私がホンモノなの
「
「はい、お姉様」
客人が居なくなり、すっかり静かになった張家の一室。
そこで私と海霞は二人で茶を飲んでいた。
どうしてだろう。蓮の絵が描かれた茶杯に注がれた液体が、いつもより苦く感じる。
「あら、顔色がすぐれないわね。私がわざわざ卑しい山娘を役立ててあげているのに不満なの?」
「いえ、そのようなことは……」
高価そうな椅子に座っていた海霞が立ち上がり、私の腕を掴もうとする。すると、そばで様子を見ていた鬼猫が海霞の裙に噛みついた。
「なによこれ」
躓きそうになった海霞は、机の端に手を置き、なんとか体勢を戻した。
「まぁ、いいわ。どうせ私が入宮したら貴方とはお別れだもの」
海霞は笑う。
目を三日月形に変えて、口角をゆっくりと上げてニンマリと笑った。
「海霞、なにをやっているんだ?」
声を荒らげながら部屋に入ってきたのは張家の長男である義兄であった。
大きな体に凛々しい目つきの彼は、一見将軍に見えるが、実際は文官を目指す普通の青年らしい。
「あら、お兄様。私は妹と茶を飲んでいた
だけですわ」
「俺の耳には『卑しい』とか『役立てる』だとか、聞き捨てならない言葉ばかり耳に入ったぞ」
「まぁ、お兄様たら。だからなんだというのですか?」
何事も無かったかのように立ち上がり、部屋から去る海霞。彼女が持っていた茶杯の中身は全く減っていなかった。
「海霞からなにか言われたのか?」
真剣な眼差しで問いかける義兄。
どこぞの馬の骨とも分からない私を気にかけてくれるとは。海霞とは真逆で、随分と親切な人だ。
「いえ、なにも」
「遠慮しなくていい」
義兄は姿勢を低くし、椅子に腰掛けている私に目線を合わせた。
「あいつは母上が死んでから性格が酷くなった。身分と容姿を使って、とにかく目立つことばかりやりたがる。特に入宮が決まってからは、調子に乗ってばっかりだ」
通りで派手な衣装や紅を好むわけだ。
私を利用している理由も、とにかく目立ちたいからであろう。
「そうだったのですね。あの、ひとつ質問させていただいてもいいかしら?」
「構わないよ」
「もし海霞お姉様が入宮しても、陛下から寵愛を賜れる保証はないですよね?」
「そうだな、たしかに陛下から寵愛を賜れる保証はないが、張家の人間である限り確実に上級妃の位は賜れるだろう。それで調子に乗っているんだ」
「なるほど、そういうことでしたか」
私が呟くと足元から
『逆に言えば、お前が入宮すれば皇帝に近づくチャンスが増えるということだな。アッハハハ』
(入宮できたら、の話だけどね)
でも、たしかに鬼猫の言う通りだ。
入宮する権利を私が得られれば、堂々と宮廷内で生活しながら情報を集められる。
義兄は立ち上がってから、優しく私の肩を叩いた。
「海霞が入宮したら、お前のために良い嫁ぎ先を探そう」
「そんな、わざわざ……」
「遠慮するな。努力してきた人間には報いるべき、それが俺の考えだ」
「ありがとうございます。私は優しいお兄様が、いつか悪い人に騙されないか心配ですよ」
「これでも助ける人間はちゃんと選んでいるつもりだよ」
苦笑いする義兄。
この人は底抜けのお人好しだ。には分かる。人には好かれるが、代わりに騙されやすい。
私は彼のような人にはならない。
私は誰も信用しない。
私は一人で十分。
「ねぇ、兄上。一つお願いがあります」
「ほう、どうした?」
「父上に文を送らせて下さい」
***
翌日の昼。
張家の頭――つまり義父が帰ってくる日。
一人で庭の花を眺めていると、子猫の
全身傷だらけで、刀で切られたような跡がある。
(人間に殺されたのね……)
人間や生き物が横死したり、子孫に祭られないと死後幽鬼となる。そして、幽鬼は死んだ時の姿をとどめるのだ。
つまり、この子猫は刃物で斬り殺されたということになる。可哀想に誰がこんな惨いことを。
「そこで一体なにをしているの?」
背後から足音と海霞の声が近づいてくる。
「庭の花を眺めていました」
「へぇー、まぁいいわ。そんなことより曇月。貴方に良い知らせがあるの」
「どんな知らせでしょうか?」
「入宮した後も貴方を私の付き人にすることにしたわ。感謝しなさい」
海霞の侍女になる?
冗談じゃない。基本的に後宮という場所は一度足を踏み入れれば二度と出られない場所だ。つまり彼女の侍女になってしまえば、永久に人生を海霞に縛られることになる。
「申し訳ありませんが、お姉様。それはお断りさせていただきます」
今まで笑っていた海霞の表情が鬼神のごとき形相に変わった。
「アンタ、自分の立場をわきまえているの? お父様に言いつけるわよ?」
「好きになさって下さい。代わりに私もお姉様の付き人はやめますので」
「この私を脅すつもりなのね。付き人をやめる以前に、私がお父様にお願いすれば貴方なんてすぐに追い出されちゃうのよ」
海霞が右手を挙げて、私の頬へ振り下ろそうとした。
反射的に目を閉じる。
刹那の後、己の右頬に痛みが走るものだと思っていたが、代わりにパシッという乾いた音が響き渡った。
「いい加減にしろ」
目を開けると、一人の男が海霞の右腕を掴んでいた。
厳格な雰囲気をまとった眼差し。質の良い布がふんだんに使われた衣服は彼の身分が、それなりに高いことを現わしている。
「お父様……」
海霞の顔が徐々に青ざめる。
「曇月の顔に傷をつけるな」
「ただの卑しい山娘ですよ?」
「それは元々だろう。これから曇月は張家を支える存在になるのだ」
張家を支える存在?
この私が?
驚いているのは海霞も同じらしく、綺麗に整った眉がつり上がった。
「はぁ、なにを仰っているのか分かりません」
「分からないのならハッキリと言ってやろう。入宮するのはお前ではなく、曇月だ」
「どうして実の娘である私ではなく、拾ってきた曇月なの?」
「それはお前が救いようのない馬鹿娘だからだ。化粧や衣装ばかりに金をかけて楽器の稽古は真面目に受けない上に、いつも軽率な考えで動いてばかりではないか」
「それは……」
海霞はなにも言い返さずに泣き崩れた。
ぬかるんだ地面の土が彼女の
『ほら、バチが当たった』
足下で笑い転げる鬼猫は、まるで他人事のように海霞を眺めていた。
「曇月、あとで私の部屋に来なさい」
「承知いたしました。父上」
張家の頭は、そう言ってから建物の奥へ姿を消した。
立ち去る父親の影を見送りながら、涙を拭う海霞。私の方を見上げてから怒鳴るように声を上げた。
「曇月」
「はい、なんでしょう?」
「私の姿を見て心底愉快だと思っている?」
「いいえ、なにも思っていません」
「貴方、いつもそうよね」
「え……?」
海霞が私を睨む。
怒りと憎しみが詰まった眼差しで、ただじっと睨みつける。
「勉学や礼儀作法は真面目に取り組んで、誰に対しても利口そうな口を利くけど、本当は誰にも興味がない。自ら好かれる努力はしない」
喉の奥から数々の言葉が溢れ出てきたが、上手く言語化できなかった。
なにも言わず、そのまま立ち去る。
人に好かれる努力?
そんなことして何になる?
私は復讐を成し遂げて、山に帰る。
それだけなのに。
***
「父上、曇月です」
「入れ」
屋敷の中で一番豪華な扉の奥。
底に張家の頭はいた。
机に置いた紙に向かって彼は、筆を走らせている。
鼻につくような濃い香木の匂いの中。わずかに炭と汗の匂いが混ざっていた。
「
「そんな、父上。私は気になったことがあったので報告したまでです」
私が答えると、張家の頭は不敵な笑みを浮かべた。
「正直、海霞を後宮へ送ったところで大した利益はないと思っていたのだ。あいつにとっても、肩苦しい後宮に行くより、徐家の男と結婚した方が幸せだろう。そう思わないかね?」
「はい、父上の仰る通りです」
思うか、思わないか。
本当の答えはどちらでもない。
海霞にとって何が幸せか。
そんなもの。私に分かるはずがない。
「曇月、あとは任せたぞ。お前に張家の命運がかかっている」
「お任せ下さい、父上」
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