11 霧宮凪「大団円にはほど遠く」

 冷たい鉄の扉を両手で押さえつけていたなぎは、その瞬間ようやく力を抜くことができた。

 荒い呼吸を繰り返しながら、ずり下がるようにして膝をつく。晩秋の夜風は震えるくらい冷たいのに、身体の芯は燃えるように熱くなっていた。


「だ、大丈夫ですか?」


 扉に背を預けるようにして座ると、塩野しおのとミサ、それから数十人の霊たちの心配そうな視線と合う。凪は額に汗を浮かべながらも、彼らを安心させるように微笑んでみせた。


「……はい。何とか、終わったみたいです」


 凪たちがいるのはビルの屋上広場だった。

 一度彼らと別れた凪は、各階に結界を張りながら屋上まで走った。その後は屋上で再び合流し、彼らを下から昇ってくるじゃのめぼうずの瘴気から守るため、階段の扉に最後の守りを張り続けていたのだ。


 ――危なかった。持ってきてた札、全部使っちゃったよ。


 札はすべて焼け落ち、今や扉の表面にすすけた跡が残るばかりだった。塩野に渡した赤い札も少し前に燃え尽きており、これでは依頼料をもらっても赤字だろう。


 けれど、凪はそこまで悪い気分でなかった。


「おねえちゃん! もうここから出れそうだよ!」


 ミサが大きくセーターの袖を振りながら叫んでいる。彼女の周りにいた浮遊霊たちの姿が、少しずつ背後の夜の街へと消えていくところだった。あの黒入道が消滅したことで、彼らを縛っていた呪縛が解けたようだ。


 もう、ビルからは出られる。

 幽霊たちが気ままにさまようことを邪魔する者は、どこにもいない――


「いや、まだ一人いるんだった!」


 瘴気の源で笑っているであろう少女の顔を思い出し、凪は急いで立ち上がるとミサの元へと駆け寄った。


「手伝ってくれてありがとう、ミサちゃん。でもまだ危ないから早く行って」


「うん。助けてくれてありがとう」


 ミサは凪、塩野と順番に辞儀をして回って、それから最後に付け加えるように言った。


「それと、さっきまで本当に怖かったけど……蛇のお姫様にもありがとうって言っておいて」


「あ、あはは。分かったよ」


 凪が頷くと、彼女は微笑みながら屋上の外へと向き直る。そして、他の霊たちと同じ様に、月夜の中へと溶けるように消えていった。


 彼女が母親の霊と再会できるかどうかは凪にも分からない。けれど、きっとすぐに会えるような、そんな気がしてならなかった。


「今の言葉、裁巳さんが聞いたらどう思うかな」


「わたくしは何とも思いませんよ」


「うわっ!」


 背後から声がして凪は飛び退く。

 振り返れば、そこに澄まし顔の裁巳がいた。少し離れたところにいる塩野が、屋上にあるエレベーターを指している。どうやら電気が復旧して動くようになっていたようだ。


「わたくし、プロとして狩り――ではなく、仕事には誇りを持っていますから。口汚く罵る霊も、丁寧に感謝を述べる霊も、等しく祓いますよ」


 裁巳は閉じた蛇の目傘を抱え直しながら言った。


「またそうやってひどいことを言うんだから……っていうか、じゃのめぼうずを胴体まで顕現けんげんさせたでしょ! おかげで守り札全部焼けちゃったし! それに、もしビルの外に瘴気が漏れたらどうするつもりだったの!」


 凪が強く言っても、裁巳はつんと横を向いてしまう。


「当然、建物から漏れないように調節しましたよ。というか、あなたが手に負えなかったところを助けたのですから、まず感謝を言うべきではありませんか?」


「ぐ。そうだった。助けていただき、ありがとうございます……」


 凪が悔しそうに頭を下げると、裁巳は満足げに頷いた。

 横暴で残虐だが、確かに彼女の助けがなければどうなっていたか分からない。


「ともあれ、猶予を与え競うのは試みとしても面白かったですし、今回の依頼は思った以上に楽しめました。まあ、点数でいうなら今日は引き分けと言ったところでしたけれど」


「引き分けって……完全にあたしの負けだよ」


 裁巳の言葉に、凪は思い出したように消沈する。


 凪が成仏に導けた霊はゼロ。どころか、ここから逃がせた霊すらも、全体の半分ほどでしかなかった。塩野とミサが各階で誘導してくれたのだが、全員がついて来てくれたわけではなかったのだ。


 しかし、下の階にはもう気配は感じられなかった。このビルにもう幽霊はいない。裁巳と黒入道の戦いに巻き込まれたか、瘴気に当てられ朽ちてしまったのだろう。


「あたしが逃がせたのは、さっき屋上にいた子たちだけ。これじゃあ全然……」


 そうして凪はうつむく。けれど、すぐに呆れたような声が返ってきた。


「何を言ってるんですか。黒入道をおびき寄せたことで、ここ以外の縄張りの幽霊たちも結果的に助けてるじゃないですか」


 だから引き分け。裁巳はそう言うが、凪には状況がまったく理解できなかった。


「ここ以外の縄張り? 一体何のこと?」


「まさか……あなた怨霊の正体に気づいてなかったんですか?」


 凪の様子に裁巳は眉間に皺を寄せてしまった。


「まったく。やっぱりあなた、霊視はできてもその先がいまいちですね。いいですか。あの怨霊の正体は――」


「ええっ! 志島しじまさんが!」


 突然、裁巳の言葉を遮って大声が屋上に響く。


 声のする方を見ると、塩野がスマートフォンを耳に当て話していた。志島の名前が聞こえたので、もしかしたら依頼について連絡があったのかもしれない。

 ただ、それにしては妙に深刻そうだ。


 彼は何度か頷きながら応じると、電話を切って凪たちの方に向き直る。そして、真っ青な顔で言った。


「志島さんが倒れて、病院に搬送されたそうです!」



          ――――――――



 その後はかなり慌ただしかった。

 塩野は大急ぎでビルを閉めると、凪たちへの挨拶もそこそこに、病院へ向かうため駐車場の方へと駆けていった。


 凪はビルを出るまでの間、塩野と一緒になって慌てふためていていたのだが――傍らの裁巳がまったく動揺していないことに気づいていた。


「裁巳さん、何か事情を知ってるんでしょ? もしかして、怨霊の正体が関係してるの?」


 笹垣ささがきビルの庭園を大通りに向かって進みながら、凪は先を行く裁巳の背に尋ねる。彼女は閉じた蛇の目傘を肩の上で回しながら、ライトアップされた通路を優雅に歩いていた。


「そう言えば言いそびれていましたね。関係しているというより、そのものなんですけど」


「そのもの?」


「ええ。あの黒入道の正体。それは、志島さんの『生霊いきりょう』です」


 彼女は立ち止まって振り返る。その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。


「え、ちょっと待って。あの黒入道が志島さんの『生霊』? そんな馬鹿なこと――」


「怨霊の核となっていた霊体。それが、そっくりそのまま志島さんの顔をしてましたから、間違いありませんよ」


「か、確認したの?」


「ええ。ちゃんと引きずり出してこの目で見ました」


 裁巳は当然だと言わんばかりに頷く。

 そのやり方には一言物申したかったが――


 確かに、黒入道が志島の生霊だとすれば、ビルに怨霊の痕跡がなかった謎も解ける。人の念から生まれる生霊の気配は本人とほぼ同じ。つまり、最初からビル中にあふれていた志島の気配こそ、実は怨霊の痕跡だったのだ。


「ぜ、全然気づかなかった……」


 むしろ、志島の気配が霊視の邪魔とさえ思っていた凪である。


「だから霊視の先がいまいちだと言ったんです。まあ、いつものように時間や道具を使って調査できれば、さすがのあなたでも気づいていたでしょうけど」


「うう……それって慰めてくれてる?」


「まさか。そうであってほしいという、相棒としての希望的観測ですよ」


 裁巳は微笑んで可愛らしく片目を閉じる。凪はこれほどまでに皮肉の効いたウィンクを見たことがなかった。


「はあ……ってことは、さっき言ってた『ここ以外の縄張り』って、志島さんの持ってる別のビルのこと?」


「そこまではっきりしてはいませんけど……志島さんの生霊であることを考えれば、可能性は高いでしょうね。最初に不在だったのは、別のビルで幽霊たちを集めてる最中だったのでしょう」


 志島が利益になるテナントを必死で集めてたように、黒入道も幽霊相手に同じことをしていたというわけだ。

 ただ、その結果、皮肉にも大元である人間の方はお客を失うことになってしまったのだが。


「まあ、形はどうであれ、生霊は元となった人間の願望を叶えようとするものですからね」


 裁巳のその言葉に、凪は既視感を覚える。確か、同じようなことを塩野に話したはずだ。それがまさか自分に返ってくるとは思っておらず、凪はまたがっくりと肩を落とした。


「本来、生霊を祓ったところで、元の人間への影響なんて微々たるものですけど。黒入道はあれだけ肥え太るほどの邪念を溜め込んでましたからね。行き場を失った念が本人に還り、体調を崩されたんでしょう。とはいえ、呪い返しとは違いますから、大事には至らないと思いますけど」


 なんなら、あの傲慢な性格には良い薬になるんじゃないですか――。


 そう締めくくって、裁巳は前を向いて歩き出す。


 凪は息をついてから顔を上げ、静かにその背を見つめた。やはり、この少女は祓い人に必要とされる様々な才能に恵まれている。ただ一点、その極端に過激な嗜好さえどうにかできれば、きっと多くの人と魂を同時に救える存在になれるはずだ。


 ――そこを変えさせるのが一番難しいんだけど……。


 けれど、屋上でミサを見送ったあのとき――

 裁巳は彼女の礼の言葉を聞いていた。聞いていたのに、何もしなかった。つまり、祓わずに見逃してくれた、と言えなくもない。


 希望はなくはないのだ。


「凪さん、何をしてるんです? さっさとクズレに報告をして、他に珍しい幽霊の情報がないか調べなくてはいけないんですよ」


 物思いにふけっていると、庭園の出口まで進んでいた裁巳が振り返って声を掛けてくる。既に次の獲物を虎視眈々こしたんたんと狙う狩人の姿に、凪は少しげんなりして首を振った。


「うーん、やっぱりただの気まぐれだったのかも……」


 それでも凪は諦めることなく前へと向き直り、裁巳の元へと駆け出すのだった。

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