海霞

「これは曇月タンユェ娘娘。お見苦しいものを、お見せしました」


 三人の宮女は、一斉に礼をする。

 海霞ハイシャは初めは、呆気にとられたように口をポカーンと開けていたが、数秒後、はっ、とした表情を浮かべ、こちらに礼をした。


「私達は不注意な新人を叱っていただけですのよ。ねぇ?」


 宮女の一人が苦笑いをしながら呟く。すると、他の宮女は賛同するように何度も頷いた。


「それよりも、娘娘。その子は不注意で妃様方のお召し物を落としました。罰を与えて下さいませ」


「確かに襦裙を池に落としたのは、海霞ね。でも彼女に体当たりしたのは、貴方達でしょう?」


「新人の名前をご存知なのですか?」


 宮女達から笑みが消える。

 

「えぇ、海霞は私の知人よ。少なくとも嘘をつくような人ではないわ」


 海霞は昔からワガママで横暴な性格だったが、少なくとも嘘をつくことはなかった。良くも悪くも正直すぎるのだ。


「ですが……」


「無駄口を叩いてないで持ち場に戻りなさい。宮女長に言いつけるわよ」


「はい。申し訳ありません」


 不服そうな顔を浮かべた三人組は、礼をしてから立ち去っていった。


「姉上、お怪我はありませんか?」


 海霞の体に傷がないか確認する。

 風になびく袖の下には、紫色のアザだらけになった小さな右手が見え隠れしていた。


「放っておいてよ……」


 手を見られたことに気づいた海霞ハイシャは、隠すように右手を左手で覆う。


――彼女の瞳は虚ろであった。


「それは無理よ」


「どうして?」


「私は後宮を管理する上級妃。宮女の間で起きている問題があれば見逃せないわ」


「そう……私は宮女で、貴方は上級妃ねぇ……」


「姉上!」


 感情が高まり頭に血が上りそうになる。

 口を開き喉から込み上げてきた言葉を、叫ぼうとした途端――。


「あれぇ、小月シャオユエ。何かあったの?」


 のんびりとした声が背後からゆっくりと迫ってくる。瑤徳妃だ。


「もぅ、急に走り出しちゃって。びっくりしたわ……ちょっと待って!」


 目を見開いた瑤徳妃は、海霞の側へ駆け寄り彼女の手に触れた。


「貴方、アザだらけじゃない。折檻の数にしては多いわね。他の宮女にやられたの?」


「はい。ですが……大した怪我ではございません」


「規模がどうであれ、怪我をしていることにかわりはないじゃない。素衣宮にいらっしゃい。手当てをするから」


 海霞は自身の手を眺めながら沈黙を貫いていたが、最後は観念したように呟いた。


「感謝いたします」



***



「嘘でしょう。二人は姉妹なの?」


 素衣宮に瑤徳妃の叫び声が響き渡る。


「そうよ」

「はい、そうですよ」


 椅子に座る海霞の肌に瑤徳妃の侍女が包帯を巻いてゆく。彼女の体は全身アザだらけで、中にはムチで叩かれたような跡もあった。

 素衣宮の侍女が用意した水瓶に、布を浸し絞る。今度は絞った布で、腕にある、まだカサブタになっていない傷を拭いてゆく。


「でも、全然似ていないわよ」

「血が繋がっていない姉妹なの」

「あらまぁ」


 瑤徳妃は何度も頷く。

 そういえば、彼女の母も瑤徳妃と血が繋がっていないのであった。


「それにしても、どうして張家の令嬢であろう者が宮女に?」

 

 それは私も疑問に思っていた。

 海霞の事だ。今頃は、名家の坊ちゃんと婚約して幸せに生活していると思っていたのに。


「それ……は……」


 海霞の唇が震える。


「姉上。無理に答えなくてもいいのよ」

「捨てられました」

「え……?」

「父上に捨てられました」


 言葉の意味が理解できなかった。

 胸から溢れ出す、怒りのような、あるいは嘆きのような――言葉で表すことができない感情に全身が押しつぶされそうになる。


「後宮へ来る少し前のことです。私の元にシュ家の長男との縁談が来ました。父は喜びました。なにせ宰相を数多く排出してきたあの徐家ですから。ですが私の婚約者には他に想い人がいました」


「それなら、どうして縁談など……」


曇月タンユェ……いえ、娘娘はおかしなことを言うわね。縁談において本人の意志などどうでもいいのよ。重要なのは家同士の結びつきを作ることだから」


「それもそうでしたね……」


 虚ろだった海霞の瞳に段々光が戻ってくる。口調も彼女らしくなってきた。


「話を戻すわよ。徐家の長男が慕っていた人物がね――よりにもよって使用人の女だったのよ。それで長男は私との縁談を断って、その女と結婚しようとしたの。そうしたらお父様は何と仰ったと思う?」


 張家の長――海霞の父は、利益を得る為なら手段を選ばない男だ。それゆえに、実の娘である海霞ではなく拾い子である私を後宮へ送った。

 

 そのような狡猾な男がやりそうなことなど、容易に想像できる。


「もしかして、海霞を捨てて、使用人の女を張家の娘として引き取ったのね」


 今まで虚空を眺めていた海霞が、こちらへ視線を移す。


「正解よ。全くその通りだわ。お父様は邪魔になった私も妃として後宮へ送りたかったようだけど、妃は一つの家につき一人という決まりだから、結局、宮女という形で、ここへ来ることになってしまったのよ」


 海霞は空を見上げながら高笑いをした。



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