第28話 ルカの哀しみの色

その日、エマはアッシュフォード伯爵邸を訪れた。ルカと一緒に絵を描くためだ。


邸宅の入り口に到着すると、「ようこそいらっしゃいました、エマ様」とメイドのセシルがいつものように笑顔で迎え入れてくれた。


「こんにちは、セシルさん。ルカ様はどちらにいらっしゃいますか?」と尋ねると、


「ルカ様は昨夜、ほとんど徹夜で作品創りに取り組まれており、今は仮眠を取っていらっしゃいます」とセシルが答えた。


「そうですか。ではルカ様が起きるまで待たせていただきますね。」エマはそう言うと、アトリエへと向かった。


そこでは、ルカが部屋の片隅にあるソファに横たわり、静かに眠っていた。


エマは、ルカを起こさないように、部屋の中を静かに見て回った。その空間は、まるでルカの内面を映し出しているかのようで、カオスと静寂が共存していた。


古びた本棚には、アートに関する書物や絵画集、スケッチブックなどが無造作に詰め込まれていた。


ルカがいつから絵を描き始めたのかは分からないが、壁や棚に立てかけられた作品や棚に積まれたスケッチの数から、彼が幼少期から絵に没頭してきたことが伺えた。


エマは、元の世界では水彩画を描いていたが、油絵には詳しくなかった。それでもいつか油絵を描いてみたいという願望を抱いていた。


絵の具で汚れた服のまま、無防備にソファで眠るルカの姿は、まるで遊び疲れて眠ってしまった子供のようだった。手や顔にも絵の具がついたままで、その無垢な姿が一層愛おしく見えた。


エマは、ソファの横にしゃがみこむと、そんなルカの髪を優しく撫でた。エマの悪い癖だった。元の世界で息子の髪を撫でていた時の記憶がよみがえり、自然と手が動いてしまうのだ。


息子の面影を重ねながらも、ルカには明らかに違う特別な感情を抱いていることに、エマはすでに気づいていた。


その時、ルカがゆっくりと目を覚ました。


「あ、ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」とエマは驚いて、思わず手を引っ込めた。


「エマ?ごめん。すっかり寝てしまっていた。起こしてくれればよかったのに」と寝ぼけた声で、目をこすりながら言った。


「いいえ、構いません。朝まで描いていらしたんですよね。お疲れだと思って」とエマは微笑んで答えた。


「ああ、そうなんだ。着替えてくるから、少し待ってて。」そう言うとルカは部屋を出ていった。


しばらくすると、ルカが、紅茶とクッキーを運んできたセシルと一緒に戻ってきた。


その紅茶の甘い香りと、クッキーのバターが溶けたような芳しい香りが、アトリエの空間をふんわりと包み込んだ。


「これは、セシルが作ったクッキーで、すごくおいしいんだ」とルカが嬉しそうに言うと、


「サクサクしていておいしそうですね。遠慮なくいただきます」とエマがセシルに笑顔を向けた。


「お気に召していただけると嬉しいです」とセシルはにっこりと答えた。


二人で紅茶を飲んだ後、エマは、油絵を描く準備に取り掛かった。


エマが選んだ題材は、すずらんだった。


セシルが摘んできてくれたすずらんの花が花瓶にさされ、すでに机の上に置かれていた。


エマがすずらんが好きな理由は、その花が持つ矛盾した二面性だった。


すずらんの花言葉は純粋や幸せの再来。聖女の涙をイメージさせる可憐な雰囲気を持つ一方で、猛毒を持つという邪悪な一面もあった。そのギャップにエマは強く魅かれたのだった。


ルカから基本的な技術を教えてもらうと、早速描き始めた。


「初めてにしては、なかなかいいじゃないか」とルカはその様子を覗き込みながら言った。


「ありがとうございます」とエマは少し照れくさそうに答えた。


エマが絵を描いている間、ルカは、じっと遠くを見つめていたが、やがてぽつりとつぶやいた。


「絵を描いていると、時々どうしようもなくダメな自分をつきつけられる時があるんだ。」


その言葉に、ルカの抱える苦悩が痛いほど伝わってきた。


「誰にだって、ダメな部分はあります。私だってそうです」とエマはルカを励まそうとしたが、彼は苦笑して首を横に振った。


「俺のダメさは、救いようがないんだよ。」


そう言い放つと、自分の過去について静かに語り始めた。


「俺、実は孤児だったんだ。6歳の時にアッシュフォード伯爵の養子になったんだ。」


ルカの衝撃的な生い立ちを知り、エマは言葉を失った。


「孤児だった頃は、ひどい扱いを受けてきたけれど、養子になった後のことを考えれば、それでも天国みたいなものだった。


あのころは今より子供が簡単に死んでしまう時代だったから、伯爵は、後継者の死を避けるための魔術的な理由で、俺を養子にしたんだ。要するに生贄だ。」


ルカの表情が曇り、内に秘めた苦しみが一層色濃く現れた。


「俺は、伯爵の性的な対象にされ、ここでは言えない嫌がらせを受けてきた。中身はどうあれ、外見だけは子供のころからよかったからね。美少年ってもてはやされたんだ」とルカは悲しげに微笑みながら続けた。


「伯爵は権力を振りかざしてやりたい放題だった。そんな伯爵を見限って、夫人も屋敷を出ていった。俺だって、本当に嫌ならば逃げ出せばよかったんだ。でも狂った性癖の大人たちに食い物にされても、人生そんなものだって、割り切って生きてきた。伯爵の操り人形として踊らされながらも、楽しければいい。人生の意味や価値なんてどうでもいいと思ってたんだ。


みんな外見だけで俺に近づき、利用しようとしたし、俺も彼らを利用してきた。金にも女にも困ったことなかったし、遊びたい放題だった。。。けど。。。」


ルカはエマをまっすぐ見つめながら、ゆっくり続けた。


「でもエマ、あの日、お前と出会って、哀しそうだって言われた時、急に自分の生き方が恥ずかしくなったんだ。ずっと目をそらしてきた自分の弱さを突き付けられた気がしたんだ。」


その声には、これまでルカが押し殺してきた感情がにじみ出ていた。


ルカの瞳の奥に宿る哀しみの理由が、エマにはその時、ようやく理解できた。


以前、高熱に苦しむルカを看病した時に見た身体中のあざの意味も。


そして孤児に対して冷たく突き放した態度の理由も。


エマはただ黙ってルカの手にそっと自分の手を重ねた。彼の告白の重さを感じ取りながら、そのすべてを受け止めようとしていた。


6歳の子供が耐え抜くには、あまりに過酷な現実。それがどれだけルカの心を蝕み、傷つけてきたか。過ちだと分かっていながら堕ちていく彼を誰が責められるだろうか?


エマの心には、ルカを傷つけ続けてきた伯爵への憎しみがじわじわと湧き上がってきた。


それは、社会の悪を正したいという単なる正義感からではなく、大切な人を苦しめてきた者に対する復讐心からだった。


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