第二話「崩壊」
「叔父さん、あんまりキョロキョロしないで」
「うっ、ご、ごめん……」
美佳にピシャリと叱られて、一郎は思わずうなだれた。これではどちらが年上か分かったものではない。
――二人が今いるのは、救世山駅前の商業ビルの中にある高級中華料理店だ。ゆったりとした個室が売りらしく、二人が通された席も広々としていて、なんだか落ち着かなかった。
メニューに並ぶのは最低でも四桁の料理ばかりで、町の定食屋かファミレスくらいでしか中華を食べてこなかった一郎には未知との遭遇だった。酒などは物によっては「時価」と書かれていて、とても怖くて値段を訊けない。
「まだ酒が飲めない体で良かった」等と、一郎は少し錯乱気味に思った。
「安心して。私、そんなに食べないから」
「お、お金は心配しなくていいぞ! まだ若いんだから、沢山食べなさい」
「……話が通じない」
美佳が吐き捨てるように呟いて、小さくため息を吐く。「流石に今のはうざかっただろうか」と、一郎は意気消沈した。
――一郎が美佳に「たまには食事でもどう? なんなら、中川先生も一緒に」と連絡したのが数日前。最悪返信すらないことを覚悟した一郎だったが、意外にも美佳からの返事は「おごりなら」だった。
その際、美佳が指定してきたのがこの店だった。いかにも高級店でございといった店構えの時点でオドオドしていた一郎に対して、美佳は慣れた様子で堂々としていた。
「この店、よく来るのか?」
「たまに」
「やっぱり、中川先生と?」
「違うよ。……ママと。お祝い事の時にだけ」
「――そうか」
二人の間に沈黙が降りる。美佳がメニューをめくる音が忙しなくなったのは、苛立ち故だろうか。一郎は自分の浅はかさに胃が痛くなる思いだった。
そのまま、壁越しに聞こえてくる近くの席の賑やかな声だけが当てつけのように聞こえてくる時間が過ぎていく。
「……決まった?」
「い、一応」
「じゃ、ボタン押して」
「ボタン……? あ、これか」
美佳に促され、テーブルの上に置いてあったチャイムのボタンを押す。ファミレス等によくあるアレと同じものだろう。高級店でもこういうところは変わらないのかと、一郎は少しだけ頬を緩めた。
程なくして、熟練のホテルマン並に洗練された動きのウェイターがやってきて注文を取り始めた。美佳はレディースセットを、一郎は悩んだ末に担担麺を頼んだ。
二人合わせて一万円行かない額だったが、ウェイターは当然のように嫌そうな顔などする訳もなく、丁寧に注文を復唱して下がっていった。
「……担担麺、好きなの?」
「えっ? あ、ああ。結構」
「そこはママと一緒なんだね」
優子のことを思い出したのか、美佳の頬が僅かに緩む。どうやら、少しは機嫌を直してくれたらしい。
「姉貴は……君のママは、相変わらず辛い物が好きだったのか?」
「そうだね。この店だと担担麺以外にも麻婆とかよく食べてた。でも、激辛が好きって訳じゃなくて」
「カレーも精々中辛?」
「そうそう。初めて入ったカレーのお店で中辛頼んだら他の店の激辛くらいの辛さで、泣きながら完食してたこともあったよ。ええと……ほら、これ」
美佳がスマホの画面を向けてくる。大きな丸テーブル越しにそれを見やり――一郎は絶句した。そこには、涙目になりながら空になったカレー皿を自慢気に見せつけている、四十路の優子の姿があった。
――一郎の両親と姉の写真は、あまり残っていない。精々が、マンションに残されていた美佳も含めて撮った「家族写真」が数枚程度だ。他にも沢山あるのかもしれないが、一郎が目にしたのはプリントアウトされている物だけだった。
デジカメのメモリーカードさえ発掘出来れば、もっと沢山の写真が見付かるのだろうが、今の一郎には段ボール箱を開けて中身を検めることさえ大仕事だ。残念ながら、まだその類は見付けていなかった。
「ははっ、姉貴、全然変わってないじゃん……」
「叔父さん?」
訝しがる美佳から目元を隠すように俯く。いつしか一郎の目には涙が溢れ、今にも零れ落ちそうだったのだ。遥か年下の姪が気丈にふるまっているのに、叔父である一郎が先に涙を見せる訳にはいかなかった。
***
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
程なく運ばれてきたそれぞれの料理を、一郎と美佳はほぼ同じタイミングで完食した。
味の方は高級店だけあってか、非常に上品な味だった。量も少なめなので、未だリハビリ途上の一郎には丁度良い。
ふと時計を見ると、まだ12時を少し回ったところだった。個室の外から聞こえてくる他の客の醸し出す雑多な音は、いよいよその勢いを増している。相当に繁盛しているらしい。この店には美佳の提案で開店と同時くらいに入ったのだが、なるほど、その理由がよく分かった。
窓の外に目を移すと、遠く箱根の山々が見て取れた。もう少し角度が違えば、きっと富士山が奇麗だろう。もしかすると、この眺望も人気の一つかもしれない。
「――で、叔父さん」
美佳が、食後のウーロン茶で潤った唇で呼び掛けてくる。そこに、先程までの少しだけ柔らかくなった雰囲気はなく、またいつもの冷たさを湛えていた。
「今日はどんな用で私を呼んだの?」
「用なんてないさ。ただ、姪っ子と少しでもいいから距離を縮めたいって、叔父心だよ」
「本当に?」
「本当さ。よく考えたら、ただ親戚ってだけのおっさんに、家族のあれこれを訊かれても、不愉快なだけだもんな。俺の配慮が足りなかった。今まで、ごめん」
小さく頭を下げて、上げる。美佳の表情は、いつしかポカンとしたそれになっていた。その表情がまた優子とそっくりで、一郎は熱くなる目頭に活を入れて耐えた。
――正直なことを言えば、一郎の言葉は半分は本当で、半分は嘘だった。
今まで、美佳に対して不躾な質問をしていたと思ったのは本当だ。だが、一郎は優子と椛田の間に何があったのか、一刻も早く知りたいと思う気持ちを捨ててはいない。
しかし、今までのように美佳を問い詰めたところで埒が明かないと判断したのだ。
そこで、こう考えた。「まずは美佳の信用を得るべきではないか?」と。未だ理由は知らないが、美佳の一郎に対する信用は最低レベルだ。まずはそれを是正しなければ、と思ったのだ。
だからこうして、一緒に食事をするなど、まずは普通の親戚付き合いから始めてみた、という訳だった。
「……なるほどね。叔父さんも、少しは頭を使うようになったってこと」
「えっ?」
「太陽と北風、かな?」
美佳の言葉に思わずドキッとする。「太陽と北風」とは、言わずもがな例の寓話のことだろう。――一郎の目論見は、一瞬にして美佳に見透かされていたようだ。
「その顔、当たり、だよね。あーあ、純粋に叔父とのランチを楽しむ姪の純情を利用しようとするなんて、酷い人だよね、叔父さんは」
「い、いや! 美佳ともう少し仲良くなりたいというのは本当で――」
「いいよいいよ。叔父さん、ある意味ピュアだもんね。騙そうとかそういうつもりじゃないってのは、見てれば分かるから」
珍しく悪戯っ子のような笑みを浮かべる美佳。どうやら、一郎に対して不愉快になったとか、そういうことではないらしい。一郎はほっと胸をなでおろした。
だが――。
「叔父さんの努力に免じて、話してあげてもいいよ? ママとあいつに何があったのか。でもさ、叔父さん……聞いて、後悔しない? 私が言いたくないのにも理由があるって、分かるでしょ?」
美佳のその言葉に、一郎の思考が凍り付く。今、美佳は「聞いて後悔しない?」と言った。今まで一郎は、美佳自身にとって不愉快な話題だから話してくれないのだとばかり思っていた。だが、違うらしい。優子と椛田との間で起こったことは、一郎にとって衝撃的な内容であるようだった。
「……俺が聞いて後悔するような話なのか?」
「うん、確実に。私にとっても不愉快すぎる話だし、出来れば口にもしたくない。でも――お人好しの叔父さんが、これ以上あいつに利用されない為には、私が話さないと駄目なんだろうね。ホント、最悪だけど」
美佳が、深く大きなため息を吐く。飄々とした態度を崩していないが、その両手は僅かに震えていた。
「それでも、聞きたい? 叔父さんも、私も、どっちも傷付くと思うけど」
美佳のその、核心的な問いかけに――気付けば一郎は頷いていた。
「そう――。まあ、正直でよろしい」
美佳がウーロン茶を一口含む。つられて、一郎もウーロン茶を飲む、店の中は相変わらず騒がしいが、防音が利いているのか会話の内容までは分からない。
一つ大きく深呼吸をしてから、美佳は再び口を開いた。
「叔父さんはさ、デートレイプって知ってる?」
「デート……レイプ? いや、知らない。でも、物騒な言葉だな」
まだうら若い乙女の口から「レイプ」等という過激な言葉が飛び出し、一郎は思わずギョッとしてしまった。
「じゃあ、問題。夫婦や恋人同士の間でも、レイプは成立するでしょうか?」
「な、なんだよ急に」
「いいから、答えて」
美佳の表情は真剣そのものだ。凄みのようなものさえある。一郎は仕方なく、少し考えてから答えを口にした。
「法律的な話は知らないけど、成立するんじゃないのか? 夫婦や恋人って言っても、仲がこじれてたり喧嘩してたりする時に……その、無理矢理しちゃったら、駄目だろ」
少しの気恥ずかしさを感じながらも、一郎が何とか答える。美佳はその答えを聞くと、満足そうに頷いた。
「私の中で叔父さんの株がちょっとだけ上がったよ」
「そりゃどうも。じゃあ、正解か?」
「うん。去年法律が変わってね、夫婦や恋人同士であっても、強制や不同意のセックスは罪に問われやすくなったの」
あっけらかんと「セックス」と口にする美佳に、むしろ一郎の方が照れてしまう。これも世代の違いかもしれない。
「それで、その……デートレイプ、が――」
「何の話に繋がるんだ?」と尋ねようとして、一郎は自分の愚かさに呆れ果てた。そんなもの、一つしかないではないか、と。
「流石の叔父さんも気付くよね。うん、そう。あいつは最低のことをしたんだよ」
吐き捨てるように、美佳が椛田の罪を暴き始めた。
一郎が聞いていた通り、椛田は一郎の介護で疲弊する優子にそっと寄り添い、その信頼を得ていった。とはいえ、それで簡単に男女の関係になるほど優子の貞操観念は低くなかった。恋人同士になったのは、椛田が強く迫ったからだった。
恋人同士になっても、優子は「お互いの信頼関係が築けてから」と、中々体を許さなかったらしい。けれども、椛田は性急に事を進めようと――最低の方法を取った。優子に強い酒ばかりを勧め、前後不覚になったところで手籠めにしたのだ。
「ふ、普通に犯罪じゃないか!」
「そうだね。当時の法律でも、酔わせて……っていうのは、アウトだったかもね。でもね、警察沙汰にはならなかったんだ。なんでか分かる?」
あまりにもおぞましい事実に混乱しながらも、一郎は静かに首を横に振った。
「ママは警察に被害を訴えようとしたんだって。でもね、それをおじいちゃんが止めたらしい」
「親父が? まさか……娘が酷い目に遭わされて、黙ってるような人じゃなかったはずだぞ!?」
「……叔父さんも知ってるよね、あいつの実家がお金持ちだってこと。あいつ自身も色んな権利持ってて、お金には困ってないって。おじいちゃんはね、そこに目を付けたらしいの」
「目を付けたって……まさか、脅したのか?」
「そうだね、ある意味脅したんだと思う。『きちんと責任を取れ』って籍を入れさせて、自分の病院にも出資させて、ママが妊娠してるのが分かってからは、将来的に孫に少しでも多くの財産が行くように、色々やったらしいよ」
「そんな……」
厳しくも優しい、家族思いだった剛堂のイメージが一郎の中で音を立てて崩れていく。娘が体を汚されたというのに、それを利用して相手の財産を手中に収めようとする。まるで別人としか思えなかった。
「私もこの話は、大きくなってからママとおばあちゃんと、中川先生から聞いた。中川先生はママの味方をしてくれて、おじいちゃんに反対したらしいけどね。おじいちゃんは聞く耳持たなかったって。なんでか分かる? おじさん」
「いや……。俺の中の親父は、そんなことをする人じゃなかった。なんでそんなことを」
「それが分からないのが、なんとも叔父さんらしいよね。叔父さん、ちょっと考えれば分からない?」
呆れたような表情の美佳。しかし、その手は血が滲むほどに強く握られ、小刻みに震えていた。そこに込められた感情はきっと、怒りであり嘆きであり、悲しみに違いなかった。
そして、次なる美佳の言葉が、一郎の心を完全に打ち砕いた。
「おじいちゃんはね、少しでも沢山お金が必要だと思ってたんだよ。――叔父さんの為に」
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