第30話 エマとルカの決意と覚悟

カトリーヌが地下牢にエマの様子を見に行くと、アブサンはすでにエマに戻っていた。


疲れ切っているエマにカトリーヌが紅茶を差し出すと、エマは「ありがとう」と言って一口飲んだ。


「子供の頃、この紅茶、たくさん飲んだわね」と懐かしそうに語るエマに、カトリーヌは、「そうだったわね」と優しくうなづいた。


エマは、ティーカップに目をやりながら、静かに語り始めた。


「孤児だった私を救ってくれたあなたには、本当に感謝しているわ。私は、ただ運が良かっただけ。私が法を犯さず、真っ当な人生を歩んでこれたのは、私が特別だったからじゃない。ただ、そういった過酷な環境に置かれなかったから。」


エマは、自分が幸運だったことを噛みしめる一方で、法を犯してしまった者たちと自分とは紙一重の違いだった事実に深い痛みを感じていた。


「もし私があの立場にいたら、きっと同じように堕ちていたかもしれない。あの人たちとの違いなんて、ほんの僅かなものだった。。。」


その言葉には、悪事を働いた者への単純な怒りではなく、運悪く不遇な境遇に置かれてしまった彼らに対する複雑な感情が込められていた。


自分がその運命を逃れたことへの後ろめたさと逃れられなかった者たちを断罪することへの深い葛藤が、エマの表情に濃い影を落としていた。


「カトリーヌ、私は大切な人を苦しめてきた彼の父親、アッシュフォード伯爵を暗殺するつもりなの」とエマが決意を告げた時、カトリーヌはその言葉の重みを静かに受け止めた。ルカが受けてきた数々の仕打ちを語るエマの声には、とめどない怒りがこもっていた。


エマの衝撃的な告白に、カトリーヌは「そう」と穏やかに返したが、胸中は複雑だった。エマの奥底で燃え盛る復讐の炎は、決して消えることはない、と確信したカトリーヌは、やりきれない思いに胸を締め付けられていた。


「自分が傷つけられるより、大切な人が傷つけられる方がずっと辛いの」と、声を震わせながらつぶやくと、エマはじっと一点を見つめていた。


やがて顔を上げたエマは、かすかな微笑みを浮かべながらつぶやいた。


「復讐が生きる力にもなるなんて、皮肉よね。」その微笑みの奥には、諦めの色が滲んでいた。


カトリーヌは、そんなエマを見て、祈らずにはいられなかった。


「神よ、どうか、この哀しき宿命を背負ったエマをお守りください。」


神などいないとしか思えないこの不条理な世界で、神の存在を信じ続けてきたカトリーヌだったが、目の前で苦しむエマを救えない自分の無力さを痛感し、ただ嘆くばかりだった。


エマが落ち着きを取り戻すと、カトリーヌは、アルベールとルカが修道院に来ていることを伝え、二人の待つ会議室へと案内した。


エマが無事だったことが分かると、アルベールもルカも安堵の表情を見せた。


エマは、ここまで来てくれたアルベールと世話をしてくれたカトリーヌに感謝の意を伝えた後、ルカと二人で話したい旨を告げた。


二人が席を外すと、エマは何から話せばいいのか困惑していた。そんなエマをルカは長椅子に座らせると、彼も隣に腰を掛けた。


「だいたいのことはアルベールから聞いた。辛かったな。」


ルカの優しい言葉に、エマは首を横に振って言った。


「いいえ、私なんて恵まれています。世の中には私よりもずっと過酷な人生を強いられている人がたくさんいますから。。。もちろん最初は、なんで私ばかりがこんな目に遭うのかと、憤りを感じていました。


でもいくら抵抗しても何も変わらないことに気づいて、次第に諦めるようになったんです。すべてをあるがまま受け入れていこうって思ったんです。その方が楽だったので。それに。。。いろんな人の助けがあったからこそ、私はここまでやってくることができました」と笑顔を見せた。


さらにエマは、しっかりとルカを見つめながら、表情を引き締めて続けた。


「私、あなたのお父様、アッシュフォード伯爵がどうしても許せません。伯爵は、自分勝手な理由でこの街の多くの人々を苦しめてきました。ルカ様、あなたもその一人です。私は大切な人を苦しめた彼に復讐します。」


エマの並々ならぬ決意を知ったルカは、やり切れない思いでエマに尋ねた。


「俺は、おまえにそんなことをさせるほどの価値がある男なのか?」


エマは、目を細めながら、ルカを優しく見つめた。


「ルカ様、私はあなたの生き方が好きなんです。過去に囚われず、哀しみを抱えながらも、虚無の世界を軽やかに踊るように生きているあなたが。初めて出会ったあの日、あなたの瞳の奥に哀しみの色を見た時から、ずっとあなたに魅かれていました。」


エマの告白を聞いたルカは、エマへの愛おしさがこみ上げるのを抑えきれなかった。


「おまえに初めて会ったあの日、俺を哀しそうに見つめたおまえの瞳に、全てを見つけたんだ。俺がどんなに崩れても、いつもおまえはその優しさで包み込んでくれた。おまえがいなければ、俺はもうとっくに押し潰されていたかもしれない。」


そうルカが告げると、エマはうれしそうにはにかんだ。


「あの日から、俺の人生はおまえにかき乱されっぱなしだ」とルカが笑いながらぼやくと、「お互い様ですよ」とエマもくすっと笑って言い返した。


その瞬間、二人の間の緊張が溶け、ルカはエマを強く抱き寄せた。しばらくの間、二人はお互いの深い思いを確かめ合うように時の流れを共有していた。ルカはエマの瞳を優しく見つめながら、愛おしげに髪を撫でた。エマもまた、ルカの胸に顔を埋めて彼の心音を聞きながら静かに微笑んだ。しかし、その微笑みの裏には、これから告げる言葉への覚悟が潜んでいた。


「ルカ様、お願いがあります。今回の計画が終わりましたら、アブサンを退治してほしいんです。」


ルカは驚きのあまり言葉を失った。


「アブサンを消すということは、エマ、おまえを消すということなんだぞ。そんなことできるわけがない。」


ルカは、信じられないという表情でエマを見つめた。エマは、目を伏せると、深く息を吐いた。


「私はこれまでに多くの命を奪ってきました。どんな理由があったとしても、彼らにも愛する家族や友人たちがいたはずです。私は自分が正しいことをしてきたとは思っていません。多くの人を苦しめてきたのですから、私もまた裁かれるべきなんです。


それに。。。いつかアブサンが私を完全に飲み込んでしまうのが怖いんです。自分を失って、いつか大切な人を殺めてしまうことがあるかもしれません。その中にあなたがいるかもしれないと思うと、それが一番怖いんです。その日はそう遠くないはず。だから、取り返しのつかないことが起こる前に、アブサンを、私を抹殺してください。」


エマの凛とした態度に、やるせない思いに駆られたルカは、再び彼女を強く抱きしめた。その腕には、エマを何とかして守りたい気持ちと、何もできない自分への苛立ちが交錯していた。


「自分が大切な人を殺したくないから、俺におまえを殺せと?なんて自分勝手なやつなんだ?それがお前が本当に望むことなのか?俺がお前にしてやれる唯一のことなのか?」


ルカの声は震え、エマを失いたくない焦りがあふれていた。


エマは、ルカの強い視線を受け止めながら、きっぱりと言った。


「そうです。ルカ様がご自身をダメな人間だとおっしゃるのならば、私が、あなたをダメにした者を消し去ります。ですから、その代わりに魔女の復讐の呪いを私とともに消滅させてください。それが私からのお願いです。」


エマの瞳に宿る覚悟に圧倒されたルカは、諦めたように天井を見上げた。


エマとルカ、それぞれが抱えてきた孤独と諦めが、まるで磁石のように二人を引き寄せ、その魂を共鳴させたのだった。


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