第三章 死者になり損ねた少女
大変な事件
二日後、七月十二日の月曜日の朝。
きょうは夏奈さんが我が二年一組に転入する日だ。
だというのに、天気はどんよりとした曇天だった。
まるで世界が遙香さんと夏奈さんを見放したかのように、いつもと比べて外は薄暗く、さらにはジメジメとしていた。
世界が遙香さんと夏奈さんを応援していなくても、ぼくらは二人を応援すると心に決めている。
たとえ、それが世界を裏切ることになるとしても、ぼくらは自分たちの道を進む。
「……翔ってさ、お父さんと同じように人からの影響を受けやすいよね」
朝食後――ぼくはリビングのソファで姉と話す機会を得て、今のようなことを姉に話したら、姉はそのように言葉を返してきた。
姉の言うとおり、父はゲーム実況者のサイゾウという男に多大なる影響を受けていた。
一時期の父は完全にサイゾウ信者となってしまい、当時のぼくら家族は大変迷惑した。
たとえば、父の話すことすべてがサイゾウの思考に基づいていたり、嫌がるぼくらにサイゾウの実況動画を無理やり見せたり、サイゾウの内輪ネタを家庭内で披露したり……とにかく、父はサイゾウバカになってしまった。
そんなサイゾウバカの父も、ある日を境に正気を取り戻すことになる。
それ以降の父はというと、家庭内でサイゾウの話題を出すことを控え、ただ無言でサイゾウの生放送を視聴し、時には一人で盛り上がったりしていた。
そんなわけなので、過去にサイゾウ信者だった父とこのぼくが同類に見なされるのは、正直嫌な気分だ。
それを姉に愚痴ると、姉は不快そうに顔をしかめた。
「同類って……あんた、父親のことをなんだと思っているの? そんな言い方をしていたら、今にバチが当たるわよ。
あたしはね、お父さんがサイゾウの言葉に影響を受けたように、翔も遙香ちゃんの言葉に感化を受けたんだなー、ってほほ笑ましく思っているだけ。実際のところ、そうなんでしょう?」
半分は当たっているが、もう半分は外れている。
実際、ぼくが遙香さんの話を聞き終えたとき、すでにぼくは彼女の頼みを引き受ける気でいたが、そこまで真剣に考えてはいなかった。
それだから、あのときのぼくはキスという交換条件を出したのだ。
ぼくが真剣に考え出したのは、そのあとの話し合いをしている最中のこと。
そのときになってようやく、ぼくは遙香さんの行動が正しいと思えるようになったのだ。
うやむやにしようと思ったが、結局ぼくはうなずくことにした。
姉は大層上機嫌に「でしょ~?」とぼくに絡んできたため、ぼくは冷たくあしらった。
直後、姉は一気にぼくとの距離を縮ませ、こちらの胸ぐらをつかんでは「でしょう?」と凄んできた。
ぼくがカクカクとうなずくと、姉は何事もなかったかのように、こちらの胸ぐらから手を離した。
ぼくは安堵のため息をつき、それから姉の顔色を窺う。
先ほどのヤクザ同然の姉はもうどこにもいなく、今の姉は穏やかに微笑を浮かべていた。
喜怒哀楽の激しい人だ、とぼくは心の中でため息をついた。
そんな姉は「言葉って、本当に不思議よねぇ」とやはりほほ笑んだまま、ぼくをちらりと見た。
「なんてったって、人の行動指針さえも変えてしまうもの。
たかが言葉、されど言葉……言葉の影響力を侮るなかれとは、よく言ったものね。
あ、これはあたしが考えた言葉だから、あんたはそれを世界中に普及しなさいよ。これ、約束だからね」
なんて無茶な約束なのだろう。
けれど、気分のいいぼくは姉にうなずいた。
「ああ、約束するよ。ぼくは姉さんの言葉を新鮮なまま、世界中に届けてみせるさ」
姉は満面の笑みになり、「さすがはあたしの弟ね」とぼくを褒めてから、元気よくソファから立ち上がった。
「さて! きょうも元気に大学へ行きますかな」
リビングの壁時計を見上げると、時刻は午前七時を回っていた。
姉にとっては通学時間ちょうどである。
ちなみに言うと、ぼくが通う奈蔵高等学校と姉が通う
姉はソファ横に置かれたキャンバス素材のトートバッグを肩にかけると、そばにいるぼくや流し台で食器洗いをする母、食卓でサイゾウの生放送を見ながら朝食を食べる父に向けて、「さようなら、きのうまでのあたし。いってきます、きょうからのあたし」と演技派女優顔負けの演技力で、家をあとにしようとする。
「いってらっしゃい、姉さん」
そうぼくは手を振ったが、すでに姉はリビングから出ていた――が、すぐに姉はリビングに戻ってきた。
「おっと、何か忘れ物?」
ぼくの言葉を聞いた姉はふるふると首を横に振り、「きょうは帰りが遅くなるから、そのつもりでいてね」と言うと、さっさとリビングから出てしまった。
そのときのそっけない姉の様子を見て、ぼくは違和感を覚えた。
姉が家から出る音を聞いたぼくは、流し台にいる母の元へ行き、遠慮がちに訊いてみた。
「なんだか姉さん、いつもとは違う様子だったけど、どうかしたのかな」
母は食器洗いに夢中で、こちらのほうを見向きもしなかったが、ちゃんとぼくの質問には答えてくれた。
「そりゃああんた、天音は彼氏の家で遊ぶんだから、遅くなるのも仕方ないじゃないの」
「そっか、彼氏の家で遊ぶのか。なるほど、道理で……」
思考停止。
直後、時間の流れがゆっくりとなった。
唐突の異変に、ぼくは気持ち悪くなり、手で口元を押さえた。
姉に恋人がいるだなんて、そんな話は姉から聞いていない。
あわわ。
これは大変な事件が発生した。
ぼくはさらなる情報を母から得ようとしたが、母ははぐらかすばかり。
懸命に母から情報を聞き出そうとしたが、ついにぼくは父から咎められてしまった。
「ショックなのは分かるけどな、天音だっていつまでも子どもじゃないんだ。それくらい、翔にだって分かるだろう?」
父の言葉はもっともだが、その言葉は母の言葉を裏付けるものとなった。
そうこうしているうちに、遙香さんとの待ち合わせ時間を少し過ぎてしまい、あわててぼくは家を出た。
家を出た瞬間、ぼくはムワッとしたよどんだ空気に襲われ、たまらず顔をしかめた。
家の前の道路にはムスッとした表情の遙香さんがいて、ついにぼくは現実を思い知らされた。
姉にだって恋人はいるし、遙香さんだって不機嫌なときは不機嫌なのだ。
現実はそういうものだと、ぼくはこの夏の暑さから教わった。
どうやら、きょうも忙しい日になりそうだ。
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