2.林檎の若木(エスカー)
魔法院に来て、約一年後の事だった。
昼に図書室にいた時、兄弟子にあたるミッセから、
「師匠が呼んでいるから、一緒に来てくれ。」
と、言われた。四つ上のミザリウス(ミッセ)は、僕の事は嫌っていて、いつもかなり大人げない事を(そうは言っても、当時は十歳だが)言ってくるのだが、その時は、真面目な様子で、しゃべり方も優しく聞こえた。ミッセと一緒にいた、女性のヘドレン(ヘドレンチナ)も、何時もはつっけんどんな口の聞き方をする人だったが(誰に対しても同じだった。)、聞いたことのない柔らかな声で、
「午後の先生には、私が言っておくから。」
と、言った。これも、妙に優しかった。
ティリンス師の部屋に行くと、いつもは陽気な師匠が、妙に神妙な顔をしていた。
先週、カイエン師が、時期はずれの生牡蠣に当たった時のような顔色だ。最初は師匠が食あたりなのかと思ったが、それでわざわざ、僕一人呼んで、言うことはない。
間抜けな僕の質問に、師匠は、自分が食あたりすればなんとかなるものなら、喜んでなる、とか、そういうことを言っていた。
師匠が僕を呼んだのは、ラズーパーリの悲報を伝えるためだった。
ティリンス師は、最後に
「何かわかったら、直ぐに知らせる。今日は休みなさい。」
と言った。僕は返事をして、そのまま宿舎に向かったはずだが、道に迷った。いつもの道にはない、丈の低い、白い花が咲いていた。百合の一種だが、なんだか、林檎の花に似ている、と思った。
途端に、力が抜け、その場に座り込んだ。さっき、ティリンス師から聞いたことが、頭の中を回っていた。
無くなったはずの物が、本当に、無くなった。今度こそは、本当に。
「どうしたの?」
突然、頭上で声がした。あり得ないが、ミュリだと思って、顔を挙げた。
ミュリではなかったが、花の間から、色白で金髪の女性が、僕を見下ろしていた。空色の、大きな目が、心配そうに、見つめてくる。
僕も彼女を見つめた。大人だと思ったのだが、僕より、少し上くらいの少女だった。魔法院の制服とは違う、白っぽい服を着ている。
貴女は、誰ですか、と僕は尋ねた。そんなに丁寧に言う余裕はなかったかもしれない。
「私?私は、ディニィよ。貴方は?
「エスカー…。」
「よろしくね。でも、それより…」
つる薔薇の刺繍のハンカチが、差し出された。
「だいじょうぶ?こんなところで、泣いて。どうしたの?」
ハンカチに染みが出来る。僕は、自分が泣いているのだと、気がついた。とたんに、堰を切ったように、泣き声が溢れた。
彼女の背後に、遠く、ティリンス師の声がして、
「ああ、あんな所に。一人にするな、と言ったのに。部屋まで送らなかったのか、ミッセは。」
と聞こえた。ミッセでもヘドレンでもない誰かの声が、「彼は図書室から荷物を…。」と言っていた。そういえば置きっぱなしだったな、と漠然と考えていた。
僕は、師の声に立ち上がり、いずまいを正そうした。が、何故か「ディニィ」に抱きつき、さらに思いきり、泣いてしまっていた。
その日、「ディニィ」は、僕に一日中、ついててくれた。泣きすぎて熱を出したので、彼女が面倒をみてくれた。
宿舎ではなく、彼女用に、魔法院が用意した特別なしつらえの部屋で。
翌日、彼女から、別れ際に、
「私は神官なの。神殿の方に会いに来て。いつでもいいわ、毎日でも。」
と言われた。だが、毎日、様子を見にきてくれたのは、彼女のほうだった。食欲が落ちて伏せていた僕を、心配してくれていたのだ。
この白い花のような「ディニィ」が、ディアディーヌ王女殿下だと知ったのは、しばらく後になってからだった。
※ ※ ※ ※
寝室には、白い花が飾ってあった。林檎だ。収穫期に目にする物ではないので、観賞用のものだろう。
「白い花を飾ろうが、赤い花を飾ろうが、寿命は変わらないからね。」
祖母は、横になったまま、静かに言った。間に合ってしまった僕は、なるべく皮肉に聞こえないように、
「危篤で今日、明日と伺いましたが。」
と言った。
「収穫期に葬式なんて冗談じゃない。この忙しい時に。まだ、やることがあるからね。春までは死なん。」
死ねん、じゃなくて、死なん、という所が、なんとも祖母らしかった。
「お前が王都に行きっぱなしでも、領地の事は心配いらん。ヴェンロイドは自然に動く。」
「だったら、メッサかグスティが跡取りでも、良かったんじゃないですか?」
祖母はけらけらと笑い、少し咳き込んだ。
「そんな事よりも、それ、そこのそれを。」
サイドテーブルの上、銀の盆に乗った、紙束を指し示した。リボンで束ねてある。気にはなっていたが、旧い手紙のようなので、祖母の回顧の一環程度に思っていた。しかし、祖母には、昔を懐かしむ趣味はない。
「昔、お前が故郷の教会に出した手紙と、教会からお前に来た手紙だ。」
急いでリボンを解く。封は切られていなかった。紙は変色し、インクは掠れて、所々しか読めない。僕が送った物は、紙が良いのか、インクの質か、かなりましだった。
兄さんの字か、ホプラスの字かわからないが、子供の字で、《親愛なるエスカー》と書かれているのが読めた。大人らしいしっかりした文字は、牧師の先生の字だろう。
「ヴェンロイドには必要のない物だったからね。」
目の前の、死にかけた鬼を呆れて見返した。怒りはすでにないが、ただただ呆れた。
遺言があったとは言え、僕を跡取りに推したのは、結局は祖母だった。表向きは、「一番のお気に入り」「特別な贔屓の孫」だ。
それに対して、よくもまあ、十年以上も隠したものだ。
「死んだ後で見つかると、ガルシアかロミーが、『自分が隠した』と言い張るかもしれないからね。それじゃ、面倒だ。ああ、謝るつもりはないよ。……怒ったのかね?」
僕は黙っていたのだが、怒っていたわけではない。
「いえ、自分で気づけなかった事が、悔しいだけです。」
鬼は、皮肉に笑っていた。最初の時と比べ、縮んで弱々しくなった祖母だが、弱いのは見かけだけだった。
「お祖母様…。最期ですから、『大好きです』は白々しいにしても、『立派な方だと、尊敬していました。。』位の台詞は、用意していました。ですが、今ので、消し飛びました。
…棺桶の蓋は、特注で、万が一、生き返っても出られないように、うんと重いものにさせて頂きます。それが、僕の気持ちです。」
祖母は手を叩いて、からからと高らかに笑った。
「は!よく言った!それでこそ、ヴェンロイドだ。」
と、そのまま、笑い死にしそうな勢いで。
笑い声を聞き付けたのか、ロミーと、新顔の若いメイドがやって来た。薬の時間だというので、僕は部屋を出た。ガルシアに会って、棺桶以外も、今後の話をする必要があった。
居間に皆が集まっているはずなので、ガルシアもそこにいると思い、廊下を真っ直ぐ進んだのだが、庭に出てしまった。窓から声をかけた方が早いかと思ったが、父が居間にいるのが見えたので、とっさに隠れた。僕が祖母に会いに行っているうちに、到着したらしい。ミュリの姿はない。彼女の母も、現在、目が離せない状態と聞いている。それで、父が一人で来たのだろう。後ろ姿だが、メッサとグスティの姿が見えた。
やはり窓からはやめて、廊下に戻ろうとした時だった。
「ねえ、叔父様、エスカーは、まだ三つくらいだったんでしょ。それは、ちょっと、気の毒よ。」
メッサの声が聞こえた。話題が自分の事なら、さっき、声をかけなくて良かった、とほっとした。
「あの子の兄さんは、素直な、可愛らしい子だったんだが。母親によく似て。懐いてくれた。」
父の口調は、言い訳がましかった。グスティが、メッサよりは明るい口調で、
「仕方ないですよ。エスカーは、お祖母様に似ちゃったから。育てた人に似るんですよ。…でも、今は、愛想もいいですよ。王都は今、大変なんですから、労いの言葉くらい。」
と言っていた。
「苦手なものは、苦手なんだよ。母親の事も、僕のせいだと考えてるだろうから。」
と父が答えた時、ガルシアが、父を呼びにきた。目当てのガルシアが、父と出てしまったので、庭をうろついてから、屋敷の中に戻ろう、と思った。
「何、あの言い方。父親が、あれはないでしょ。だいたい、叔父様の責任には、違いないじゃない?」
「叔父様、ああいう方だから。…たぶん、そのもう一人の子、感情表現の豊かな、子供らしい子だったんだろうよ。」
「そうね、叔父様、金髪碧眼の、ふわっとした感じなら、苦手にはならないものね。」
「まあまあ…。叔父様があれなら、労うのは、僕たちでもできるし…。そういえば、君が去年植えた薔薇が…。」
庭のほうを見るかもしれないので、素早くその場を去った。
父に言われた事は、今さらなんとも思わなかった。
母の件に関しては、その頃には、ガルシアから、父が戻ったのは、葬儀への列席と金策のため(確かに、恋人を奪った事への償いか、先代は私有財産の一部を、父に残していた。)で、最初からミュリが目当てではなかった、と聞いてはいた。
だが、母はミュリの件を父から聞いていたため、帰郷には反対した。喧嘩して、無断で帰る事になったため、母は捨てられたと思い、自殺した。
後にホプラスさんや兄さんから聞いた話と合わせると、母は繊細で、思い詰めるタイプだったようだ。おそらく、何かを抱え込んだら、思い込んで、周囲の意見を聞かなくなる面があったのかもしれない。
だから、母の死に関しては、全てが父のせいだとは、思わないようにしていた。しかし、母の葬儀はおろか、僕を迎えにくるのも、人に任せた事は、父の「冷淡さ」だという気持ちが拭えなかった。
ラズーパーリの事件の時も、魔法院に手紙をくれたのは、父ではなく、ミュリだった。兄さんの事に関しては、「引き取っておけば良かった。可哀想に。」と言っていたらしいが。鬼でなければ、それ位は言うだろう。
この時、ようやく理解したが、父は冷淡なのではなく、臆病だったのだ。
今さら、それに傷つく気持ちはなかった。それより、僕を嫌っていると思ってた、従兄弟二人が、好意的だったのに驚いていた。
庭から戻りかけ、行きには目につかなかった、白い小さな薔薇の茂みが見えた。蕾が大半だが、一輪だけ、丁度よく開いている。
白い花は好きだ。柔らかだが、触れるのをためらわれるような、清らかな所が。
僕は暫く、その花を眺めていた。そして、そっと手を伸ばし、一番外側の花びらに、触れようとした。
「ああ、ここにいたんだ、エスカー。」
グスティが、屋敷の側から姿を表した。
「いいだろう、それ。メッサが植えたんだ。あいつ、最近、薔薇に凝ってて。」
「綺麗だね。でも、香りがほとんどないから、最初は気付かなかった。」
「蜜蜂がこっちに来て、仕事しないと困るから、香りの弱いほうがいいだろ。」
それから僕達は、ガルシアが呼びにくるまで、他愛もない話を続けた。
さきほど、思いがけない好意に触れた事もあり、この後も、珍しく話が弾んだ。
祖母は、結局は、翌年の早春に他界した。遺言書はあっさりしたもので、個人の財産を息子と孫に平等に分けた他、メッサには結婚時の持参金として、余分に残した。今後の方針に関する遺言がないので、ミヘイル伯父が質問したが、弁護士の返事は、
「当主はアプフェロルド様なので、自分が言い残す事ではない、との事です。」
だった。
葬儀で、取引先の業者の人達と話した。
祖母はヴェンロイドの直系ではなく、又従兄弟と結婚して、ヴェンロイドになった。父が産まれた年は、寒波で収穫が落ち、ソーダの工場で事故があり、チューヤに持っていた土地が内乱で奪われるなど、さんざんな年で、とどめに、祖父が死んでしまった。
「大奥様がいなければ、私達は、みな、破産していました。」
と、付き合いの長い商人は、感慨深く語っていた。
僕はすでに宮廷魔術師になり、宰相でもある師匠の下で働いていた。ヴェンロイド領には、年に三回くらいしか帰れず、それも複合体戦が本格化してからは怪しかった。幸い、ヴェンロイド領付近は、エレメントが安定していたため、祖母の言った通り、驚くほど独りでに回ってくれた。
グスティとメッサは、複合体戦が終わり、後始末が落ち着き始めた頃に、結婚した。従兄弟同士のため、教会の許可が必要だったが、あっさりと出た。貴族は一般市民に比べて、身内同士の婚姻が多く、国王も(ディニィ姫の父)、憂えていたのだが、バーガンディナ姫が公爵家の従兄弟と結婚した手前もあり、何か「意見」を公表する事もなかった。
グスティがメッサを意識したきっかけは、祖母の形見分けをしていた時に、アルバム(当時は写真は貴重品だった。)に、学生時代の先代を中心に、魔法院の制服を着た学生が、数人写っている写真を見た時だ。アルバムの同じページに、学生との物とは異なる、華やかな男女のポートレート写真があったのだが、そのうちの一枚が、メッサに似ていた。グスティは、ランシーヌ伯母の若い頃かと思ったらしいが、それは、当時、王都で一番人気の、オペラ歌手のものだった。
赤毛で小柄、そばかすの目立つ顔立ちは、美人とは言えないが、愛嬌があり、村娘の衣装に身を包み、笑顔で歌う姿は、可愛らしかった。
アルバムを見たミヘイル伯父が、兄はこっちの歌手のほうが贔屓で、と、隣の金髪の、神官に似た衣装で、男性の歌手によりそっている女性を示していた。男性の歌手は、つい最近まで現役だったので、伯父にはその話をしたが、グスティは、赤毛の歌手の写真を、アルバムから取り出して眺めていた。色は白黒の写真に、後からつけたもののはずだが、赤毛に親近感が沸いたのかもしれない、と思っていた。
グスティは、後に、
「それまで、美人だと思った事はなかったけど、よく似た『美人画』を見てから、改めて見ると、なんだか急に、魅力的に見えた。」
と語った。
結婚式には、僕は兄さんとホプラスさんと一緒に、ヴェンロイド領に戻って、出席した。
ホプラスさんは遠慮していたが、
「英雄二人を手土産にしたいんですよ。」
と頼んだら、照れつつも承知してくれた。
再会した兄さんと父は、意外に楽しく話していた。ミュリを紹介された時は、ちょっと複雑そうだったが。
「君達のお母さんに、感じが似てるね。」
その様子を見ながら、ホプラスさんが僕に言った。
「僕は顔立ち以外はあまり記憶がないんですが。」
「うん、『ふんわり』した人だったかな。妹さん、ルーミの叔母さんは、気丈な人だったけど。」
同じ町内の宿屋に嫁いだ叔母は、僕達を引き取るのを嫌がった、と聞いている。ホプラスさんは、町の人から聞いたのか、事情を知っていて、話してくれた。
早くに夫に死なれた母は、自分の両親もほどなく他界しため、一人でパン屋の運営を始めたが、お嬢様として育てられたせいか、はたまた女一人と嘗められたのか、直ぐにうまくいかなくなった。
妹夫婦は最初は助言をした。が、もともと、姉妹仲は良くなかった。両親の方針で、姉だけに店と財産を残して、お嬢様としての教育をし、結婚相手も吟味したが、反対に妹はほったらかしだった。結婚時も、持参金の額で嫁ぎ先と揉め、一度は破談になりかけた。幸い、結婚相手本人が、「持参金なんかなくて良いから、彼女と結婚したい。」と言い張ったので、相手の両親も折れた。
叔母としては、そうまで両親に大切にしてもらっていたにも関わらず、金のない風来坊(と思われていた)と再婚し、死んだら金庫は空っぽ、店も人手に渡る、それで子供の面倒を見ろ、では、確かに納得いくまい。
義理の叔父は、引き取ってもよい、と一時は言ったそうだ。叔母も後から軟化したらしいが、その頃には、兄さんが教会を離れたがらなかった。
なお、兄さんの父親の実家は、「婿に出した息子は他人」という、当時の田舎の農村の典型だったため、母の再婚前から、一切の援助はせず、母の葬儀にも来なかった。
「直接、ルーミを見てれば、気が変わったと思うけどね。」
父親も色白の金髪碧眼と聞いていた。だが、言うと嫌がるが、兄さんの顔立ちは、母に似ていた。
兄さんは、花嫁衣装のメッサと踊っていた。その姿を、ホプラスさんは、夢を見るような表情で、優しく見つめていた。
ホプラスさんは、昔は、もっと切望した瞳で、踊る兄さんを見ていた。ラッシルのあの夜、コーデラのその夜、と。
永遠に手に入らないものを見るような、切ない瞳で。
だが、その時、メッサと踊る兄さんを見る、彼の目には、もはや別の光が宿っていた。
それは、もう、人に奪われる心配の無くなった宝物を、存分に愛で、慈しむ光だった。
歳月は流れ、兄さんは姫と踊っていた。みな、二人の姿に夢中だった、祝いの夜。
もし、あの時、僕が鏡を見ていたら、自分に宿る光、いや、陰の色に、気付けただろうか。
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