第33話 血染めのキャンドル型ネックレス
エマが部屋に突入するころには、すでにアブサンに変貌していた。部屋の扉はめちゃくちゃに破壊され、そこに現れたのは、血に飢えたモンスター、アブサンだった。
狂気に満ちた目で人々を見渡すアブサンの姿に、その場にいた全員に戦慄が走った。見たこともない異形のモンスターの登場に、パニックに陥った人々は狂ったように逃げまどい、誰もが我先にと出口を目指した。
闇組織のボスである伯爵を守ろうとする者はもはや誰もいなかった。彼のために命を捧げようとする忠誠心は、恐怖の前に無力だった。
そこにはもはや階級の差も、貧富の差も、見た目の美醜もなかった。ただ命を奪われる恐怖だけが支配する平等な空間が広がっていた。皆が同じ恐怖の中にいたのだ。
「誰か!助けてくれ!」その声は空しく響くだけだった。
血の匂いに興奮したアブサンは、伯爵を追い詰めるように一歩一歩近づいていった。伯爵はアブサンに対して拳銃を向けるが、手が震え、まともに狙いを定めることすらできなかった。その冷酷さで名を馳せた伯爵も、この時ばかりはただの怯えた無力な人間でしかなかった。
「来るな、化け物!」と叫びながら、伯爵は発砲した。しかし、アブサンの鋼のような肌はその弾丸を弾き飛ばし、傷すら負わせることはできなかった。焦りと恐怖で次々と発砲するも、アブサンは一切ひるまず、次第に伯爵との距離を縮めていった。燃え上がる伯爵への憎しみが、アブサンをさらなるパワーとなって包んでいるようだった。
伯爵はついに壁際に追い詰められ、アブサンが巨大な影となって覆いかぶさるように立ちはだかった。伯爵は最後の力を振り絞ってアブサンに向かって発砲したが、その弾は虚しく壁に吸い込まれていった。
冷徹に伯爵を見下ろしたアブサンは、無言のままその鋭い爪を振り下ろした。伯爵の絶叫とともに、アブサンの一撃が伯爵の胸を深くえぐると、ついに絶命した。
アブサンの最期の復讐劇は、まさにその頂点を迎えたのだった。
伯爵を始末したアブサンは、鋭い爪を血で染めたまま、次にルカへと向き直った。
エマの面影は完全に消え去り、弾丸を弾き飛ばす暴虐な猛獣と化したアブサンを前に、ルカは、切なさと哀しみで胸が張り裂けそうだった。
「エマ?」心のどこかにまだエマが残っていると信じたかったルカは、わずかな希望を込めて優しく呼びかけた。
しかし、その声に応じることなく、そのエメラルドグリーンの目には、ただ残忍なモンスターとしての本能だけが輝いていた。
アブサンは、容赦なくルカに襲いかかると、その鋭い爪で彼の額をひっかいた。
「ううっ」と傷口を手で押さえたルカに、アブサンが背後からさらに襲いかかってきた。
ルカは、アブサンの中にいるエマの存在を信じたいあまり、発砲を躊躇していたのだ。しかし、エマのほんの少しの人間性すらも消え去り、アブサンの暴走が止まらないことを悟った瞬間、胸元から銃を取り出した。
「エマ、ごめん!」ルカはそう叫ぶと、ついに拳銃の引き金を引いた。
立て続けに3発の銃声が響き、そのうちの1発がアブサンの胸部に命中した。
奇妙なことに、伯爵の弾丸は弾き飛ばしたアブサンだったが、ルカが発した弾丸は、その鋼のような皮膚に深く食い込んだ。
大切な人の手で最期を迎えたい、というエマの切なる願いが、ルカの発した弾丸を、アブサンの身体を通り抜け、自らの心臓に導いたかのようだった。
撃たれた衝撃で後ずさりしたアブサンは、痛みを感じるかのように一瞬目を閉じた後、ゆっくりと目の前のルカを見つめた。その瞳には、エマの優しい微笑みと切なげな愛情が見え隠れしており、まるでエマの感情が一瞬だけ蘇ったようだった。
ルカに向かって震える手を伸ばしたアブサンだったが、その手は、空を切りルカに届くことはなかった。まるでエマが最後のを力を振り絞って、愛するルカに触れようとしているかのようだった。
やがてアブサンは、力尽きたようにゆっくりと床に崩れ落ちると、そのまま動かなくなった。見る間にアブサンの姿は消え、そこには血まみれで横たわるエマの姿が現れた。
「エマ!」ルカは悲痛な叫び声をあげてエマに駆け寄り、彼女を抱きしめると、胸元に顔を埋めた。ルカは、エマの温もりが消えていくのを感じながら、彼女を失う恐怖と絶望の中にいた。
エマの胸元に刻まれていたはずの紫の刻印は、いつの間にか消えていた。
魔女の復讐の呪いは、アブサンとエマの死とともに、跡形もなく消え去ったのだった。
ルカは、エマを抱きかかえると、裏口から邸宅を抜け出し、闇に包まれた森を抜け、崖へと向かった。エマの胸元を飾る血染めのキャンドル型ネックレスが、彼女の死を象徴するかのように、哀しい光を放っていた。
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