第15回 絶望の晴れ空 お題:天使

 書き出しはこうだ。


「彼女は白い衣服を身にまとい、雨の中で踊っていた。その姿はまるで、神話に出てくる天使ようだった」。



 それは僕が彼女にフラれて半年ほど経った時の、春の雨の日のことだった。


 雨が好きだった僕は、雨が降るたびにずぶ濡れになって家に帰っていた。だけど同棲をしていた彼女は、あまり良い顔をしなかった。思えばそれが別れることになった原因だったのだろう。付き合い始めて一年半、同棲を始めて三ヶ月の彼女との縁は、秋の雨の日に途絶えて消えた。


 早急に、そして速やかに行われた引っ越し作業によって、僕の部屋の所々には空白が目立つようになった。まるでピースを失くしたパズルのような、いびつな自分の部屋を眺めて、僕は遂に失恋を自覚して床に雨を降らせた。


 その日を境に僕は、濡れることをどうしてか止めてしまった。傘を差すようになり、雑踏の中に混じるようになった。


「それが普通だよ」と友人たちは言った。

「前がおかしかったんだよ」とも。


 僕は言われるたびに、苦笑いで返していたような気がする。


 ともかくとして僕は半年ほど死んだように生きていた。

 彼女と出会うその時までは。



 講義が終わって、いつものように家に帰ろうとバスに乗ろうとした時だ。ふと目を向けたシャッター通りに、白い人影が入っていくのが見えた。雨にもかかわらず、だ。


 友人たちに「どうしたんだよ?」と腕を引かれたが、無性に気になった僕は人影を追うことにした。友人たちには忘れ物をしたと誤魔化した。


 雨の中、傘を差してシャッター通りを歩く。雨を送り続ける灰色の空と同じような、灰色のシャッターが大半を占めるこの商店街は、廃墟のように寂しかった。大学の近くにあるこの商店街は、数年前までは賑やかだったと聞いていたのに、それも今や昔。


 もはやこの通りに人一人としていない。そんな通りで、どうして白い人影なんてものを見たのだろうか。


「幽霊……?」


 最初に思い付いた考えはそれだった。あの人影は、遠目からみても傘を差しているようには見えなかった。つまり普通ではないのだ。白い人影はどこかぼんやりとしたようにも見えたし、幽霊と考えれば人気の少ないシャッター通りで見えたことにも不自然はない。がしかし、ならば夜でもないのに出てきた理由はなんだろうか。


 そんなことを考えながら、しばらく辺りを見回しながら歩いた。けれども、白い人影を再び見ることはできなかった。単に見間違いか、本当に幽霊だったのか、それとも別のなにかだったのか。


 結局無駄足だったな、と思いながら、僕は白い人影の正体を諦めて歩いて帰ることにした。今からバス停に戻ってバスを待つよりも、歩いた方が早いからだ。そうして僕はシャッター通りを通り抜けた。


「───」


 すると突然、降り注ぐ雨の音に混じって、綺麗な鼻歌が耳に届いた。それはとても柔らかい、女性特有の音だった。僕の足は自然と早まった。


「───フンフン、フン」


 彼女を目にした時、僕は思わず傘を手放した。



「彼女は白い衣服を身にまとい、雨の中で踊っていた。その姿はまるで、神話に出てくる天使ようだった」。



「おや?」


 彼女は立ち尽くした僕に気が付くと、こちらを向いてニッコリと人懐っこい笑みを浮かべた。


「こんにちは」

「こ、こんにちは」


 スキンカラーのショートパンツに、白いシャツ。茶色のポニーテールと、深々と被った白いキャップ。全体を白を基調とした服装の彼女は、灰色の空を背にして雨に濡られていた。


 彼女はキャップの位置を調整して僕と目を合わせると、濡れた道路に落ちたビニール傘を指差した。


「傘、差さないの?」

「あなたも……差さないんですか」


 質問を質問で返してしまったと言うのに、彼女は気にする様子もなく人差し指を顎に宛がった。


「わたしはほら、雨に濡れるのが好きだから。君も……そうだったりする?」


 その言葉に僕の身体は、途端に硬直した。そしてどうしてか、昔のことを思い出した。


「雨は好きじゃないの」と元カノの彼女は言った。僕の友達も彼女の友達も、皆同じようなことを口にしていた。雨の日は外で遊べなくなるから、濡れるから、移動が大変になるから。そう言っていたことを、僕は未だに覚えている。


 世間も雨が好きではないらしい。ある日、テレビの向こう側のアナウンサーが「今日も雨が降りそうです」と、少し眉を寄せて、残念そうにそう言っていたことを僕は未だに覚えている。ニュースキャスターもそれに同意するように頷いていたことを、僕は覚えている。


 僕以外の人間は、皆して晴れを求めているみたいだった。僕にはそれが、とても悲しかったんだ。


 僕は雨が好きだ。雨粒達の生命の循環の元に身体を晒して濡れることが、なによりの快感だった。心の汚れを洗い流してくれているようで、好きだった。


 濡れることを止めた僕に「それが普通だよ」と友人たちはかつて言った。

「前がおかしかったんだよ」とも。


 本当はそれに言い返したかった。本当は理解して欲しかったんだ、僕は。


 だから僕は彼女のその言葉を耳にして、どこか浮ついている身体をなんとか動かして。


 僕は彼女に跪き、右手を伸ばした。


「僕も……僕も好きです。雨が、愛おしい程に。だからどうか、一緒に踊っていただけませんか」


 彼女はそれに、手を添える形で答えてくれた。



 と、そこまで書いて、俺は原稿用紙をくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。


 もう何枚無駄にしたのかすらわからない。


 頭を掻きむしって、身体を放り投げるようにして体重を背もたれに預ける。苦節十年ほどの付き合いにもなる椅子は、ギシィと不満気な声を上げた。カーテンの隙間から覗く光が、痛々しいほどに眩しかった。

 

 俺は立ち上がって、カーテンを開けて確かめるように窓の外を見た。


 けれども空は、雲一つない晴天だった。それこそ本物の天使でも降りて来そうなほどの。

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