第15回 絶望の晴れ空 お題:天使
書き出しはこうだ。
「彼女は白い衣服を身にまとい、雨の中で踊っていた。その姿はまるで、神話に出てくる天使ようだった」。
◆
それは僕が彼女にフラれて半年ほど経った時の、春の雨の日のことだった。
雨が好きだった僕は、雨が降るたびにずぶ濡れになって家に帰っていた。だけど同棲をしていた彼女は、あまり良い顔をしなかった。思えばそれが別れることになった原因だったのだろう。付き合い始めて一年半、同棲を始めて三ヶ月の彼女との縁は、秋の雨の日に途絶えて消えた。
早急に、そして速やかに行われた引っ越し作業によって、僕の部屋の所々には空白が目立つようになった。まるでピースを失くしたパズルのような、いびつな自分の部屋を眺めて、僕は遂に失恋を自覚して床に雨を降らせた。
その日を境に僕は、濡れることをどうしてか止めてしまった。傘を差すようになり、雑踏の中に混じるようになった。
「それが普通だよ」と友人たちは言った。
「前がおかしかったんだよ」とも。
僕は言われるたびに、苦笑いで返していたような気がする。
ともかくとして僕は半年ほど死んだように生きていた。
彼女と出会うその時までは。
◆
講義が終わって、いつものように家に帰ろうとバスに乗ろうとした時だ。ふと目を向けたシャッター通りに、白い人影が入っていくのが見えた。雨にもかかわらず、だ。
友人たちに「どうしたんだよ?」と腕を引かれたが、無性に気になった僕は人影を追うことにした。友人たちには忘れ物をしたと誤魔化した。
雨の中、傘を差してシャッター通りを歩く。雨を送り続ける灰色の空と同じような、灰色のシャッターが大半を占めるこの商店街は、廃墟のように寂しかった。大学の近くにあるこの商店街は、数年前までは賑やかだったと聞いていたのに、それも今や昔。
もはやこの通りに人一人としていない。そんな通りで、どうして白い人影なんてものを見たのだろうか。
「幽霊……?」
最初に思い付いた考えはそれだった。あの人影は、遠目からみても傘を差しているようには見えなかった。つまり普通ではないのだ。白い人影はどこかぼんやりとしたようにも見えたし、幽霊と考えれば人気の少ないシャッター通りで見えたことにも不自然はない。がしかし、ならば夜でもないのに出てきた理由はなんだろうか。
そんなことを考えながら、しばらく辺りを見回しながら歩いた。けれども、白い人影を再び見ることはできなかった。単に見間違いか、本当に幽霊だったのか、それとも別のなにかだったのか。
結局無駄足だったな、と思いながら、僕は白い人影の正体を諦めて歩いて帰ることにした。今からバス停に戻ってバスを待つよりも、歩いた方が早いからだ。そうして僕はシャッター通りを通り抜けた。
「───」
すると突然、降り注ぐ雨の音に混じって、綺麗な鼻歌が耳に届いた。それはとても柔らかい、女性特有の音だった。僕の足は自然と早まった。
「───フンフン、フン」
彼女を目にした時、僕は思わず傘を手放した。
◇
「彼女は白い衣服を身にまとい、雨の中で踊っていた。その姿はまるで、神話に出てくる天使ようだった」。
◆
「おや?」
彼女は立ち尽くした僕に気が付くと、こちらを向いてニッコリと人懐っこい笑みを浮かべた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
スキンカラーのショートパンツに、白いシャツ。茶色のポニーテールと、深々と被った白いキャップ。全体を白を基調とした服装の彼女は、灰色の空を背にして雨に濡られていた。
彼女はキャップの位置を調整して僕と目を合わせると、濡れた道路に落ちたビニール傘を指差した。
「傘、差さないの?」
「あなたも……差さないんですか」
質問を質問で返してしまったと言うのに、彼女は気にする様子もなく人差し指を顎に宛がった。
「わたしはほら、雨に濡れるのが好きだから。君も……そうだったりする?」
その言葉に僕の身体は、途端に硬直した。そしてどうしてか、昔のことを思い出した。
「雨は好きじゃないの」と元カノの彼女は言った。僕の友達も彼女の友達も、皆同じようなことを口にしていた。雨の日は外で遊べなくなるから、濡れるから、移動が大変になるから。そう言っていたことを、僕は未だに覚えている。
世間も雨が好きではないらしい。ある日、テレビの向こう側のアナウンサーが「今日も雨が降りそうです」と、少し眉を寄せて、残念そうにそう言っていたことを僕は未だに覚えている。ニュースキャスターもそれに同意するように頷いていたことを、僕は覚えている。
僕以外の人間は、皆して晴れを求めているみたいだった。僕にはそれが、とても悲しかったんだ。
僕は雨が好きだ。雨粒達の生命の循環の元に身体を晒して濡れることが、なによりの快感だった。心の汚れを洗い流してくれているようで、好きだった。
濡れることを止めた僕に「それが普通だよ」と友人たちはかつて言った。
「前がおかしかったんだよ」とも。
本当はそれに言い返したかった。本当は理解して欲しかったんだ、僕は。
だから僕は彼女のその言葉を耳にして、どこか浮ついている身体をなんとか動かして。
僕は彼女に跪き、右手を伸ばした。
「僕も……僕も好きです。雨が、愛おしい程に。だからどうか、一緒に踊っていただけませんか」
彼女はそれに、手を添える形で答えてくれた。
◇
と、そこまで書いて、俺は原稿用紙をくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
もう何枚無駄にしたのかすらわからない。
頭を掻きむしって、身体を放り投げるようにして体重を背もたれに預ける。苦節十年ほどの付き合いにもなる椅子は、ギシィと不満気な声を上げた。カーテンの隙間から覗く光が、痛々しいほどに眩しかった。
俺は立ち上がって、カーテンを開けて確かめるように窓の外を見た。
けれども空は、雲一つない晴天だった。それこそ本物の天使でも降りて来そうなほどの。
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