事故か、事件か
ぼくは遙香さんに謝ったが、遙香さんはさっさと一人で歩き出してしまい、なおもご機嫌斜めだった。
そりゃあないだろう、とぼくは舌打ちをしそうになったが、寸前でこらえた。
そのとき、不意に遙香さんが立ち止まった。
彼女は顔を下に向け、道路を食い入るように見つめていた。
ぼくと遙香さんの距離は二十メートル以上も離れていたため、なぜ遙香さんが立ち止まり、どうして道路をじっと見つめているのか、ぼくは分からずにいた。
なんだろう、とぼくが首をひねっていると、唐突に遙香さんはあとずさった。
あわてて女性があとずさるもの――なるほど、それは全人類の共通の敵で、全人類から嫌われている害虫こと、Gだろう。
もしくは夏に騒音を引き起こす昆虫、セミの死骸か。
どちらにせよ、ぼくは虫が苦手だ。
奴らを思い出すだけで、ゾッとする。
ぼくは身体をブルブルと震わせた。
「翔くん、こっちに来て」
こちらのほうを振り返らず、いやに真剣な声で遙香さんはぼくを呼んだ。
冗談じゃない。
「み、見損なったぞ、遙香さん……ぼくにGやセミの死骸を見させようとするなんて、きみは女の子失格だ。あぁ、なんて気持ち悪い!」
「……何をどう勘違いしているのか知らないけど、今はそれどころじゃないの。
――道路に血痕があるわ」
「道路に血痕って……え?」
Gやセミの死骸でもなく、血痕。
血痕。
血。
血といえば、おとといぼくは血の不快な臭いを嗅いだ。
臭いの元は夏奈さんが着ているワンピースからだった。
というのも、彼女が着ている紺色のワンピースは血のようなもので赤黒く染まっており、強烈な生臭いにおいを放っていたからだ。
それが血なのは、十中八九間違いないだろう。
本人はそれをただの汚れだと断言していたが、もちろんそれは真っ赤な嘘だと、ぼくらは見抜いていた。
そして現在、遙香さんは家の近くの道路に血痕があると言った。
それはつまり、おとといの夜、衝突事故や通り魔といった何かが家の前で起こった証拠。
無論、これはぼくらの日常を揺るがす大事件に違いなかった。
「……ん」
残酷な現実を突き付けられたぼくはというと、口の中の唾が少しも出ないほどに緊張していて、口が潤っている、などとはとても言えない状態だった。
口が水分を欲しているのにも関わらず、喉は水分を断固拒否するという暴挙に出たため、ぼくは不快で苦しい思いをした。
しかしその苦痛は、ぼくに一歩を踏み出す勇気を与えた。
一歩、二歩、三歩と進むにつれ、ぼくの鼓動が大きくなっていく。
命を象徴とする心臓の鼓動は、ぼくに“生”を実感させた。
一方で、ぼくが近付こうとするそれは“死”を意味するものだった。
“生”は“死”に打ち勝てない。
その事実はぼくを恐怖の沼に突き落とし、さらには絶望という名の地獄へといざなった。
そのような思いを抱きながら歩いたその道は、体感ではうんと長かったものの、実際はわずか十秒ほどで、遙香さんのいる場所までたどり着いていた。
ぼくは遙香さんの隣に立つと、血痕とおぼしき赤黒く塗られた道路を見下ろした。
まだそこから、かすかに血のような臭いが漂っていて、そして、そして――。
「……今さらだけど、虫とかグロテスクなものが苦手なら、翔くんはガン見しないほうがいいよ。
こう言っちゃなんだけど、しばらくは食用のお肉をおいしく食べられなくなる可能性があるから、あまり無理しないで。
この惨状から目をそらすことは、まったく恥じることじゃないんだからね」
その遙香さんの言葉は、ぼくにとって救いとなった。
「あ、うん」
ぼくは眼前の何十匹ものウジ虫と無数のハエが飛び交う道路から目を離した。
吐けと言われたのなら、ぼくはこの場で吐いてみせるし、逃げろと言われたのなら、やはりぼくはこの場から逃げていたことだろう。
事故か、事件か。
どちらにせよ、道路にある血痕と肉片、服の切れ端はそれらを物語っていた。
それからまもなくして、遙香さんは生々しさとグロテスクが残る道路の惨状に興味をなくすと、今度は周囲の道路の様子を観察し始めた。
それが済むと、彼女は独り言のようにぶつぶつと分析を始めた。
「血痕、大小の肉片、服の切れ端が周囲の道路に不規則で飛び散っていることから考えるに、これは衝突事故の可能性が高いかな。
そんでもって、この服の切れ端は紺色らしき色。
となると、あのときの状況からすれば……うん。だとすると、これはやっぱり解せないことになる」
驚いた。
遙香さんはグロテスクな事故(あるいは事件)現場を前にしても、冷静さを欠かずにいた。
どころか、ふだんより冷静で知的な女性に変わっていた。
おそらく、彼女の根底にあるものは夏奈さんに対する強い想いだろう。
そうさ、愛だ。
その愛が遙香さんを強くしたのだ。
平凡な彼女が冷静に物事を見られるのも、知的な思考を働かせられるのも、そもそも夏奈さんが原動力となっているに違いない。
なんだか、遙香さんが遠い存在のように思えてきた。
その後、遙香さんはスクールバッグからスマートフォンを取り出すと、警察に通報した。
それが済むと、遙香さんはぼくに向き直った。
「今のわたしたちはやれるだけのことをやった。あとは専門の人たちに任せるべきだよ。……行こう」
遙香さんはぼくにほほ笑みかけることもなく、素っ気ない様子で歩き出した。
ぼくは事故(あるいは事件)現場を一瞥してから、遙香さんのあとを追いかけた。
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