5 霧宮凪「霧宮先生の心霊入門」

 塩野しおのによると、ビルの地下は一階、地上は十階建てで、屋上には広場もあるという。


 最初にビルの正面広間にやってきたなぎは、ざっと辺りを見渡した。

 二階まで吹き抜けになっている広間には、案内所の他にコンビニやカフェ、いくつかの飲食店などもある。開いていれば今の時間帯は客でにぎわっていたのかもしれないが、あいにくどれも休業して明かりは落ちていた。二階部分には閉鎖された空きスペースも目立ち、どうにも寒々しい印象を受ける。


 いや、実際にここは寒い。凪の吐いた息が僅かに白んでいた。

 ビル全体を休業にしているので、空調を切っているのだろうが――原因はそれだけではなかった。


「やっぱり浮遊霊がかなり多いな」


 広間には、煙のように不確かな姿の幽霊たちが満ちていた。そのあまりの多さに、気温が下がるという典型的な心霊現象が起きているのだ。


 しかし、浮遊霊とは本来一箇所に留まらずさまよい歩く霊を指す。それがこれだけ密集するというのは、偶然では片づけられないことだった。


 ――ここは霊が迷うような構造でもない。自らの意思で留まってるってこと?


 多くは広間の真ん中に集まっていた。折り重なっていて分かりにくいが、いくつか強い恐怖の感情も読み取れた。原因は不明だが、彼らはここから動くことを恐れているらしい。


「や、やっぱりここにも幽霊がいるんですか?」


 考えていると、あとからついて来た塩野が震える声で尋ねてくる。

 調査には彼も同行することになっていた。

 本来ならば、彼には安全のために外で待っていてほしかったのだが、セキュリティ上の観点から一緒について回る必要があるとのことだ。確かに、鍵を渡して「ご自由にどうぞ」なんてわけにはいかないのだろう。

 けれど、塩野の怯えきった表情を見ると、その役回りが不憫ふびんでならなかった。


「ここにいるのはほとんど消えかけの浮遊霊たちで、害はなさそうです」


「浮遊霊……テレビの心霊特番で聞いたことがあります。地縛霊じばくれいだかっていうのが、人を襲うやつなんでしたっけ?」


「あー、テレビとかだとそういう感じに言ってることもありますけど……あたしたち祓い人の中では少し違うんですよ」


 浮遊霊や地縛霊というのは、あくまで霊を行動目的で分けた区分だ。

 気ままに歩き回る『浮遊霊』と、場所に執着する『地縛霊』。他にも人の強い願望から生まれ叶えようとする『生霊いきりょう』や、親族や特定の個人を霊的な外敵から守ろうとする『守護霊』など、様々な幽霊たちがいる。


 そして『怨霊』とは、そんな幽霊たちの区分に関わらず、目的のために生者や他の霊を襲う者のことだ。多くは荒ぶるうちに未練すらも忘れ、主体のない憎悪と欲望を振り撒くようになってしまう。


 ただ、そんな説明をしても塩野は目を丸くするばかりで、あまり理解している様子ではなかった。確かに、こんな解説をいきなりされても困るだけか、と思い直し、凪は彼の聞きたいであろう言葉を口にすることにした。


「怨霊というのが人を襲うんですけど、実際に人へ危害を加えられるほど強いヤツは滅多にいません。今のところ、このビル全体からもそんな気配は感じませんから、安心してください」


「は、はあ。私にはよく分かりませんが、とにかく安全なんですね」


 良かった、と塩野は胸をなで下ろすが、凪の方はあまり気を緩めることができなかった。

 今、強い怨霊の気配がないのは確かだが、こういう場所には多種多様な人の念がこびりついている。特にオーナーである志島しじまの念は色濃く残っており、凪の霊視に対しては雑音となってしまっていた。見逃しがないとは言い切れないのだ。

 そう考えた凪は、ジャケットの内ポケットを漁って一枚の赤い札を取り出す。


「念の為にこれを持っておいてください」


「これは……」


「護符ってやつですね。万が一、塩野さんを襲おうとする幽霊がいても、その札が守ってくれます」


 塩野は差し出された札を恐る恐る受け取ると、その古めかしい筆跡をじっと見つめる。


「ほ、本当にこういうの使うんですね」


 おそらく、彼にとってこのような札は、テレビの画面か、せいぜい神社の社務所で目にした程度の物だったのだろう。普通はそれで良いのだが、この状況下ではそうも言ってられない。


「必ず手に持っていてください。それで多分ないとは思うんですけど、もしも札が燃え始めたら、落ち着いて建物の外へ避難するように。少し危ない怨霊が近くにいる可能性があるんで」


「わ、分かりました」


「大丈夫。こいつは霊験あらたかな僧侶に清められた、超高級品ですから。その辺の怨霊が焼き切るには百年はかかります。ただ、高いんであとで返してくださいね?」


 凪がおどけるように言ってみせると、塩野は表情を和らげて頷く。

 けれど、それは気休めではなく本当のことだった。この札の守りを破れる怨霊はそういない。これを持ってる限り、彼が一緒に来ていても問題ないだろう。


「とりあえず、付近に霊たちが溜まる原因みたいなのはなさそうです。二階と三階、それから地下も感じは同じか。……エレベーターは使えますか?」


「はい。部屋を見て回ると聞いていたので、通常通りに使えるようにしてあります」


「ありがとうございます。じゃあ、次は四階を見させてください」


 凪がそう言うと、塩野が広間の脇にあるエレベーターのボタンを押しに行ってくれる。


 四階には、先程凪が感じた少しはっきりした霊の気配があった。もしも意思疎通ができるのならば、何かしらの情報を得られるかもしれない。


「お待たせしました。どうぞ」


 エレベーターは一階に止まっていたようで、銀色の扉はすぐに開いた。中に乗り込み塩野がボタンを操作すると、扉が閉じてゆっくりと上昇を始める。


「ここの警備をするようになってもう二十年近くになりますけど、今までこんなことなかったんですけどね」


 階に着くのを待つ間、塩野が独り言のように呟く。

 その顔には恐怖だけでなく疲れの色も見えた。警備主任である彼は、今日まで色々な対応に追われてきたのかもしれない。


「そんなに勤務してるんですか。でも、建物はかなり新しいですよね」


 外装やロビーはもちろん、今乗っているエレベーターの内装も最新式のようで真新しかった。


「半年ほど前にビル全体の改築工事が済みましてね。そう言えば、オーナーが今の志島さんに変わったのもちょうどその頃だったなぁ」


 塩野によると、元々は志島の父の会社が、この笹垣ささがきビルを含むいくつものビルを経営していたらしい。しかし、その父が病気で亡くなると、会社の経営は息子、今の志島に引き継がれた。


「親父さんは人情のある方でね。不況時代には入ってた会社の家賃をしばらく待ったり、色々手助けとかしてたようなんだけど、息子さんの方はあんな感じで結構厳しくて。今から行く四階なんかも――」


 そこまで言ったところで、エレベーターの到着音が鳴る。扉が開き、非常灯だけが灯る暗い廊下が現れた。

 降りてみるとそこはオフィス階らしく、監視カメラで見た医院前のような構造になっているようだった。そのうち、塩野が近くのスイッチを入れて蛍光灯が点くと、その様子をはっきりと見ることができた。


 しかし、部屋の入口には社名や看板は掛かっていなかった。どうやら、ここもテナントが入っていないらしい。


「前はフロア丸々IT系の会社が入ってたんですがね」


「幽霊騒動で退去を?」


「いや、ここはそれよりもちょっと前かな。改装前から入ってた会社だったんですが、志島さんが『今まで安すぎた』って急に賃料を引き上げたみたいで。ほとんど追い出されるみたいに」


 塩野は首を振りながら、しっしっと手でジェスチャーをする。


 その後もっと大手の会社の事務所が入る予定だったが、それはこの幽霊騒動の煽りを受けて停滞してしまっているという。


 そんな塩野の話を凪は少し苦笑いを浮かべて聞いていた。思ったよりも溜まっていた想いがあるらしく、聞いてもいないのに非常に饒舌じょうぜつだった。

 しかし、除霊をするうえで当事者の話は重要だ。

 一見、関係ないような愚痴の中にも、狙われる原因が隠れていたりすることはよくある。


 とはいえ、今は時間が豊富にあるわけではない。


「貴重なお話ありがとうございます。それじゃあ、そろそろ部屋の中を見せてもらっても?」


 ほどほどの所で凪は調査の話を切り込ませる。すると、塩野は思い出したようにはっとして、入口横の読み取り機にカードを通した。


「一応、ときどき掃除は入ってるはずですけど、ほこりっぽかったらすみませんね」


 扉を押し開けて塩野が入り、明かりを点ける。

 中に広がっていたのはかなり広々としたスペースで、灰色のカーペットタイルが敷き詰められていた。本来なら、ここにデスクやパソコンなどが置かれていたのだろう。奥の窓は一面のガラス張りで、伽藍洞がらんどうの部屋で夜景を映すスクリーンのようになっていた。


 そして、そこにいくつもの人影があった。

 青白い肌、生気のない表情、中には大きな傷があったり四肢が欠損したりしている者もいる。

 人の形を保った幽霊――部屋は彼らの巣窟そうくつだった。

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