第23回 不完全と無限とその先の文学 お題:円周率
ようやく九月らしい風が吹くようになったと言うのに、その九月は既に終わりかけている。揺れるクリーム色のカーテンに視界を遮られながら、僕は開かれていた窓を閉めた。冷たい空気が遮られてなお、僕の身体を震わせる。
振り返った先にあるのは、どこか古めかしい部屋。木のタイルの床に、隅に置かれた重厚な本棚、そして旧式のパソコン。教室と同じ机と椅子のセットが二つと、どこか陰気臭さを感じる薄暗いこの部屋は、僕達文芸部の部室だった。
「風邪引きますよ、部長」
「あぁ、風が気持ちよかったのに」
そう残念そうに頬杖を付いたのは、一個上の先輩、部長。気だるげな表情と、どこか胡乱げな目に僕の視線は吸い込まれる。まるで不思議に包まれたような部長だけれども、彼女は間も開けずに「クシュン!」と可愛らしいくしゃみをした。
「ほら、言わんこっちゃない」
「うむ。明日からは窓は開けないでおこう」
「それがいいと思います」
彼女は素直に頷きながら、ポケットティッシュで鼻をかむ。僕はその時、彼女の手元にあった原稿用紙に目を移した。書きかけの原稿用紙。恐らく、部誌に掲載するもの。彼女の小説。
脳が自然と連想を始める。九月末。来月には文化祭。それが終われば部長は。
僕にはずっと気になっていたことがあった。聞こう聞こうと思って、いつの間にかこんな時期になってしまった。僕は聞く機会は今しかないと直感し、口を開いた。
「部長、ずっと気になっていたんですけど」
「んー? なんだい?」
「部長って、どうして原稿用紙を使うんですか?」
僕が一年生だった頃、先輩の三年生はみんな小説を書く時にスマホやパソコンを使用していた。そっちの方が楽だから。そっちの方が誤字脱字のチェックが簡単だから。便利だから。僕自身もそう思うし、僕が使っているのも部室にある旧式のパソコンにインストールされているWordだ。だけどそんな中、彼女だけは原稿用紙による提出を貫いていた。僕はその理由がずっと気になっていたのだ。
彼女は「うーん、そうだねぇ」と困ったように椅子に身体を預けて、ポツリと呟いた。
「円周率にパクられたくないから、かな」
「え?」
彼女の要領を得ない答えに、僕は間抜けな聞き返しをしてしまった。
「円周率って、無限に数字が続くでしょ? それも0..3333……みたいに同じ数字が続くこともなく、どこまでも終わらない」
「あぁ、はい」
「円周率の可能性は、無限だ。文字通り。つまり理論上は、円周率を二進数で文字に変換をすると、その変換した文字列のどこかに、私達の書いた小説が浮かび上がる訳だ。理論上はね」
「そんなこと、ありえ……うーん?」
「ありえなくはないだろう?」
「わかるような、わからないような」
「まぁ、あんまり気にしないほうがいい。私も教えてもらっただけで、受け売りだし」
「そうですか? でも、それがどうして原稿用紙を使う理由になるんですか?」
僕がそう聞くと、部長はニヤリと笑みを浮かべて、人差し指を原稿用紙に突き立てた。
「少なくとも、原稿用紙でなら……二進数に変換されることもないだろう?」
0と1の二進数で動いている電子機器を使っていないんだから、と彼女は笑った。だけど。
「そして本当は怖いんだ。私のこの文字が、偶然だとしても、数列の中にあるもあるのだと……認めることが」
憂いを帯びた表情で、部長はそう苦笑した。結局僕は、この日も小説を書けなかった。
◇
部長はよく不思議な哲学を口にする。この前の円周率も、ソレだろう。小説を書けないでいた僕に、彼女はまた哲学的なことを交えたアドバイスをしてくれた。
「完璧なんて目指すもんじゃないよ」
それはよく、僕が文章に詰まった時に部長が送ってくれた言葉だった。
「君はちょっと完璧主義なところがあるからねぇ」
目の前に座る彼女は、相変わらず胡乱げな瞳で僕を見ている。原稿用紙、置かれたペン、頬杖。対して僕は、スマホを手に持っている。
「Wordの方が、誤字に気が付きやすいので」
そう答えると、彼女は「そういうところだよ」と僕を指差した。
「完全な円がこの世に存在しないように、完璧なんてこの世には存在しないんだよ」
「……円周率が無限に続いているから?」
「おぉ、よくわかってるじゃないか」
と、彼女はカラカラ笑った。
「でも僕は、部長の過去の小説を、完璧だと感じました」
入部時に見た、部長の過去の小説。少年が虐げられていた少女を助ける冒険活劇。きめ細かな、文字。少女と少年の、子供らしい夢のある会話。訪れる危機、そして逆転。僕は彼女の小説に惹かれたから、この文芸部に入部したのだ。
部長は僕の言葉に少し驚いたように目を見開き、そしてお手上げのポーズを取った。
「その言葉は嬉しいけど……私は完璧じゃない。現に私は今、お手上げだ」
「部長も、書けないんですか?」
「これで最後かって思うと、どうしてもね」
部長は三年生だ。文化祭が終われば、必然的に引退となる。そして彼女の書く小説も、最後だ。前々から三部構成だと聞いていた。だからきっと、不安が重なっているのだろう。
「部長は、書けなくなった時。どうしてますか?」
僕の問いに「円が弧を描くように、遠回りをするんだ」と彼女は言った。
「例えば一緒に、散歩をしたり……媒体を原稿用紙にしてみるとか」
「なるほど」
僕は頷いて、部長と一緒に文芸部の席を立った。僕はその日、帰り道で原稿用紙を購入した。
◇
それでも結局上手く書けずに、文化祭は無事に終わってしまった。
部長は僕との散歩以降は見違えるように小説を書いていたから、きっと満足のいく形で終われたのだろう。文化祭の後に見せた彼女の笑顔は、とても晴れやかだった。
揺れるクリーム色のカーテンに視界を遮られながら、僕は開かれていた窓を閉める。冷たい空気が遮られてなお、僕の身体を震わせる。
振り返った先にあるのは、どこか古めかしい部屋。木のタイルの床に、隅に置かれた重厚な本棚、そして旧式のパソコン。教室と同じ机と椅子のセットが二つと、どこか陰気臭さを感じる薄暗いこの部屋は、僕だけの文芸部だった。
新入生が入部しなければ、来年には『廃部』の二文字がここに襲い掛かることだろう。そして僕自身にも、終わりの三文字がやってくる。僕の拙い文章では、勧誘できるかも怪しいところだ。僕が部長で、大丈夫なんだろうか。そもそも一人しかいないのだ。不安しかない。
それでも僕は、やらなければならないのだろう。
部長と過ごしたこの部屋を、文芸部を、失くしたくはないのだから。
僕は完璧なんかじゃない。どこまでも歪で、不完全だ。
でもそれは、完全な円が存在しないように、当たり前のことなんだ。
だから僕は。
それでも僕は。
きっと完璧を目指し続ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます