幽世の番人

深山水歌

第一幕

第1話

 遥か昔、人は妖と共に生活をしていた。妖の姿は例外を覗いて人の目には写らない。それをいいことに、妖たちは人に対して悪戯、殺害、誘惑をしていたとされる。人は、見えない存在に怯えて暮らしていた。

 本来なら、人と妖が密接に関わることはない。けれど、妖が人に近づき過ぎたせいで、両者の均衡が崩れた。人と妖人だけの世界と、妖だけの世界が作られた。人だけの世界を現世うつしよ、妖だけの世界を幽世かくりよと称し、妖が人に近づきすぎないようにした。

 だが、妖には悪知恵が働く。世界を分けた所で妖たちは現世へやって来てしまう。それを防ぐ為に、現世と幽世の間を繋ぐ扉が作られる。妖たちが不用意に扉を開けられないように。そして、妖たちが人に悪戯をしないように見張る者を作った。

 それを行う者を、閂様かんぬきさまと呼んだ。

 閂様の役目は、現世と幽世の均衡を保つこと。


 誰かが泣いている。

 カタカタと震える声で母親を呼んでいる。その声は幼く子供のようだ。

「おかぁさん……。どこ、どこにいるの?」

 嗚咽を漏らしながら、泣きじゃくっている。そんなに泣かれるとズキズキ胸が痛む。


 嗚呼、そんなに泣かないで。

 今、助けにいくよ。


 狐井絃きつねいいとは、遠くから子供の泣く声を聞いてゆっくりと瞼を上げた。まだ、月が高い時間のようで辺りは暗い。庭の木々たちが、風でざわざわと騒めいているのが、やけに大きく聞こえた。暗い部屋の中を目を凝らして見渡す。部屋の奥にある古い柱時計は、丑三つ時を指していた。まだ起きるのには相当早いけれど起きなくては。

 布団を剥いでゆっくり上体を起こす。

「起きたか?」

 膝元で大人びた声が聞こえた。声が聞こえた方に目を向けると、暗闇に溶け込むような真っ黒な毛並みを持った成獣の黒狐くろぎつねがいた。黒狐は、絃の足元に丸くなりながら、顔を上げていた。

「起きたよ。ろいろも聞こえたでしょ?」

「もちろん」

 ろいろという黒狐は、ゆっくり瞬きをした。

「ろいろ、助けにいこう」

 ろいろは、ゆっくりと体を起こして「承知」と呟きながら、立ち上がった。行先を示すようにろいろが歩き出すと、黒いふわふわとした尻尾が大きく左右に揺れた。それが見えた頃には、暗闇に目が慣れ始めていた。

 ろいろに続くように布団から立ち上がって、畳を踏みしめて歩く。

「お供いたします」

 忽然と、絃の足元に黒い狐の耳と尻尾を持った男が忠誠を尽くすように跪いていた。

「よろしくね、月人つきと

 月人と呼ばれた男は、「はい」と顔を上げた。その顔はどこか嬉しそうで、口元には微かな笑みを浮かべていた。

 月人とろいろを背にして歩き出すと、

「遅いぞ、月人」

「悪かったな、ろいろ」

 絃の背後で二人がいがみ合っている声が聞こえた。

 後ろを振り返って二人を見ると、身長差も体格差もあるのに、バチバチと火花を散らし合っていた。今にも喧嘩を始めそうな雰囲気を感じた。でも、その様子が仲のいい兄弟に見えてきて、微笑ましくなって頬が緩んでいく。

「大体月人は、絃の式神だという自覚が足りないんだよ。俺よりも早く来ないとダメだろ」

「それは、そうですが……。それを言うならろいろ、あなたこそ絃の守護獣しゅごじゅうである自覚が足りないんじゃないですか?守護獣は幽世と現世の異変を察知できるというのに、いつも絃よりも遅いですよね。この前だって、絃と私が幽世の異変に気が付いて対処した時。ろいろは、のんびり昼寝をしていましたよね?ろいろこそ、守護獣としての自覚を持ってください」

 月人もろいろも、互いに痛いところを突かれたのか汗を流しながら、言い争いをしている。互いに互いを譲らない所が、まるで年の離れた兄弟喧嘩みたいだ。仲が良いのにそれを認めないのが、二人だ。

 月人もろいろも素直になればいいのに、と心の中で呟く。

 月人とろいろは、言葉での言い争いを止めたのか、ゔーっと威嚇し合っている。仲を認めないのに、行動はほとんど同じだから少し面白くて笑ってしまった。

「なにを笑っているのですか?」

「何か、面白かったか?」

 月人とろいろは、シンクロして絃の顔を見た。シンクロしたことにびっくりしたのか、互いに困惑した表情と引いた目をしながら、顔を見合わせている。消えたはずの火花がまた大きく散らし始めた。

 やれやれ、と思いながら月人とろいろを見つめる。月人とろいろは、認めようとしないけれど、二人は仲がいいことを絃は知っている。

「ううん、なんでもないよ。はやく行こうか」と声をかけると二人の火花はなくなり、パッと切り替わる。

「承知した」

「承知いたしました」

 月人とろいろは、とても頼もしい我が式神と守護獣。二人がいれば、きっと大丈夫だ。

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