新時代の書店員様の帰宅

 凪は手洗いとうがいを済ませ、二階の自室で東城高校の制服から灰色のTシャツと黒色のスリムパンツに着替えると、まずは隣室の悠奈の部屋の扉をノックした。

 凪が手洗い時に悠奈を見たとき、彼女は泣き疲れた顔をしていたので、彼女が元気かどうか、どうも気になったからだ。


「悠奈~? 凪だけど、部屋に入っても大丈夫そう?」

「むっ、兄上か。入るがよい」


 すでに悠奈は緑色のワンピースに着替えていて、部屋のベッドでくつろいでいた。


 ずばり、凪は悠奈の体調について聞いてみた。


「さっきは泣き疲れた顔していたけど、今は平気?」


 悠奈は大きくうなずき、元気よく言葉を返した。


「うむ。無論、元気いっぱいである!」

「そっか、それなら良かったよ。元気な悠奈で嬉しい」


「……それはそうと、兄上。余の『セレナ号』を知らぬか? 今朝、登校する前までは余の学習机の上にあったのだが、今見たら、それがなくなっておるのだ」

「『セレナ号』? ……あぁ、悠奈が大事にしている壊れたガラケーのことね。確か、小さい頃に父さんからもらったんだっけ」


 凪はボロボロになった白色のフィーチャーフォンの外観を思い出し、何度かうなずいてから、悠奈の顔を覗きこむ。


「それがないの?」

「ない。……いや、知らぬのなら知らぬでいいのだ。どうせ余の『セレナ号』をどこかにやった犯人は、目星が付いているのだからな」

「……まさかだけど、犯人は母さん?」


 凪が言い終わる前に、悠奈は「うむ」とうなずいた。


 亜季は掃除好きだ。

 自宅にガラクタがあれば、たとえそれがどんなに価値があるものだろうと、片っ端から捨てていく。


 もっとも、ガラクタ好きの悠奈の所有物についていえば、これまで幾度となく見逃されてきた。

 けれど、ガラクタが見逃される時代は、そろそろ終焉するのかもしれない、そう凪は思った。


 悠奈はゆらりとベッドから立ち上がると、「これより、『セレナ号』奪還作戦を開始する」とよく通る声で宣言してから、恐々と自室から出た。


 凪はというと――。

「うーん、これは面白くなりそうな予感」

 非常識ではあるものの、何やら楽しくなりそうな気がして、階段を下りる悠奈のあとを追いかけるため、凪も同様に階段を下りる。

 ニヤニヤと笑いながら。


 悠奈は階段を下りると、LDKリビングダイニングキッチンのほうに向かったので、同じく凪もLDKのほうを目指した。


 凪がLDKに入ったとき、ちょうど悠奈はキッチンにいる亜季に声をかけているところだった。


「母上! 余が大事にしている『セレナ号』は……今どこか。卵を溶きほぐすのはやめ、すぐにでも余の宝物を返してもらおう」


 亜季はピタリと手を止めたかと思えば、乱暴に菜箸を調理台に叩きつけ、手で支えていたボウルを調理台の片隅に押しやると、おもむろに振り向いた。

 彼女はニコッと笑い、「そんなガラクタなんて、もう忘れなさい」と悠奈が大切にしていた「セレナ号」の処分を暗に匂わせた。

 そんな亜季の笑顔が逆に怖くて、凪はビクッと身を震わせた。


 凪はキッチンのそばの食卓から悠奈の様子を見ていたが、彼女はショックのためか、口をパクパクさせていた。


 ご愁傷様、と凪は思わず手を合わせた。


 そのとき、急に悠奈は自分の額をピシャリと打った。

 彼女は首をフルフルと横に振ると、目をクワッと開き、亜季を指差した。


「化けの皮がはがれておるぞ、母上。

 よし、ならば遠慮なく聞こうではないか。余の『セレナ号』、それはまだこの家にあるのか、それともこの家にないのかを……さあ、さあさあさあさあさあ! 母上、正解を答え――」

「今はないわね」


 無慈悲に亜季はそう言い放ち、調理台の上にある菜箸を持つと、ボウルを手繰り寄せ、また卵を菜箸で溶きほぐし始めた。


 悠奈は首をうなだれ、手をダラリとさせていて……誰がどう見ても落ち込んでいた。


 凪はばつが悪くなり、悠奈の肩にそっと手を置くことで、彼女を励ました。


 そのときだった。

 玄関ドアが開く音がしたかと思えば、騒々しい足音を立て、凪と悠奈の父親、あごひげを生やした茶髪ロングの遠山勇蔵とおやまゆうぞうがLDKに入ってきた。


 帰宅早々、スーツ姿の勇蔵はちゃらい決めポーズをした。


「ただいま、諸君! ……って、おいおい、なんだなんだ、そのいやぁな雰囲気は。

 新時代の書店員様の帰宅だぞー? もっと明るくな、明るく。

 ……よしっ、テイクツー、いくぞー。

 ――ただいま、諸君!」


「おかえりなさい、あなた……お仕事、お疲れ様」

「おかえりなさい、父さん……」

「……おかえりなさい、父上」


 亜季、凪、悠奈の順で、凪たちは勇蔵に暗くて心のこもってない挨拶を返した。


 勇蔵はあごに手を当て、「うーむ」とうなったのち、

「これより、遠山家緊急家族会議を始める。……それぞれ、席につくように」

 と家族会議の宣言をするなり、リビングの椅子に誰よりも早く腰かけた。


 凪たち三人は何も言わずに、それぞれリビングの椅子に座った。


 ――勇蔵提案による遠山家緊急家族会議、それはそうして始まった。

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