3.林檎の実(ヘドレン)
秋の夕暮れ、魔法院の窓から見える銀杏が、林檎酒の色に染まった日。
明後日の講義の準備を終え、その日は帰宅しようとしていた。院長室の前を通った時、ドアが少し開いていたので、挨拶に行くと、部屋の中には、院長のヴェンロイド師はいなかったが、ガディオスがいた。彼は、
「お疲れ様です。院長に御用ですか?ヘドレンチナさん。」
と、人懐こい笑顔を向けてきた。一般には、ヴェンロイド師の事は、「宰相閣下」と呼んでいるが、魔法院の中では、「院長」「ヴェンロイド師」と呼ぶ慣習になっていた。
「ドアが開いていたもので。そう言えば、ヴェンロイド師は実験準備でしたね。お伝えしましょうか?」
「いえ、約束していますので。」
ガディオスは、礼儀正しい、朗らかな男性だが、私は彼が苦手だった。彼のせいではない。
彼の妻は、昔、カイエン師の弟子エルダールと交際していた。二人とも、まだ10代だったので、正式にはどうか、という所だが、当の二人は、将来の約束をしていた。
彼女の両親は、王都近郊の農場からの、産直型の運営で財産を築いた飲食店を経営していた。エルダールは孤児だったが、宮廷魔術師候補なら、申し分ないと見なしていたのか、箱入り娘とエルダールの仲を認めていた。
だけど、カイエン師とエルダールは、微妙に相性が悪く、エルダール自身は魔法より歴史の研究に進みたくなっていたため、ヘイヤントにある一般向けの公立の学校で、講師になる未来に変更した。ヘイヤントは学問の街、講師をしながら研究を続ける事も出来た。
けれど、出発を前にして、宿舎で自殺してしまった。
遺書には、カイエン師に責任はないことは明記されていたが、理由ははっきり書いていなかった。自信がなくなった、とだけあった。
でも、私やミッセ、ヴェンロイド師のような、年代の近い若手は、理由を知っていた。恋人の両親は、実は名誉欲が強く、宮廷魔術師にならないエルダールと、娘の交際を、急に禁止したのだ。彼女は、エルダールに着いていく、と言っていた。ヘイヤントと王都なんて、すぐそこだ。相手の両親と同居するわけでもない。
でも、彼女は、ぎりぎりで、両親に従う事に決めてしまった。婚約者は、知らせを聞いてかけつけ、とても嘆き、取り乱しながら、すべて話した。その時の彼女の話で、事情がわかった。ただ、私自身は、幼年部の子が動揺していたので、フォローに回っていたため、直接は彼女の様子は見ていない。後でミッセとヴェンロイド師から様子を聞いた。
ミッセは、
「気の毒に。可哀想な女性の両親を悪く言いたくないが、あれはない。彼女、精神状態が変なことにならなければいいが。」
と言っていた。だが、ヴェンロイド師の感想は違っていた。
「結局は言い訳ですよね。両親の言うことを聞いたのは彼女なんだから。」
と辛辣だった。だいたいはミッセと同じような意見だったが、私はどちらかというと、ヴェンロイド師に同意していた。
エルダールは、普通よりかなり繊細なタイプで、一方、師匠のカイエン師は、魔法院の冷蔵設備で、勝手に保存した生牡蠣を食べて食あたりをした時でも、管理が悪い、と、弟子に当たるような人だった。このため、直接の理由が彼女の変心であっても、非難はカイエン師が受けた。
私はカイエン師はどうでも良かった。気の毒だが、研究成果もあまりないし、自業自得でもある。エルダールには同情したが、こういう結末に至ったのは、やはり彼自身の選択だ。エルダール自身が彼女を責めたくなくて、書き残さなかったのはわかっているので、表だっては誰も何もしなかったが、みな、以前は足しげく通っていた両親の店に、ぱたりと行かなくなった。
ガディオスは、そのあとで、新任で王都にやってきたため、この経緯は知らなかった。何年も交際してから結婚したので、耳には入っているだろう。
ある意味、確かに犠牲者でもある、彼の妻が、今は幸せなら、むしろ微笑ましいが、ガディオスと話す時は、エルダールの事を思い出し、なんとなく、居心地の悪さを感じる。彼は、顔立ちは、ほんの少しだが、エルダールに似た所があった。
挨拶の後、部屋を出ようとしたが、
「例の儀式用ワインの件ですよ。貴女の指摘通り、砂糖のルートで間違い無さそうです。」
と彼が言ったため、留まらざるをえなくなった。
いわゆる「カルト」が、一部の若い女性の間に流行り、彼女達が「儀式用ワイン」と呼んでいたものに、興奮作用のある薬がまざっていた。
薬自体は、幻覚剤の類いではないが、市販されているものではない。アルコールに混ぜて売るほど、どこで生産しているのか、また、どこから仕入れているか、不明だった。指定された国内の生産地に不信はなかった。
東チューヤでは、砂糖の代わりに使っている地域もあるので、当たってみては、とヴェンロイド師に言ってみた。それがガディオスに伝わった。
たまたま、東チューヤの移民の知り合いがいて、以前、
「砂糖の嘗めすぎで、おかしくなる病気」
の話を聞いていたからだ。
「それにしても、院長は遅いですね。やっぱり、見てきますわ。ガディオス様も、遅くなるでしょう?」
「いえ、お気遣いなく。娘たちも年ごろで、父親が家にいると、邪魔にしますので。」
と、ユーモアたっぷりに微笑む。思わず笑ってしまった。
ふと窓の外を見ると、中庭の、林檎の木の下に立っている、ヴェンロイド師が見えた。ガディオスに教えると、
「あれ、本当だ。」
と言ったあと、「また道に迷ったかな。」と呟いた。
ガディオスと、彼の同期の友人、スイ・アリョンシャに、初めて合った時、彼等は、「道に迷った」ヴェンロイド師を連れていた。宮廷魔術師になった最初の日だ。
ガディオスは、私に、
「この子の身内?」
と言った。身内には違いないので、肯定した所、
「迷ってたから、連れてきた。て、ここ、もう奥の敷地だよな。見つからないうちに出たほうがいい。」
と、すっとんきょうな返事に、唖然とした。エスカーと私は魔法官のマントを来ていて、エスカーの胸には、最上位の宮廷魔術師を示す、緋色の糸で、頭文字の縫い取りがある。私には、新人の宮廷魔術師を示す、緑の縫い取りがついている。彼等は新人の騎士のようだが、「宮仕え」が、知らないのだろうか。確かに今期からデザインが変更になってはいたが、丈と衿が代わった程度だ。
ガディオスが、背後を振り返り、
「ほら、もう1つやるから。」
と、俯くエスカーに、ポケットから取り出した飴を渡した。エスカーは顔を上げた。目と鼻が、いつもより、うっすら赤い。私は、状況を理解した。
これから就任式だが、エスカーの姿が見えなくて、ミッセと手分けして探していた。エスカーには、動揺したり緊張したりすると、馴れた道にも迷う癖があるので、今回も単純にそれだと思ったのだが、違うようだ。
エスカーは、目を見開いて、飴とガディオスを、交互に見ている。アリョンシャが、友人をつつき、
「ガディオス、その子、宮廷魔術師だよ。その刺繍の色だと、僕たちより、階級が、ずっと上。」
と言った。ガディオスは、びっくりし、
「え?!君、エスカー、それ本当か?!」
と、叫んだ。アリョンシャは、落ち着いた様子で、
「すいませんでした。私は今年、騎士に任命された、スイ・アリョンシャです。彼はアベル・ガディオス。…この方、お年からすると、恐らく、ヴェンロイド師ですよね。迷っていらしたので、お連れしました。」
と自己紹介した。そして、友人に、
「『緋色の文字を飾るものが出入り出来ないのは、王妃の寝室くらいだ。』って、シスピアの戯曲にあったよね。君、古典は苦手だったけどさ。」
と、早口で言った。それでぴんと来てしまった。私は二人に礼を言い、エスカーを連れていった。
数日前だが、エスカーの出世を妬んだ先輩の一部が、食堂で、
「『宮廷魔術師になったら成人扱いになりますから、神殿に出入り出来なくなりますね。もう王女様に、気軽にお会いできませんね。お淋しいでしょう。』、と言ってやった。」
と話していた。あまりにも下らないから、口を挾まなかった。
宮廷魔術師になったら、むしろもっと自由に各所に出入り出来る。流石に王族の寝室に自由に立ち入る、というのは舞台劇の台詞にしかないが、昼間、今まで通り、ディアディーヌ殿下の客間に行くくらいは、なんの問題もない。
ヴェンロイド師が、知らないはずはないと思っていたのだが、そうではなかったようだ。
「エスカー、いえ、ヴェンロイド師、魔法以外の事も、しっかりなさってくれなくては困りますよ。」
まだ就任式の前だが、自覚を持ってもらうために、わざと敬語を使った。
ヴェンロイド師は、ああ、うん、ありがとう、と小声で言い、二つの飴のうち、1つを私に差し出してきた。
甘いものは好きではないが、つい受け取って、口にいれてしまった。赤い飴は、見かけによらず、酸味が強く、さっぱりした味だった。
飴より赤い夕陽が強く色づく。ガディオスは、窓を開けて、ヴェンロイド師に手を降っていた。
が、彼は気付かないようだ。流石に窓から大声で呼ばせるのは憚られたし、帰宅するついでなので、私が中庭に、ヴェンロイド師を呼びに出る事にした。
観賞用の林檎の木、小さな赤い実の成る、やや大きな木。本来はもっと背の低い木だが、魔法実験の一貫として、細く高く育ててみた。傍らには、同じく魔法で育てた、赤と白の実の成る、薔薇の木があった。
薔薇は花を見るものなので、実に色をつけても無駄だ、と思ったが、こうして見ると、綺麗な物だ。
彼は王宮に通じる道を見ていた。そこから来る何かを待っているように、じっと。
声をかけて、
「院長室でお待ちですよ。入れ違いですね。」
と言ったら、
「え?!」
と、とても驚いていた。
「ガディオス様ですよ。ワインの件です。お約束でしたよね。」
「あ、ああ、今日だったか、忘れていた。」
冗談かと思ったが、彼は真面目に驚いていた。
「誰か、お待ちだったんですか?」
彼が、木の下を離れる間、名残惜しそうに振り替える様子に、ふと疑問に思ったので、つい口をついて出た。自分でも、変な質問だと思ったが、彼は、
「ちょっと、昔を思い出してね。」
と笑顔で答えた。
ヴェンロイドには、小説の『待ち人の木』で有名な、小高い丘と、大きな林檎の木がある。そこで、毎日、来るはずのない手紙を待っていた、と、聞いたことがある。『待ち人の木』では、恋人同士は、別れて終わる。そんなとこで、待つからですよ、とミッセが突っ込んでいたが、オリジナルの言い伝えでは、待っていた妻の元に、夫が帰ってきて、大団円だったからだよ、と答えていた。
ヴェンロイド師は、私に、
「秋の夜は早いから、気を付けて。」
と微笑み、あっさりと院長室に戻っていった。もう一度、王宮の方を見てから。
私は、そのまま帰宅したが、その前に、なんの気なしに、今まで彼がいた、林檎の木の下に、少しだけ、立ってみた。
王宮の高い窓が、よく見えた。今、国王陛下は、宮廷にはご不在、公務で地方にお出掛けだ。王妃様はいらっしゃるが、数日前から、お風邪らしい。それで、お一人の王妃様を、心配していたのだろう。
心配ならお見舞いいけばいいのに、どうせ毎日、王宮で仕事があるんだから、と思ったが、義弟とはいえ、宰相が、用もないのに、気軽に王妃に会いに行く訳にはいかないだろう。まだ子供の頃でさえ、「宮廷魔術師なる前から、シスピアの戯曲の特権を利用して、どうする。」と当て擦る者もいたのだから。
それから間もなく、ヴェンロイド師は、魔導実験中の事故で、亡くなった。陛下が公務からお戻りになる、丁度、前の日の事だった。
以前、エパミノンダスに占拠された、あの古い実験場だったが、設備は最新のはずだった。
国民は大いに嘆いたが、ほぼ同時に、王妃様のご懐妊が発表され、瞬く間に涙は乾いた。
王女が産まれたら、王妃様の母君の名を取り、ロザリンデか、ローザレア、ロザシャーンと名付けるだろう、と言われていた。もし王子が産まれたら、「ホプラス」と付けるか、「エスカラルド」と付けるかで、あちこちで賭けが始まった。男か女かより、男だった場合の名前の話で盛り上がっていた。
私は、二者択一なら、「エスカラルド」だと思っていた。過去の話とはいえ、息子を「恋人」の名で呼ぶよりは、弟の名で呼ぶ方が、遥かに常識的だからだ。
だが、「王子」は「ピウストゥス」と名付けられた。国王陛下の養父の名であり、かつ、恩師の名でもある。
仮に「エスカラルド」と名付けるつもりだったとしても、撤回せざるを得なかただろう。お披露目の日に、殆どの人が、そう思った、確信している。
王子は、「林檎の実」だった。ヴェンロイド師は、シスピアの戯曲を越えたのだ。
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