第31話 重なる思いと別れの予感

修道院から戻った翌日、エマはルカに呼ばれ、アッシュフォード伯爵邸のアトリエへと向かった。道すがら、エマの心は重くとも穏やかだった。もうすぐすべてが終わる。ある種の解放感のようなものがあったのだった。


アジールの最後の活動が、エマにとっての死を意味することを、彼女自身が一番よく理解していた。だからこそ、大切な人と少しでも長く一緒にいたい、という切なる思いでエマの胸はいっぱいだった。


邸宅に着くと、入り口でいつものようにセシルがエマを出迎えてくれた。


「こんにちは、セシルさん。急なお願いで申し訳ありませんが、庭園のすずらんの苗を分けてもらえませんか?」とエマはお願いをした。エマは、それをプチ・ペシェの前にある花壇に植えるつもりだったのだ。


「かしこまりました」とセシルは快く応じた。エマを庭園へと案内しながら、セシルは少しためらいがちに口を開いた


「ルカ様、最近とてもお忙しくされています。絵画の注文がひっきりなしで。私はルカ様がこのお屋敷に来た頃からお仕えしていますが、エマ様と出会われてから本当に変わられました。目に見えて情熱を取り戻されました。ただその熱意が少し、不自然に感じるほどです。まるで生き急いでいるかのように。」


「ああ、それはよかったです。ルカ様の絵はもっと多くの人に見てほしいです。」それは、エマの切なる願いだった。ルカが生き急いでいる、というセシルの言葉に少し引っかかるものを感じつつも、ルカが絵に込めた情熱を信じたい気持ちでいっぱいだった。


セシルは柔らかな笑みをこぼしながら、「すべてエマ様のおかげです。どうかずっとルカ様のそばにいてくださいませ」と告げた。その瞳には隠しきれない不安が揺れていた。


「もちろんです」とエマは穏やかに答えたが、その胸は締め付けられるような痛みに耐えていた。もうすぐ自分がこの世から消え去る運命にあることが分かっていたエマは、ルカのそばにいられない現実を噛みしめつつ、セシルの前では嘘をつくしかなかったのだった。


セシルは庭園から何本かのすずらんの苗を抜き取ると、丁寧に紙に包んでエマに手渡した。


セシルの不安そうな眼差しが気になりつつも、エマは、「ありがとうございます」とお礼を言うと、邸宅の中へと入っていった。


アトリエに入ると、ルカは薄布のかかった絵画の前で待っていた。


「エマ、来てくれてありがとう。見せたいものがあるから、こっちに来て」とルカは彼女を呼びよせた。


ルカが薄布を取り払うと、そこにはずすらんを手にカフェの前で微笑むエマの肖像画が現れた。


「これは。。。」エマは、感激のあまり胸がいっぱいになり、ただその絵を見つめるばかりだった。


「お前にプレゼントしたくて描いたんだ。もらってくれないか?」と微笑むルカに、「もちろんです。肖像画を描いていただいたのは初めてです。とてもうれしいです。ありがとうございます」とエマは声を弾ませた。


その肖像画には、ルカのエマに対する深い愛情が込められていた。しばらくの間、二人は肩を寄せ合いながら、無言でその肖像画を見つめていた。


静かな時間が流れる中、二人の間には柔らかな緊張感が漂っていた。


ルカはそっとエマの腰に手を回し、優しく引き寄せた。自然と引き寄せられるように顔を近づけ、互いの鼓動の響きを感じながら、そっと唇を重ねた。言葉にできないほどの安心感と喜びが広がり、まるで世界がその瞬間だけ止まったかのようだった。二人は互いの存在を確かめ合うように、さらに深く唇を重ねた。ルカの唇の温かさが、エマの心をゆっくりと溶かしていくようだった。


これまで育んできたお互いへの深い思いがようやく一つに重なりあったのだった。


しばらくして、二人はゆっくりと唇を離した。ルカは手のひらでエマの頬を包みながら、優しく見つめると、心の奥底に秘めていた思いを打ち明けた。


「初めて出会ってからここまで来るのに、ずいぶん時間がかかったな。お前に下手に手を出したら嫌われるんじゃないかって、ずっと心配してたんだ。お前とすずらんの純粋なイメージがどうしても重なってしまって。そんなことで悩んでいたなんて、俺らしくもないけど。」ルカは少し照れくさそうだった。


エマは微笑みを浮かべて、「すずらんは、可憐で穢れのない花に見えますが、実は猛毒を持っているんですよ」と得意げに言うと、ルカは目を細めてつぶやいた。


「そっか、それは怖いな。。。でも、お前がどんな毒を持っていようと俺は全然構わない。」


エマは静かに頷き、胸が締め付けられる切なさを感じた。自分を大切に思ってくれているルカへの気持ちが、彼女の決意を一層強くした。


迫りくる最後の闘いを前に、エマは人生で最高の幸せを感じていた。大切な人と共に過ごすささやかな時間こそが、何よりも尊いことを胸に刻みながら、その幸せが儚いものであることも理解していた。


エマは死を覚悟しながらも、その穏やかなひとときを噛みしめていた。ルカもまた、エマのその覚悟を受け止めようと、必死に葛藤していた。


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