第四章「復活」

第一話「ふりだし」

 急流沿いの河原は大小の石で埋め尽くされており、足元が悪い。ほろ酔い状態の一郎は転んでしまわぬよう、一歩一歩確かめながらその中を進んでいた。河原は狭く、足を一歩でも踏み外せば激流に身を躍らせてしまうことになる。

『一郎くん、大事な話があるの』

 弥生が他のメンバー達の目を盗むように囁いてきたのは、バーベキューを楽しんだ後のことだった。「旅行中にわざわざ話さないといけないことってなんだろうか?」と訝しがりつつも、一郎は待ち合わせ場所である河原へとやってきた訳だ。

 その弥生は、えっちらおっちらと歩いてくる一郎に目を向けることもなく、激流に目を落としていた。――何故だか嫌な予感がした。

「弥生、来たぞ。それで、話って何なんだ?」

「一郎くん……」

 振り向いた弥生の瞳は僅かに濡れていた。その目に湛えているのは、紛れもない悲しみの色だ。ならば、大事な話というのは――。

「あのね、一郎くん。……この一年、私達って恋人同士らしいことは、殆どしてこなかったじゃない」

「……そうだな。ごめんな、俺、仕事仕事で弥生のこと放っておいて。おまけに一人で頑張りすぎて自滅して……心配かけたよな」

「謝らないで。一郎くんが大変だったことは分かってるから。むしろ、謝るのは私の方よ」

 瞳を伏せながら、弥生が一歩、一郎の方へと歩み寄る。更に一歩、もう一歩と、ゆっくりと。そして、一郎の胸板にコツンとぶつけるように額を押し付けてきた。

「弥生……?」

「ごめんね一郎くん――君は、もういらないの」

 ドンッ、と。僅かな衝撃が一郎を襲った。弥生に突き飛ばされたのだと気付いた時には、一郎の身体は激流へと――。


 ――目を開けると、常夜灯のオレンジ色の光が鈍く視界を照らしていた。

 きょろきょろと辺りを見回すが、当然ここは河原ではない。一郎の自室のベッドの上だった。

 背中には脂ぎった汗がべっとりと張り付いており、心臓は早鐘のように鼓動を刻んでいる。

「……なんて夢だよ」

 豪くリアルで残酷な夢だった。昏睡から目覚めたばかりに見た「昔の記憶」と同じく、鮮明で現実感のある夢だったのだ。

 だが、今見た夢はきっと現実に在ったことではなく、一郎の無意識が見せたもの――のはずだ。あまりにもナンセンスだった。

「そもそも、俺を慰める旅の途中で俺を殺す必要がないんだよ……。あんなシチュエーションじゃ、真っ先に弥生が疑われるだろうし」

 自分に暗示でもかけるように、一郎は今見た悪夢のナンセンスさを確認した。恋人と別れる為に相手を殺していたら、世の中の墓の数は倍以上になっていることだろう。

 こんな悪夢を見たのは、言わずもがな椛田から聞いた衝撃の事実のせいだった。

『あの二人は……弥生ちゃんと代田くんは、二十年前のあの旅行の前から、デキてたんだよ』

 一郎にも思い当たる節が無い訳ではなかった。悪夢の内容自体は妄想だが、ある部分だけは真実だったから。

 就職してからの一郎は仕事にかまけて、弥生との時間を作ることをサボっていたのだ。弥生は弥生で看護師という激務に従事していたし、ある程度のすれ違いがあるのは仕方がない。だがそれ以上に、一郎が弥生に甘えた部分が大きかった。

 そんな状況の中で、今度は体を壊し、会社で窓際に追いやられてからは精神を病み、そのまま無職になった。それでも弥生は、献身的に一郎を支えてくれた――ずっとそう、思い込んできた。

「俺、なんで弥生に愛されてる自信を持ってたんだろう」

 独り言ちるが、当然誰の返事もない。一郎の声を聞いているのは、山と積まれた段ボール箱だけだった。

 椛田から、弥生が自分を裏切っていた事実を知らされた当初、一郎はその話を信じようとしなかった。今も看護師として献身的に支えてくれている弥生が、そんな手酷い裏切りをしていたなど、とても信じられなかったのだ。

 だが――。

『一郎はさ、おかしいと思わなかった? あの旅行にも一緒に行っていた、御手洗くんと真田さん、それに塚原さんの三人が、一度も君のお見舞いに来なかったこと』

『それは……だって、疎遠になったんだろ?』

『うん、それは確かにそう。でもね、疎遠になったそもそもの理由は、弥生ちゃんにあったんだよ』

 そして椛田は話してくれた。河原で倒れていた一郎が病院へ運ばれると、驚くべき速さで代田が駆け付けたことを。弥生がその代田に縋りつくように抱きつき、嗚咽したことを。

 椛田も他の三人も、弥生と代田のその姿を見て、二人の関係に気付かないほど鈍くはなかった。

 その後、一郎は椛田に電話番号を教えてもらって、御手洗達三人と二十年振りに話すことが出来た。三人が三人とも、一郎の見舞いに行けなかった非礼を詫びると共に、弥生への罵詈雑言を口にした。

 最早、一郎は椛田の話を信じるしかなかった。

 しかし、分からないこともあった。椛田は何故、御手洗達三人のように弥生と代田との縁を切らなかったのだろうか、と。だが、その答えもすぐに分かった。

『僕もしばらくは弥生ちゃん達と絶縁状態だったさ。でもね、一郎はよりにもよって救世山総合病院に転院しちゃった。弥生ちゃんの職場である、あの病院に。弥生ちゃんが悪さをするとは思わないけど、やっぱりさ、誰かが見張らないと、ちょっと心配じゃない?』

 その言葉に、一郎は椛田が親友で良かったと、心の底から思った。


   ***


 夢見が悪すぎたからか眠気は全くなくなっていた。時計を見れば、まだ夜中の三時だ。朝まで起きているには、少々早すぎる。

「……コーヒーでも飲むか」

 呟きながら、ベッドサイドのハーキュリー1へと身を滑らせるように乗り移る。最初の頃は乗り移るのに失敗してベッドから滑り落ちそうになったものだが、今では何の苦労もなく出来るようになっていた。

 リビングへ向かう。外からは僅かに「ギャーギャー!」という何かの獣の声が聞こえてくる。一郎の記憶では、確かフクロウの雌のもののはずだった。最初に聞いた時は、何か四足歩行の獣の鳴き声だと勘違いしたものだ。

 夜中だというのに、煌々と明かりを点け、コーヒーメーカーのスイッチをオンにする。ついでに物寂しかったのでテレビの電源を入れてみたが、やっているのは謎の風景を延々と映し出す番組や通販番組くらいしかなかったので、すぐに消した。

 広い広いリビングに、コーヒーメーカーの動作音が響く。時折混じる鈍い低音は、冷蔵庫のものだろうか。

「……そういえば、中川先生のお土産のプリンがあるんだったか」

 ふと思い出し、冷蔵庫を開けると――あった。ビニール袋に無造作に入れられた、ガラス容器に入ったプリンが二つ。消費期限を見ると、今日までとなっている。どう考えても、中川は一郎と美佳の二人分として買ったに違いなかった。

 ――美佳。一郎の唯一の肉親。どうにか彼女ともう少し距離を詰められないかと悩んできた。だが、いつも暖簾に腕押しというか、一郎の独り相撲に終わっている。

 そもそも、美佳に嫌われているはっきりとした理由さえ、一郎はまだ知らないのだ。

 プリンを一つ取り出して、スプーンいっぱいに掬って口へと運ぶ。苦みの利いたカラメルの味が、一郎の体に染み渡っていった。


   ***


 ――名も知らぬ鳥の鳴き声に、一郎はふと目を覚ました。どうやら、プリンを食べ終えるや否や、ハーキュリー1に乗ったまま眠ってしまっていたらしい。

 ハーキュリー1にはオートバランサー機能がある。搭乗者が大きく姿勢を崩すと自動的にそれが働き、落下や転倒を防ぐというものなのだが、快適すぎるのも考えものかもしれない。先ほどまでの一郎のように、乗ったまま眠りこけてしまうことが増えてしまうだろう。

(別府さんに意見として伝えておこうかな)

 そんなことをぼんやりと考えていて、ふと思い出す。例の虫ピンの件は、一体どうなっただろうか? と。ドライブレコーダーの記録を調べてくれると言っていたのは、一週間近く前だ。少々時間がかかりすぎている気がした。

「直接電話で聞いてみるか?」

 ハーキュリー1の小物入れから管理用スマホを取り出す。このスマホには、サポートセンターの他に別府への直通番号も登録されている。週一回のビデオ会議以外で何かあれば、こちらへ気軽に連絡してほしいと言われていた。

 電話帳から「別府(直通)」を呼び出し、通話ボタンに指を伸ばす。――だが、その指は自然に止まってしまった。

「ま、いいか。何かあればあちらから連絡があるだろう」

 自分に言い訳するように呟く。ここ数日で、様々な「真実」が津波のように一郎に襲い掛かってきている。正直、疲れ切っていた。

 「もしハーキュリー1のタイヤに虫ピンを刺した犯人がよく知っている人間だったら?」ふとそんな考えが浮かび、真実を確かめる気力が失せてしまったのだ。

「考えすぎ……なんて言ってられないしな」

 弥生は「椛田の話は真に受けない方がいい」と言った。

 美佳は「弥生と椛田は信用出来ない」と言った。

 椛田は「弥生は二十年前に既に一郎を裏切っていた」と言った。

 まるで「誰が嘘を吐いているか」を当てる論理ゲームのようだ。

 弥生のことを信じれば、椛田の話は嘘ということになる。

 椛田の話を信じれば、弥生の言うことは当てにならなくなる。

 美佳の話を信じれば、弥生も椛田も嘘吐きということになる。

 ――尤も、椛田の場合は御手洗達という「証人」がいる。単純な信用度で言えば、頭一つ抜けていると言っても過言ではないだろう。

 しかし――しかし、一郎は誰も疑いたくなどなかった。

 弥生が一郎を裏切っていたのは確かなのだろう。そのことに怒りも覚えるし、同時に「仕方ない」とも思う。あの頃の二人の関係はきっと嘘だったのだろうが、今現在の看護師長としての弥生が嘘になる訳ではない。彼女の献身は本物だと信じたかった。

 美佳は、愛する姉が残した一粒種だ。いくら自分に心を開いていないからといって、信用しない理由にはならない。ただ一人の肉親のことを信じたかった。

 椛田は言わずもがなだ。確かに彼には欠点も多いが、一郎にとっては最も信頼出来る親友なのだ。信じる以外の選択肢がない。

 我ながら矛盾している、とも思う。だがなんとなく、「真実」は三人の話の中心にあるように感じたのだ。


 さしあたって、はっきりさせるべきことは五つ。

 優子の死は、本当に事故だったのか?

 椛田をつけ狙っているのは、一体何者なのか?

 ハーキュリー1のタイヤに虫ピンを刺したのは誰なのか?

 美佳は何故、一郎にあそこまで素っ気ないのか?

 優子と椛田が離婚した原因は何なのか? 美佳が父親を嫌う理由は?


「一つずつ、はっきりさせていくか」

 決意表明代わりに呟くが、あてがある訳ではない。ハーキュリー1の機動力をもってしても、一郎には行動の制限がある。あまりフレキシブルには動けない。

 けれども、だからと言って立ち止まってなどいられない。自分はただでさえ、二十年もの後れを取っているのだから。

「……まずは、可愛い姪っ子ともう少しコミュニケーションをはかってみますか」

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