幽霊は言葉を途切れさせると、突然不気味な笑みを浮かべる。そして、その大きな頭をけたけたと揺らし始めた。


「あははあはあ、建て替えには反対です。この旅館は、このままの姿でなければ」


 凪は困惑した。

 どうやら作業員の霊ではないらしいが、ここはトンネルであって旅館ではない。調べてきた限りでは、近くにそういった施設があったこともなかったはずだ。


 けれど、この幽霊には別の光景が見えているようだった。


「あの、ここは旅館じゃありません。あなたは一体どこから――」


「おい、そこの奴!」


 しかし、質問は突然遮られる。

 振り返って見上げると、ミイラのような老人の幽霊が天井に張り付き、怒りに満ちた表情で睨みつけてきていた。


「ダム建設は反対だ! 測量をやめろ!」


 老人の霊は怒声を上げる。

 しかし、この霊が言っていることも同じだった。周辺にダムなど計画されたこともない。


「ち、違います! あたしは祓い人で――」


「黙れ! ダム反対!」


 老人の幽霊は問答無用に飛びかかってくる。凪は咄嗟に身をかわして地面を転がった。


「待って! あたしは話をしに来ただけだよ!」


 けれど、いくら言っても彼らの耳には届かなかった。

 旅館の女将、ダム建設の反対派の他にも、電車が遅れればクビになると叫ぶ会社員風の男。泣きながら自分にナイフを突き立て続ける女など。様々な幽霊たちが姿を現し、凪のことを取り囲んでいく。


 ――おかしい。みんな地縛霊並に未練は強いけど、作業員どころかこのトンネルと関係のない人たちばっかりだ。未練の理由もてんでばらばらだし、とてもここで地縛霊になるような人たちじゃない!


 そのとき、女将の霊の巨大な頭が跳ねるように飛び掛かってきた。


「お客様、お部屋にお戻り下さいいいぃい!」


「ああ、もう! こんなじめっとした場所に泊まれるわけないでしょ!」


 凪は素早くポケットから和紙の包みを取り出すと、その顔に勢いよく投げつける。

 次の瞬間、包みは強い光を発して一気に燃え上がった。

 女将の頭は悲鳴を上げてのたうち、後退していく。


 ――よし! やっぱりお祓いに塩は欠かせないね。


 包みに入っていたのは清められた塩だった。除霊効果はそれほど高くはないが、目くらましには十分だ。


「でも説得は無理っぽいや! お邪魔しましたぁ!」


 凪は叫ぶと、包囲に空いた穴から一気に抜け出した。

 こうなったら予定通りに青札の結界を完成させるしかない。

 迫りくる幽霊たちをかわし、時には塩の包みで牽制しながら、凪は札を貼りつつトンネルを駆け抜けた。


「お客様、おまちくださいぃいいい!」


 その間、凪は旅館の客、ダムの建設業者、嫌な上司、または浮気相手として、幽霊勝手な要求や恨みを押し付けられていく。


 ――謂れのない誹謗中傷を受けてる気分だよ、まったく!


 そうして追いかけながら進んでいくうちに、遠くに見えていた光が大きくなってくる。

 トンネルの出口だ。


「あそこまで行けば……!」


 凪は最後の札を壁に貼ると、残りの力を振り絞って走った。すると、背後から亡者たちの叫び声が一層強く響いてくる。


「逃がすものかぁっ!」「お客様、どこへ行くのおお!」「一緒に死んでよぉおお!」


 凪は振り返らず、ただひたすら出口を目指した。

 そして、


「はあ、はあ……」


 視界が一気に開け、広がった陽の光に目が眩む。

 そのまま少し走ってから凪はようやく足を止めた。すぐに振り返って構えを取るが、幽霊たちはトンネルの暗がりからもどかしげに手を伸ばしているだけだった。それもそのうち影に溶け込むように消えてしまう。


 ――何とかなった、かな。


 しかし、調査としてはここからが本番だった。

 幽霊たちが青札を異物として排除しないとも限らないので、迅速に行動する必要がある。

 呼吸が落ち着くと、凪はすぐに手で印を結んで目を閉じた。


「蒼き光差し込みて 幽かなるものの姿 おぼろげに揺らぎ立ち昇らん 其の形を顕わせ」


 それから、呪言を唱えると同時に一気に印へと霊力を巡らせる。

 すると、貼ってきた青い札と見えない線で繋がる感触があり、トンネル全体の霊的な状況が頭の中に浮かび上がってきた。


 まず視えたのは、先程の幽霊たち。トンネルからは出てこないようだが、未だに混乱と敵意が混じり合った感情が読み取れる。そんな霊が広く分布していたが、凪が引っかかりを覚えたのはトンネルの中心部分だった。


「……いた!」


 捉えたのは、天井のさらに奥――そこにひとつの邪悪な気配があった。ただ、それは単なる集団を束ねる存在、というわけではなさそうだった。


「中心の霊から他の霊たちへ妙な影響力が広がってる。こいつがみんなの認識を狂わせてるんだ」


 感じられる悪意からも、これが今回の騒動を引き起こしている怨霊と見て間違いなさそうだ。

 ただ、今は休眠状態にあるのか気配自体はかなり小さかった。もしかしたら、見つからないように隠れているつもりなのかもしれない。


 ――やっぱり青札を持ってきて良かった。幽霊たちに追われながらじゃ、こんなうっすらとした気配見つけられなかったよ。


 札の結界はさらにその欲望をも暴き出していく。

 他者を操ることへの執着――おそらく、幽霊たちに訪れる人間たちを驚かすよう仕向け、あとから溢れ出た霊力を掠め取る。そんな算段なのだろう。


「本当にずる賢いヤツだなぁ……」


 しかし、これで怨霊を含め、ここにいるすべての幽霊たちに過去の事故と関係がないこともはっきりした。彼らの中にはここで事故に遭ったような形跡はやはりない。結局、今回の幽霊騒動は、小川が言っていた昔の事故とは無関係の出来事だったのだ。


 ――心霊現象が起きたからって、必ず過去の出来事と結びつくわけじゃないからね。まあでも、工事で呼び覚ましちゃった線も消えたし、そこは小川さんたちに良い報告ができるかな。


 このトンネルに集まったのも、単に怖がらせやすそうな場所に人が集まっていたからだろう。しかしだとすれば、工事が止まっているとそのうち別の場所に移動してしまうかもしれない。被害を広げないためにも、その前に祓う必要があった。


 ただ、霊視の感触を考えると、怨霊はそれほど強い力を持っているわけでもなさそうだ。これならば【澱攫おりさらい】の平均的な霊能者でも十分祓えるだろう。


 そう結論付けた凪は、目を開いて印を解き、ようやく肩の力を抜いた。


「よし。大体の性質も分かったし、あとはクズレさんに報告するだけだ」


 妨害を受けたものの、調査員としては非常にスムーズな仕事運びだったはずだ。そう自負した凪は、達成感と共にヘルメットを脱ぎ、小脇に抱えてえへんと胸を張る。


 たが、そうしてしばらくトンネルを眺めたあと――ひとつ、大切なことを思い出した。


「あ、車……」


 そう。乗ってきた愛車はトンネルの反対側に残されたままだ。

 改めて暗い穴の中に目を向ける。やはりそれは獲物を待ち構える怪物の口に見え、凪はまた背筋を震わせるのだった。

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