第25話 エマに忍び寄る過去の影

月末のカフェは普段よりも静かで、訪れる客もまばらだった。カフェメンバーもそれぞれの用事で職場を離れていた。


ニコレッタは娘に会うために母親の家に帰省し、ソフィアもかつて仲たがいしていた母親と和解し、久しぶりに観劇に出かけていた。レオとロランは、かつて過ごした孤児院の院長の送別会に参加していた。二人は同じ孤児院出身だった。


アルベールは、3階の事務所でたまった会計の事務作業に追われていた。


カフェが閉店時間を迎え、エマは最後の客を見送ると静まり返った店内で一人、閉店作業を始めた。


すると最後の客と入れ違いになるようにして、大柄な男が店内に入ってきた。


エマは不意の来客に一瞬驚いたが、「申し訳ありません、もう閉店時間なんです」と申し訳なさそうに声をかけた。


すると、その男は無言でエマに近づき、取り出した刃物をのど元に突き出すと、強引に押し倒した。


助けを求めようにも男に口をふさがれて、悲鳴を上げることもできなかった。


エマは必死に抵抗するが、男の腕力は圧倒的だった。エマはどうにかして逃げ出す方法を考えようとしたが、あまりの恐怖に頭の中は真っ白になった。カフェの制服は無残に刃物で引き裂かれ、絶体絶命の状況に追い込まれていた。


その時、幸運にもルカがカフェに現れた。エマに依頼されていた絵画を届けに来たのだった。


一瞬で状況を把握したルカは、鋭い目つきで男をにらみつけた。


「エマから離れろ!」という怒声がカフェ内に響き渡り、男も驚いて一瞬手を緩めた。その隙にルカは、護身用のステッキから素早く短剣を抜くと、男に向けて突き出した。


その素早い動きに、男も少しひるんだが、すぐに反撃してきた。ルカは冷静に男の手首を叩き、刃物を弾き飛ばすと、逆手に持ち替えた短剣で男の脇腹を切りつけた。男は苦痛に顔をゆがめながら、バランスを崩して床に倒れ込んだ。


ルカの動きは的確で無駄がなく、剣術の訓練を受けていることは明らかだった。


男を押さえつけながら、ルカは「エマ、大丈夫か」と心配そうに声をかけた。


床に座り込んだエマは、「はい、大丈夫です」と答えたものの、その顔はショックと恐怖の色で血の気を失っていた。


その時、ルカの目に、エマの胸元にある紫の刻印が飛び込んできた。それはただのあざや傷ではなく、何か特別な意味を持つ印に見えた。


「何があったんだ?」物音を聞いたアルベールが3階から急いで降りてきた。


「暴漢だ。何か縛るものをくれ。それとすぐに警官を呼んでくれ」とルカが叫んだ。


アルベールはルカにひもを渡すと、すぐに近くの警察ボックスへと向かった。ルカは、ひもを受け取ると、素早く男の手足をしっかりと縛り上げた。


「もう、大丈夫だ」ルカはすぐにエマの元に駆け寄り、震えている彼女の肩に自分の上着をそっとかけ、優しく抱きしめた。ルカのぬくもりに包まれて安心したのか、エマの目からはこらえきれない涙が一気にあふれ出した。


やがて到着した警官の一人が男を連行すると、一緒に来ていたヴィクターが、「大変だったな。辛いところ申し訳ないが、何があったか話してくれないか?」とエマに優しく尋ねた。


一通り話を聞いたヴィクターは、「捜査が進展したらすぐに連絡する。絶対捕まえてやるから」と言って、去っていった。


エマが2階の自室で着替えている間、アルベールは、彼女を落ち着かせるため紅茶を淹れてくれた。


着替え終わり、少し冷静になったエマはカフェに戻ると、「ルカ様、助けてくださって本当にありがとうございました」とお礼を言った。エマはまだ動揺しており、その声はか細く弱々しかった。


エマが無事だったことで安堵したものの、紅茶を淹れるアルベールの表情はこわばったままだった。


3人はテーブルの席に着き、紅茶を飲みながら気持ちを落ち着かせた。


「カフェの慈善活動を快く思わない連中の犯行か、それともエマに個人的な恨みを持つ者の犯行か。とにかくセキュリティの問題を含め、対応を考えた方がいいだろう」とルカが提案すると、アルベールも「早急に対応するつもりです」と同意した。


ルカは、暴漢の正体が気になる一方で、エマの胸元にあった紫色の刻印のことがどうしても頭から離れなかった。


強姦事件の犯人が特定されると、ヴィクターは、事件の詳細を秘密裏にエマたちに伝えるため、カフェ3階にある事務所を訪れた。


カフェが閉店すると、アルベールは、カフェメンバー全員を事務所に集めた。


当日、外出していたメンバーたちは、エマが襲われたことすら知らなかったため、まずはその夜、何が起こったかを説明した。


説明を聞いたメンバーたちは、かなり動揺し、誰もが言葉を失っていた。


静まり返った部屋の中で、ヴィクターが静かに口を開いた。


「これまでの捜査で判明したことだが、今回の事件の黒幕はコルデー子爵だ。実行犯はその用心棒を務めていた男たち。事件当夜、客を装った男が、エマがカフェに一人でいることを見届けた後、もう一人に合図を送り、エマを襲わせたというのが実情だ。」


「コルデー子爵。。。」犯人の名前を聞いたアルベールの顔色が変わった。


エマも動揺を隠しきれない様子だった。


「ああ、エマの父親である、あのコルデー子爵だ」とヴィクターが重々しい口調で言った。


エマとコルデー子爵の関係を知るカフェメンバーたちも、その名が告げられると一斉に息を飲んだ。


ヴィクターの見解は大方、次のようなものだった。


プチ・ぺシェによる慈善活動が大々的に報道され、エマの存在が世間に知られるようになると、コルデー子爵の中で、自分の過去の悪事が暴露されるのではないかと焦りが募った。


さらにノアやルカ、シャルロットといった伯爵家とエマが親しくしていることも不安の種だった。貴族のコミュニティ内での自分の立場が危うくなるのを恐れた子爵は、エマを脅威と見なし、その口封じを図るため、用心棒を使って彼女を襲わせたのではないか、とヴィクターは推測していた。


今回の強姦事件は、子爵の焦りと疑心暗鬼が生んだものであり、彼の冷酷さが色濃く反映された計画的な犯行だったのだ。


ヴィクターの話をじっと聞いていたエマは、「子爵の仕業だったのね」と一言つぶやいただけで、思いの外、冷静だった。


しかし、エマの瞳の奥には、母親と自分を苦しめた父親への恨みが、過去の辛い記憶とともに蘇っていた。


次の獲物はおまえだ、エマはそう心の中でつぶやくと、いつか果たそうと思っていた父親への復讐を果たす決意を固めたのだった。


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