風鈴と薔薇

淳一

風鈴と薔薇


 鈴、と涼やかに風鈴が鳴る。季節は夏。昼過ぎは最も暑い時間で、その中で響く涼の音は耳に心地良い。

縁側に腰掛けた彼女は、突然の来訪者に驚く様子もなく何か言う気配もなかった。その視線は庭に向けられたまま、こちらを振り返りもしない。

「お姉ちゃん、何回か呼んだんだけど」

 これに対しても反応がない。

 耳でも遠くなったのだろうか。それともまさか眠っているのか。

 いずれにしても、ここでムキになれば姉に揶揄われるのは目に見えている。ため息をついて室内に視線を映す。畳敷きの和室に、大きな座卓が置かれている。机の上には、何もない。いつもなら、電気ケトルと、姉の大好きなローズティーが並んでいるのだが。

 手近なところに荷物を置いた。隅で山積みになっている座布団を引っ張ってきて、座卓を前に腰を下ろす。

 実家は曾祖父の代から使われている日本家屋。小さい頃は価値などわからず、新築のマンションに住む同級生が羨ましかった。夏のこの時期になれば、親戚一同が集まって座卓を囲んだのを覚えている。

 仰いだ天井は、そのときよりは近く、けれど寂しいものだ。

「お姉ちゃん」

 縁側に座ったまま、こちらに背を向けている姉に声を掛ける。

「この家、売ったら?」

 いつからか、夏になっても人が集まらなくなった。祖父母も亡くなれば住むのは父と母と、私たち姉妹だけ。既に両親は手放すことを決めていて、引っ越しも終わっている。あとは姉次第だった。

 こんな広い家、手入れだってできないだろうに。

 家や土地の価値はわからないけれど、維持費がかかるくらいなら二束三文でも売ってしまった方がいいに決まっている。

 少し待って、しかし姉の返答がないのがわかると、私はもう一度、ため息をついた。

「ちょっと寝るね。なんか疲れたから」

 もう一枚、座布団を引っ張ってきて枕代わりに横になる。

 鈴、と涼やかな風鈴の音の中に、どこか薔薇の香りが混ざっている気がした。


   ◆


 夏の夜空を観察してみよう。

 そんな課題が学校から出たのは、小学校のときだったか。子どもだけで夜道を歩きまわるのは危険だからと、クラスの中の良い友だちと、家の庭で観察をした記憶がある。おとなたちは縁側で楽しそうに話しをしていて、こちらは宿題をしているのにと、不満に思ったのも覚えている。

 ここまで明確に当時を覚えているのは、ずっと優しかった祖父を、生まれた初めて「怖い」と思った日だからだ。

 家の庭には物置があった。祖父が庭いじりをするときなどに道具を取り出していた物置だ。普段からよく入り込んで遊んでいたし、そのたびに「危険だからダメだぞ」と叱られたものだった。

 その日、観察が終わって友だちの記録を待っている間。暇だったからと物置を覗こうとした。もう夜で、中が見えるわけなどないとわかっていたのに、なんとなく見てみたいと思ったのだ。

「おい」

 それを引き止めた祖父の声が、かつて聞いたことないほどに重く、低く、おそろしいものだったのを、覚えている。自分の肩を掴む祖父の手が、鬼の手なのではと思うほど、大きく、強いものだったのを、覚えている。

「危険だから入ったらダメだと、いつも言っているだろう」

「え、と、ご、ごめんなさい……」

「わかったなら離れなさい」

 結局、宿題が終わって戻ってみればいつもの優しい祖父に戻っていて、しかもお菓子までもらってしまったものだから、恐怖も一気に霧散してしまった。しかも当時にしては珍しい夜更かしだったから、楽しい思い出の側面の方が強く残っている。

 ただ。

 今でも少しだけ、夜の物置は怖かった。


   ◆


「おはよう」

 姉の声にハッとなって体を起こす。涼やかだった風鈴の音が、どことなく「寒い」に変わっている。

いま何時だろうと時計を探し、居間の時計はとうに壊れているのを思い出した。

 振り返った先の姉は変わらず縁側に腰掛けて庭を眺めている。さして歳の離れていない姉妹のはずなのに、この人は日がな一日縁側に座って何を考えているのだろうと不安にさえなってくる。

「お姉ちゃん、いま何時?」

「もうすぐ五時ってとこ」

「やっば、もう日が暮れるじゃん」

「どこかに行くの?」

「晩御飯!」

 姉ひとりになって以降、この家で料理が振る舞われた記憶がない。姉とて料理ができないわけではないはずだが、妹のためにわざわざ作るのは面倒なのだろう。幸いにもこの家からコンビニまで自転車で十五分ほどの距離だ。

「自転車借りるね」

 玄関先に下げられた鍵を取りながら声を掛ける。

「お姉ちゃんは? 何かいる?」

「いまから行くの?」

「そうだよ!? 話聞いてた!?」

 いったい何を聞いて返事をしていたのだろう。こんなだだっ広い家にひとりきりだと、痴呆まで入ってきてしまうのか。

「危ないからやめなさい。あと、よく行ってたコンビニはとっくに閉まってるよ」

「うそっ!?」

 じゃあどこで晩御飯を調達しろと言うのだろうか。へなへなと座り込む私に対し、姉がくすりと笑う気配がした。

「朝ごはんは作ってあげるから」

「晩御飯も作ってほしいんだけど」

「でも、お腹空いてないでしょ?」

「………………言われてみれば」

 確かに、日が暮れるからと慌てて晩御飯のことを考えたが、あまりお腹は空いていない。午後まるまる眠りこけていたから、さしてエネルギーを使わなかったということだろうか。

「うー、でもなんか口寂しい」

「机の上のローズティー、飲んでいいわよ」

 姉に言われて卓上を見る。いつの間に用意したのか、電気ケトルとローズティーが並んでいた。香りも良いし、もしこの先お腹が空いても、空腹を紛らわすのにはちょうど良いかもしれない。

「飲みたくなったら、自分で淹れるよ」

 電気ケトルの中を見れば水は入っている。姉が先に飲まない限り、一杯分くらいはあるだろう。


   ◆


 小さい頃、庭の一画に薔薇が植えられていた。毎年夏の前と終わりに、薔薇の香りが庭に漂っていた。

 赤くて鮮やかな花弁が開くたびに、もうすぐ夏休みだ、と呟けば、「さすがにそれは早すぎる」と母親に苦笑されたものだ。

 祖父が手入れするのを眺めては、茨で怪我をしないようにと念を押された。特に子どもの身長では、茨の棘が目に入ることもあるからと、ゴーグルをつけるように言われた記憶もある。

 だが、いつからか庭から薔薇の香りがしなくなった。祖父が死んでからかもしれない。庭の手入れを誰よりやっていたのが祖父だったから、手入れをする人がいなくなって、少しずつ庭が死んでいったのだろう。

 ローズティーを家の中でよく見るようになったのは、そんな背景があったからだろう。家族の誰となしに、庭から漂う薔薇の香りを懐かしんだのだ。

 誰かが淹れるたびに家の中で仄かに薔薇の香りが漂う。

「この香りを嗅ぐと落ち着くわ」

「でも、やっぱり本物には及ばないね」

「やっぱ枯らす前にちゃんと世話をするべきだったな」

 枯れてしまった薔薇を再度育てるほどの気力は、家族の誰も持っていない。だから、加工され、流通している、半ば人工的なお茶の香りで満足する。

「✕✕は特に好きだったわよね」

 そう言ってきたのは母だったか。

 それに大きく頷いたのも覚えている。

「✕✕は薔薇の世話もよくやっていたじゃないか」

 母の言葉を受けて、父が懐かしむように言う。

「あんなに世話をしていのに、今では近寄りもしなくなったけど」

「確かに。どうして?」

「だっておじいちゃんもういないもん」

 両親の疑問に首を傾げる。確かに、祖父と一緒に薔薇の世話はしたけれど、それは祖父と一緒だったからだ。

 その明朗な回答に、両親がどんな顔をしていたのかまでは、覚えていなかった。


   ◆


 鈴、と風鈴が鳴った。

「寝てた!?」

 デジャブのように跳ね起きる。外は明るいが縁側に姉の姿はない。時刻を確認しようとして、しかし居間の時計は壊れているのを思い出し、スマートフォンの画面をつける。

「あれ」

 そこに示された時間は午後三時。日付は帰って来た日の日付。

「じゃああの会話は、」

 夢?

 それにしては妙にリアルだった。しかしいくらなんでもこの最新の電子機器が日付を間違えることはないだろう。となれば、やはりあれは夢だったのだ。

 机の上には何もなく、持ってきた荷物の位置もそのままだ。ただ、姉の姿だけが見当たらない。いつもなら、寝起きを揶揄うためだけに居座っているような人なのだが。

「お姉ちゃん?」

 眠りこける直前まで縁側にいたのが嘘のように、影も形もなくなっていた。

「どこ行ったんだろう」

 なんとなく、彼女の行先は知っている気がして立ち上がる。さきまで姉が座っていた縁側に立つと、庭がよく見渡せた。

 かつてはきれいに整えられていた庭も、世話をする人のいない今となっては荒れ放題だ。きれいだったときの庭ならまだしも、何が出てくるかもわからないようなこの空間を眺めて、姉は何が楽しいのだろう。

「あー、でも」

 姉は確かおじいちゃん子だった。よく一緒に、庭の手入れをしていた気がする。そんな姉なら、庭に何かしらの思い入れがあってもおかしくはないだろう。

 この荒れ果てた庭が、彼女の望む姿なのかはわからないけれど。

「お姉ちゃん」

 なら、姉がいるとすれば、この庭だ。庭先に置かれたサンダルを履く。ひどくボロボロな上に雑草が足を擽るが、玄関からわざわざ靴を持って来るのも面倒だった。

 ざくざくと、生い茂った草木を掻き分けて奥に進む。手入れされていた頃よりも広く感じるのは、かつては見えた塀がもうほとんど見えないからだろう。

「お姉ちゃんってば」

 庭の中心あたりに来たところで、ぐるりと周囲を見渡す。姉の姿はなかったが、代わりに一ヶ所、不自然と場所を見つけた。

「あれ」

 物置の戸が、開いていた。


   ◆


 家を手放すことになった。

 祖父母も死んで、四人住まいにこの家は大きすぎたのだ。ちょうど、父の栄転が決まったこともあった。

 新居は都会だった。中古で買った、マンション暮らし。

「庭はもう、ない方がいいだろう」

 そう言ったのは、父だった。

 かつて家の前に広がっていた空間はなく、代わりにこじんまりとしたベランダが備え付けられていた。洗濯物を干せば、それでいっぱいになってしまいそうな、そんな狭いベランダだった。土いじりどころか、鉢植えひとつ置くのにも、工夫が必要だろう。

 薔薇の香りももうしない。家族でローズティーを飲む習慣も、次第になくなっていった。むしろ、買おうとするものなら、母親が断固として許さなかった。

 それがなんだか心細くて、バイト代でローズティーをこっそり買って、ひとり自室で飲んでいた。実家とは違い、木の匂いがしない部屋。ひと足早く慣れた妹と違って、自分は慣れるまでに時間が必要そうだった。

 そうして移り住んで数年が経ち、ある日、父に呼び出された。

「父さんの遺言でな」

 どうやら、私が成人するのを待っていたようだった。

「あの家は、お前にやるとのことだった。俺としては、あんな家、もう売ってしまった方がいいと思うんだが」

 それでも、祖父の遺産であることに間違いはなく、相続先が私であることも揺らがない。父の考えは固そうだったが、それでも私の意志を汲もうという真摯な姿勢が感じられた。

「ちょっと、考えさせて」

 大学の夏休みは長い。それを利用して、実家に戻ることにした。両親に言うと反対されそうなので、行き先は妹だけに告げた。とっくに水も電気も止まっているから、寝泊りは近くのホテルを予約した。

 祖父と一緒に手入れをした庭は、さすがに何年も放置されて荒れ放題だった。家の中もだいぶ傷んでおり、父が言うように、手放すのがいちばんだろう。

 家に帰る日。ホテルのチェックアウトを済ませたあと、まだ少し時間があるともう一度実家を覗きにいった。縁側に立つと、誰も住んでいないはずなのに、鈴、と風鈴が震える音がする。

 まるで招かれるように、スーツケースを縁側に置いて、裸足のまま庭に降りた。


   ◆


 物置の中にあったものを見て、逃げるように帰ってきた私を、両親は驚いたように迎え入れた。脈絡のない私の言葉を、しかし母も父もちゃんと聞き留めてくれたようで、翌日には父が警察に立ち会うためと実家に戻っていった。

 姉は、死んでいた。

 物置の中で、首を吊って。

 大学に上がって以降、姉が何をするにしても両親は自由にさせていた。つい先日成人したこともあるだろう。

 だがさすがに無断外泊が一週間も続けば心配もするというものだ。

「何か思い当たることはないか?」

 そう聞かれて、姉が「実家見に行ってくる」と言っていたのを思い出した。けれど、姉が両親に言っていないということは、秘密にしたいということでもある。姉の秘密をばらしたら、あとあと何をされるかわかったものではない。

 だからその場では「さあ?」と答え、続いて「友だちの家に泊まりに行きたいんだけど」と相談をしたのだ。

 そうだ、私は、姉を探しに行ったはずなのだ。

 なのに、どうしてか、実家の敷居をまたいだ瞬間、まるで家に帰って来たかのような感覚に陥っていた。それを思い出すたび、寒気がする。

 姉の死については、周囲の状況から自殺と判断された。死んだのは私が訪ねる数日前で、物置の中は暗くてよく見えなかったが、実際はかなり腐敗が進んでいたようだ。姉が座っていると思っていた縁側には、姉のスーツケースが転がっていたらしい。

 死後、姉の自室からローズティーが出て来たのに、母は静かに泣き崩れた。姉がローズティーを好んでいたのは知っていた。けれど、それがどうして、泣き崩れるほどのものなのだろう。

 そもそもどうして、姉は自殺などしたのだろう。それも、実家の、あの、薄暗い物置の中で。

何故、と両親に聞いた声は、自分でも驚くほど震えていた。それに、両親は隠すのをやめたのだろう。

「✕✕は、父さん――お前たちの祖父から、」


   ◆


 おとなしく、みんなが観察終えるのを待っていれば良かったと、たぶん、そう思ったはずなのだ。

 真っ暗で、何も見えない物置の中。体を撫でる無骨な手の感触を、他人事のように感じていた。

 どうして物置に近づこうと思ったのだろう。

 危ないから近づくなと、あれほど祖父に言われていたのに。

 ああ、でも。

 この人も祖父と同じ顔をしている。

 母屋に戻って祖父と対面して怯えた私に、酔っ払った父が「どうした?」と言ってきた。

「さっき、物置に近づいたことで怒られて……」

 それは咄嗟についた嘘だった。

ちりんちりんと、咎めるように風鈴が鳴いた。

 薔薇の香る季節は、祖父は何もしてこない。理由はわからない。ただ、薔薇の咲く季節は何もしてこなかった。薔薇の世話をしているときは、私の知っている祖父のままだった。

 そして、風鈴の鳴る季節になると、祖父は人が変わる。物置が、待ち合わせ場所。スコップや鉢、肥料の積まれた暗い物置の中で、あの鬼は子どもを食べた。


   ◆


 姉の死から一年が経った。今年、私も成人になる。

 あの家は、結局どうなったのか、気付けば更地になっていた。相続云々の話は、難しいのであまり関与していない。

 淹れたばかりのローズティーを口に運ぶ。姉が飲んでいた当時は、夏にあったかい飲み物を飲む姿に辟易したものだが、今となっては自分がまったく同じことをしている。母はいい顔をしないけれど、姉が残していったものを飲んで、すっかりハマってしまった。

聞くところによると、祖父の犯行は夏と冬、特に夏に集中していて、それ以外――つまり薔薇の香る季節は、何もしなかったのだそうだ。だから姉は、薔薇の香りを好んだ。その姉の好んだ香りを、私もまた、好きになった。

 窓を開けると、生温かい風が室内を抜けていく。窓辺の風鈴が涼やかな音を立てた。


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風鈴と薔薇 淳一 @zyun1

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