Chapter 1-16

 さて、私が前世の記憶を思い出して二日目。

 朝のホームルームが終わり、ようやく本格的な学校生活が始まる訳なのだけれども。


 ……帰りてー。帰ってゲームしたい。ネット小説読みたい。


 ちょっとブルーな気持ちになって教室へ戻って来た私は、そりゃあもう全力全開で引きこもり根性を爆発させていた。おうちかえりたい。

 いくら転生した私と幸宮祈里ゆきみや いのりの人格が都合よく融和したようでも、前世の引きこもり生活で染み付いた怠け癖はそうそう簡単には抜けてくれないようだ。


「はぁ……」


 思わず溜め息が零れてしまう。

 アンニュイだ。

 心の雨がしとしとと降り続ける。

 暗い小部屋で、窓を叩く雨音を聞く。

 雨は止まない。


 って、なんだこのポエムは。止め止め、黒歴史まで作ってどうする。私は首を横にぶんぶん振って、今の心のポエムを忘れる。


「大丈夫か、祈里」

拓篤たくま君……」

「……祈里?」


 そんな私の席まで拓篤君がやって来た。私が顔を上げて拓篤君を見上げると、拓篤君は心配げに私の顔を覗き込む。

 どうかしたのかなと思って、私は数瞬考えた後、得心する。人前で挨拶もせずにボーっとしているなんて、幸宮祈里らしくない。


「ごきげんよう、拓篤君」

「とてもそうは見えないがな。体調が悪いなら保健室に行った方がいい。付き添おう」

「いえ、大丈夫ですわ。最初の授業ですから、少し緊張しているだけですのよ」

「……そうか。あまり気負い過ぎてもよくない。深呼吸するなりして、リラックスするといい」


 そう言って、私をリラックスさせようと微笑む拓篤君にキュンときそうになる。

 楓翔院ふうしょういん拓篤。攻略対象としての彼の魅力は、なんと言ってもその完璧超人っぷりである。生まれ、容姿、頭脳、運動能力、性格とどれを取っても理想の殿方と言える徹底的な完璧ぶり。

 今目の前にいる拓篤君にも、その片鱗は窺える。クールな立ち振る舞いとは裏腹に意外と気さく。誠実で優しく、真正直。多少感化されやすいようだけれど、まだ中学生だと考えれば可愛げがある。


 幸宮祈里は、そんな彼との関係を巡るライバルとして登場するキャラクターであるからして、彼に負けず劣らずの完璧超人に設定されたのだそうだ。この辺は設定資料集である『恋なんてした事がない君へ』スペシャルガイドブックに詳しい。

 ただ、問題は幸宮祈里には典型的な悪役令嬢の役割も求められた為、性格の方がかなり悪くなってしまった事だ。それが災いして、楓翔院拓篤の婚約者であったにも関わらず、幸宮祈里は見限られて没落の一途を辿る事になる。


 同時に、純花すみかの将来が頭をよぎって、どうかああはなりませんように、と願った。

 私は聖護しょうご×純花以外は認めません。カプ厨上等。


 もちろん、立瀬たつせ純花の他にも主人公と恋敵になる女の子はいる。その子たちが没落しない為にも一番手っ取り早いのは、私が没落してしまう事だ。主人公と楓翔院拓篤がくっ付いてしまえば、少なくとも他の子たちが泣きを見るのは防げる。

 けれど私だって没落自体はご免だと何度も言っている。だから結局、私にできるのは友達の恋が成就するのを願いつつ普通の学校生活を送っていく事だけだ。


 その結果、拓篤君に恋したって仕方ないじゃない。

 拓篤君が私の事を気に入ってくれているのは、昨日の一日だけでよく分かっている。でも、それは最初からだった。拓篤君は今の私だけでなく、以前からの幸宮祈里の事も気に入っているんだ。昨日再会したばかりの時の言葉から、それは明らかになっている。

 そのお陰で、私の気持ちは今、拓篤君に揺れ動きそうになっている。


 でもここでふと、お兄様の姿が思い浮かんだ。同時に朝の一件を思い出して、またアンニュイな気分になりかける。

 ああ、もう。なんで私がお兄様の事でこんな気分にならなきゃいけないんだ。お兄様の事なんてぜんぜんこれっぽっちも……頭の本当に隅の隅の隅の方でなら……気に、ならなくもないけど。


「本当に大丈夫か?」


 ふと気付くと、拓篤君の顔がものすごく近くにあった。同時に、額にひんやりとした感触。


「……少し熱いな。やはり体調不良なんじゃないか?」

「だ、大丈夫ですわ」

「いや、だが……」

「大・丈夫・です」

「……分かった。調子が悪くなったらすぐに言ってくれ」


 私が語気を強めて言うと、拓篤君は渋々自分の席に戻って行った。ごめんね、拓篤君。でも、今の私にはあなたとおでこをくっ付けるとか威力高過ぎです。


 あと、目ぇキラキラさせてこっち見んな、そこのゆるふわパパラッチ眼鏡。

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