第2回 あゝ、待ち望む君に希望を お題:VR上だけでの恋愛


 青白く輝く月の下で、淡く光を放つ花の畑に囲まれて、わたしは少しほろ苦いキスをしました。


 空に浮かんでいる月は手を向ければすっぽりと埋まるように大きく、そして近くにあり、月と同じように青白く輝くアネモネの花畑はわたしたちを慰めるかのように咲き誇っていました。こんな綺麗で、幻想的な景色のなかで、好きな人とキスをする。こんなにも幸せなことは他にはありません。ですがそこに少しの苦さを感じるのは、この景色が、身体が、世界が、”つくりもの”であるからなのかもしれません。


 ここはバーチャルリアリティ空間、通称VR。点と面の集まりによって構成されたこの世界は、そしてわたしたちの関係は、『VRWorld』というゲームの中にしか存在しえないのです。


「Syouさん……」


 キスはやがて、終わります。唇と唇、身体と身体が離れますが、その間に唾液の糸が引かれることはありません。つくりものの身体では、彼の体温も、熱も、匂いも、感触すらも感じることはできないのです。このVR上で”のみ”のお付き合いすることがどんなに切ないものなのかをわかっていたつもりではいましたが、反してわたしの瞳からは熱い雫があふれ出て、視界は曇りました。


「泣かないでよ、ミナ子さん」


 そう言って彼は、黒いスーツに身を包んだ男性アバターの恋人は、わたしの声に気が付いてか優しく右頬に手を添えながら微笑んでくれました。Syouさんは優しく、気遣いのできる良い方です。このゲームを始めたばかりの頃に偶然出会い、お互いわからないことがありながらも一緒に遊び、わからないことがあったら丁寧に教えてくれて、ゲームで負けるとちょっと子供っぽくなったり。そしてわたしの大学での相談事にも乗ってくれたのです。自然と距離が縮むのは、当たり前のことでした。


 わたしは彼の言葉に思わず胸に飛び込みました。彼は優しく頭を撫でてくれますが、それは視界情報だけで、感触はありません。


 つくりもの、つくりもの、つくりもの。


 身体も、世界も、顔も、そのどれもがつくりものです。わたし達の声だって、スピーカーを通して電子記号に変換されたつくりものに過ぎません。もしかしたらわたしの想いも、彼の想いもつくりものなのかもしれない。そう思うと涙は止まらず、くぐもった声を上げることしかできませんでした。


 本物はだめなんです。こんなことで泣いては。VR上でのみのお付き合いは切ないものだとお互いに承知して恋人関係を結んだのですから。Syouさんに失望されてしまってもおかしくありません。


 VR上のみのお付き合いは、現実でのお付き合いとは訳が違います。一緒にいることはできても、一緒にご飯を食べることはできても、一緒に寝ることができても、触れることがどうしてもできないのです。そしてVR上でのお付き合いには、明確なゴールがありません。結婚もできず、子供も作れず。だから他の方のお付き合いのお話は、破局に至ってしまうものが多いのだと、わたしは思います。


「明後日から一週間出張するだけなんだからさ」


 彼の言葉に、わたしはなんとか頷きます。彼はわたしと違い、社会人です。色々な事情があるのはわかっていますが、この希薄な関係性の上で成り立っているわたしたちに、一週間は、とても長く感じるのです。


 つくりもの、つくりもの、つくりもの。


 この世界にはつくりものしかありません。しかし、わたしは信じたいのです。わたし達の想いだけは、本物だと。


 時刻は二十四時を回り、お別れの時間がやってきました。わたしたちに与えられた時間は、午後二十時から二十四時までの四時間のみ。繰り返しになりますが、彼は社会人です。明日も仕事があれば、出張前の準備もあって忙しかったことでしょう。それでもこうして四時間を目一杯わたしのために使ってくれるのは、わたしを愛してくれているから、と思いたいのです。


 わたしは一生懸命手を振って、彼を見送ります。彼はそれに微笑み手を振り返して、そして一瞬で姿を消してしまいました。このゲームから、ログアウトをしたのです。


 残されたわたしは、彼の気遣いを確かめるようにその場で立ち尽くしました。空を見上げても、青白く輝く月は一ミリも動いてはいませんでした。



「それで看那みなはこんなにしょぼくれてんのね」

「そうなの。だからVR上での恋愛はやめとけって言ったのに」


 大学でのお昼休みを机の上で突っ伏していると、聞きなれた友達の声が聞こえました。思わず顔を上げて振り返ると、そこには大学からの友達、男勝りな咲軌さきと、隣にはわたしをVR世界に誘い込んだ張本人のオタク、理央りおがいました。


わたしは理央の言葉に少しムッ、としましたが、二人共心配そうな顔でわたしを見ていたので少しだけ申し訳ない気持ちになりました。

「一週間って言ったってあと四日だけじゃない。そんなに不安なの?」


 咲軌はそう言って首をかしげます。えぇ、不安です。不安ですとも。もしかしたら彼の言った出張は嘘で、他の女の人と遊んでいるかもしれないのです。……そんなことを考え付くわたし自身に嫌気が差します。彼がVRWorldにログインしなくなって三日が経過しましたが、わたしの頭の中は既にぐちゃぐちゃでした。


「咲軌ちゃんはわかってないなぁ。いい? VR上での恋愛っていうのはね───」


 そうして理央はペラペラと得意げにVR上の恋愛について語ります。彼女の語り癖は今に始まったことではないので、わたしも咲軌も三分の二ほど聞き流しながら話を戻しました。


「不安なんです」

「見るに明らかだ」

「このまま彼がどこかに行ったまま帰ってこないんじゃないかと思うとたまらないんです」

「乙女だね、看那は」

「そんなことを思う自分が情けないです」

「重症だこりゃ」


 わたしの自棄に咲軌はお手上げのようなポーズをしました。ですが「あっ」と何かを思い付いたかのように声を上げると、腕を頭の後ろにしてわたしを見ました。


「その彼からはなにかなかったの? お別れの前にさ」

「なにかって……なんですか?」

「いやほら、普通はそういう時って『愛してるよ』とか『必ず帰ってくるよ』とか言ってくれるんでしょ? 男って」

「そうなんですか?」

「いや、知らんけど。友達から聞いた話だし」


 咲軌は「ともかく!」と話を戻しました。


「彼からの意思表明よ、意思表明。なにか言われなかったの?」


 そう言われて、わたしは出張前日に彼と会った時のことを思い出します。あの日の夜だけは、泣きませんでした。心配させてはいけないと思っていたからです。そしてその後、彼はなにも言わずに、ただずっと傍にいてくれました。そしてそうです。別れ際に、一輪の花を貰ったのです。


「花を……もらいました」

「花?」

「はい。花です」

「なんの花?」

「確か……アネモネです」

「それって……いや、色は?」

「色?」


 わたしがアネモネの色を伝えると、咲軌はなにかに気が付いたように目を見開きました。そしてコッソリ、わたしにある花言葉を教えてくれました。どうして咲軌がアネモネの花言葉なんかを知っていたのかは、わかりません。彼女も彼女で、もしかしたら乙女っぽいところがあるのかもしれません。


「で、あるからしてVR上の恋愛はそう呼称されていて───」


 理央の説明は、未だ終わる気配をみせませんでした。



 わたしは再び、青白く輝く月の下に居ました。彼が出張に行ってからも毎日のようにこの場所に訪れては泣いていましたが、今のわたしはもう、泣きませんでした。彼の想いが、ほんの少しだけですが、わかったからです。


 わたしは彼から貰った、アネモネの花を手に持ちます。そのアネモネは周りに咲いているものとは違い、わたしのつくりものの身体の色と同じような、ピンクの色をしていました。わたしは最初、これをなんてことないプレゼントだと思っていたのですが、これは彼の立派な意思表明でした。帰ってきたら、ごめんなさいをしないといけません。


 もしかしたらわたしたちの関係は、世間からみたら歪なのかもしれません。いつか終わりがくるのかもしれません。自然となくなってしまうのかもしれません。


 だけどそれは、きっと今ではないのです。


 わたしは一輪のアネモネを優しく両手に握り、彼を思います。彼もまた、わたしを思ってくれているように。


 彼が帰ってきたら、わたしもピンク色のアネモネをプレゼントをしましょう。


 だって、ピンク色のアネモネの花言葉はですね?

 ふふ、そう、特別なんです。

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