10 夜のお渡り

「これは陛下。もう既に中にいらしていたのですね、これは失礼な事を申し上げてしまいました」


「いや、気にしていないよ。それよりも――」


 白蓮バイリィエンはこちらへ歩み寄ると、素早く私の右頬に手を添えた。


「俺が送った衣を纏ってくれたのか。あぁ……やはり君は美しい。まるで月下美人そのものだ」


 彼の美しい瞳と視線が交差する、


(いいえ、白蓮。貴方の方がよっぽど美しいわ)


「陛下……」


 言葉を失っていると今度は白蓮の左腕が私の腰を、右腕が頭を捕らえた。

 つまり抱きしめられたのだ。


 ついこの前まで親の仇だと思い込んでいた男に、抱擁されているにも関わらず、そこまで悪い気はしなかった。

 むしろ落ち着くぐらいだ。


 彼は確かに、おかしな人ね。

 だって突然初対面の女の子に求婚したり、急に「永遠に添い遂げて欲しい」と言い出すもの。


 でも……それでも、悪い人ではないわ。


「他に何か欲しい物があれば、遠慮なく護衛につけた宦官へ伝えてくれ」


 その護衛とは、恐らく七七チーチー八八バーバーの事であろう。黒白無常死神が護衛につくとなれば、最悪の場合守ってもらうどころか、魂魄こんぱくを奪われる可能性があるが……。


「あの二人は私の護衛だったのね」


「何だと思っていた?」


「下働き」


 白蓮が苦笑し、向かい側でこちらの様子を眺めていた七七と八八が口を尖らせた。


「後宮には昔から不審な死を遂げる妃嬪が多いからね。護衛は居るに越したことはない」


「ならば、私を今すぐ離して下さい。そうすれば、この危険な場所からとっとと失せますから」


 抱擁する腕の力が強くなる。

 彼の頬が私の頭に触れ、耳元で白蓮の吐息が聞こえた。


「離してなるものか。傷ついた小鳥は檻の外では生きられない。野原に咲く花は手入れしなくては、すぐに枯れてしまう。きっと君もそうなのだろう?」


「私は鳥でも花でも、あるいは精霊でもありませんよ。ただの道士です」


 ここまでの執着――私が誰かに傷つけられる事を恐れているのであろうか?


「それならば余計に心配だ。外の世界で暮らし始めた君が、今後危険な状況に陥る可能性は十分にある。もしかすると、賊に襲われるかもしれないし……タチの悪い男に寝所へ連れ込まれるかもしれないし……」


 どうやら白蓮にとって、堂々と女性の寝所へ入ってきた自身は『タチの悪い男』に含まれていないらしい。


「考えすぎですよ」


「そうだな。その通りだ。多分、俺は君を守りたいのではなく、ただ手放したくないだけなのだろうね」


 少し体を彼から引き離し、顔を上げる。

 私を抱き寄せる男の顔は、どこまでも穏やかで、優しかった。まるで暖かい春の日差しのようだ。


 胸の底から段々、罪悪感が湧き出てくる。

 そして、気づけば両目から涙が溢れていた。嗚咽を漏らす私の背を白蓮が優しく撫でた。


「どうかしたか?」


「実は私のお父様が殺されて……それで犯人を探すために、ジャン家の養子となり入宮いたしました……」


 気づけば口から今まで隠し通してきた感情が溢れ出ていた。窓辺から「おいおい、マジかよ」という鬼猫グウェイマオの声が聞こえたが、今はそれどころではない。

 

「君の父親を殺害した犯人は、俺と関係があるのか?」

 

「えぇ、その通りでございます。私の父は皇帝軍に殺害されました。しかし私は貴方様が殺害を命じたとは微塵も思っておりません」


 言ってしまった。

 きっと殺される。

 処刑される。

 

 そう思っていたのに、彼は少し目を見開いただけで、その後は再び笑みを浮かべた。


「そうか、それは災難だったね。君は優しいばかりではなく親孝行な娘だ。なにより俺に本当の事を打ち明けてくれた事を心より嬉しく思う」


「私に罰をお与えにならないのですか?」


 白蓮は首を横に振る。


「罰を与えるつもりは無い。むしろ、君がこうして本音を打ち明けてくれたということは、俺を頼ってくれているということだ」


「え……」


 私の頬を伝う涙を、彼の指先が拭う。


「もし他にも悩んでいる事があれば、打ち明けて欲しい。そして、仇討ちについては、どうか忘れてくれ。俺は……君まで失いたくはない」


「それは、どういう……」


「当時、皇帝軍を指揮できた可能性があるのは母上だけだ。しかし、彼女とは関わらない方が良い」


「母上ということは……皇太后様ですか?」


 彼を問い詰めようとしたが、ふと彼の目にクマが出来ていることに気づく。


「陛下……もしかして疲れていらっしゃいますか?」


「俺は毎日疲れているよ」


「そうではなく、今日はクマできていらっしゃるので寝不足かと……」


「これか……確かに最近は寝不足だね」


「でしたら、この話はまた今度に致しましょう。今日は、もうお休みになって下さい」


「帰れと言うのかい?」


「いいえ。よろしければ青衣殿でお休みになって下さい。安眠できるまじないを存じ上げております」


 侍女に命じてくりやから温めた牛乳を持ってこさせる。これは幼少期の頃。眠れない夜に養父が、安眠の薬として勧めてくれた物だ。毎晩寝る前に飲んでいる為、今日も奴婢に用意させていた。


「これは?」


「温めた牛乳です。安眠できる秘薬ですよ」


 白蓮が苦笑する。


「そうか、俺はもっと道士が使うような秘薬が出てくると思っていたが……」


「期待に添えず申し訳ありません。残念ながら私が知っている道士が使っていそうな秘薬は辰砂しんしゃぐらいです」


 辰砂は俗世にて不死の秘薬として知られている物質だ。しかし、その正体は猛毒で、過去に服用した人々は命を落としてしまったらしい。養父も絶対に飲んではいけないと言っていた。


「ならば牛乳で構わないよ」


「でしたら私が先に毒味をしますね」


 牛乳と共に侍女に持って来させたさじを使い毒味をしようとする。皇帝に献上する品に直接口をつける訳にはいかないからだ。


「待て」


「どうかされました?」


「君自ら毒味をする必要はないだろう。宦官か侍女にさせなさい」


 白蓮は自身の付き人に、牛乳が入った陶器製の小瓶を渡す。相変わらず、親のように過保護な男だ。





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