Chapter 1-14

 なんか意外だった。安易な慰めとか応援はしなさそうだとは思っていたけれど、そうきたか。『恋君』で純花すみか聖護しょうご君の間に何があったかまでは、高等部からの付き合いになる主人公には分からなかった。形は多分、かなり変わっているだろうけれど、私はそれを目の当たりにしている。

 だから、二人が上手くいく事だけは知っている私は、このまま静観する事にした。それに、今の言葉が決して軽い気持ちからのものではないのは、聖護君の表情を見れば分かる。


「純花ちゃんが昨日、もう絵を描くつもりがないって言った時、なんであんなに気になったのかよく分かったよ。僕もピアノを弾く父さんの姿を見ている内に、自然と弾き始めてた。初めてピアノを弾いた時、父さんがそれまでで一番嬉しそうに笑ってくれたのは今でも覚えてる。父さんが笑って褒めてくれるから、僕はピアノを弾き続けられるんだと思う」


 聖護君は遠くを見ていた。見ているのはきっと、自分の過去。


「父さんがいなくなったらピアノを弾けなくなるんじゃないか。そう思って怖くなった事は一回や二回だけじゃないよ。始めた頃の演奏なんて、そんなに上手いものじゃないに決まってるのに、父さんはいつも褒めてくれた。……けど、父さんが褒めてくれなくなったら、それでも弾き続けられるかどうか、自信がないよ」


 聖護君は苦笑いする。『雷光の貴公子』の息子で、数々のピアノコンクールで入賞している彼ですら、そんな決してないとは言い切れない未来が怖いのだ。


「でも、思うんだ。本当にそうなったとして、簡単に辞めてしまえる程、僕にとってピアノってそんなに軽いものなのかなって。僕はそんなに簡単に、ピアノを諦められない気がするんだ」

「……なら、いいじゃない。あなたは前を向けるもの。私にはもう、絵を描ける気がしないわ」

「でも、描きたいんでしょ?」

「それは……、そう、だけど」


 純花は、右手で左の二の腕を掴み、俯く。

 聖護君の言葉に頷く形だったけれど、ようやく純花の口から描きたいという気持ちが聞けた。聖護君もそれに喜んだようで、微笑む。


「なら、きっとそれだけで充分なんだよ。僕も諦めが付かないだろうなっていうだけで、すぐにピアノに向き合えるかどうかは分からないよ。……できない時にはできないし、無理にやったとしても、自分の納得がいくものができなくて、余計に苦しいと思う」


 努めて笑顔で、聖護君は続けた。


「根を詰めてる時に気分転換が必要なのと同じだよ、きっと。だから、今は休んでもいいと思う」


 聖護君はここで言葉を切る。言いたい事はもうないみたいだ。

 私と聖護君は、純花を見つめて彼女の答えを待つ。


「……そうね。言われてみれば、そういう考え方もあるか」


 ふう、と純花は大きく息を吐く。次に上げた顔は、見ているこっちが驚くほど晴れやかだった。


「ありがとう、二人とも。ちょっと考え直してみるわね。……それにしても、これじゃあまた部活までに悩みを書き直さないと」

「なければないでいいんじゃないかな」

「それもそうよね。ないに越した事はないんだし」


 ふふっ、と聖護君と純花は笑い合う。

 さて、二人の間にどことなく甘い空気が流れ始めて、ここまで黙って見てきた私の存在がいよいよ必要なさそうな雰囲気である。大丈夫だよ、若いお二人の為なら空気に徹しますよ、あたしゃ。


 ともかく話はこれで終わりだ。教室へ戻るべく並んで歩き始めた二人の後ろに、私はそっと付いていく。


「なに朝っぱらからしょぼくれた顔してんだよ、祈里いのり

「お、お兄様!?」


 中庭から廊下に戻った時、そんな私に背後から声が掛かった。素っ頓狂な声を上げて振り返ると、そこにはお兄様の姿があった。


桃園ももぞの先輩、おはようございます」

「おっす。ちょっと祈里借りてってもいい?」


 振り返って挨拶する二人に、お兄様は軽く手を挙げてそう返す。いや、借りてくって物じゃないですからね、私! っていうか返事も聞かずに首根っこ引っ張らないであと予鈴がもうすぐ鳴るから遅刻するから!!


 という心の叫びも虚しく、私はお兄様に拉致られるのでした。

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